仕えるために

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マルコによる福音書10章35〜45節

(2015.8.9)

参考資料

今回の箇所は、イエスさまが十字架にかかるためにエルサレムに向かう途上での出来事です。

平行記事であるマタイ20:20-28によれば、ヤコブとヨハネの母親が二人を連れてやって来て、今回の依頼をしました。

37節の「栄光の座」とは? 旧約聖書には、救い主はイスラエルの王として来られ、理想的な平和と繁栄の王国(福音書では神の国、あるいは御国と呼ばれています)を作られると預言されています。栄光の座とは、救い主が座る神の国の王座のことです。

37節で「ひとりは右に、ひとりは左に」と言われていますが、右の座は王に次ぐ高い地位の人が座る座。左はその次の座です。

38節の「わたしの飲もうとする杯」「わたしの受けようとするバプテスマ」とは、これからイエスさまが経験なさる迫害、苦難のことです。彼らはそれを受けることができると言いました。この時はその深い意味を理解していなかったようですが、実際、ヤコブは十二使徒最初の殉教者となります。そして、ヨハネは十二使徒の中で最も長生きしますが、それだけ長く迫害に苦しむことになります。

聖書からのメッセージ

イントロ

私たちは、どこかで必ずリーダーとしての立場に立たされます。上司は部下にとって、先輩は後輩にとって、親は子にとってリーダーです。夫婦や友だちのように立場上の上下関係がない場合でも、何かの意志決定をするときにどちらかがそれをリードします。今回の箇所を通して、リーダーの心構えを学びましょう。

1.神の国の地位

高い地位

ヤコブとヨハネの兄弟は、やがてイエスさまが神の国の王になられたとき、自分たちを高い地位に就けてくれるよう望みました。

ヤコブとヨハネ、あるいは他の弟子たちに対するイエスさまの言葉を見ると、「偉くなりたい」という願いそのものを否定はなさっていません。神の国において高い地位を得たいと望むことは、正しいことです。

神の国は、世の終わり、イエスさまが再臨なさった後に実現します。黙示録20章によるとこの王国は千年間続くので、「千年王国」とも呼ばれています。

では、神の国(千年王国)における地位はどうやって決まるのでしょうか。父なる神さまは、私たちが地上で生きている間に、どれだけイエスさまに忠実に従い、神さまのみこころを行なおうとしたかを評価なさいます。神の国における地位は、その評価に基づいて与えられます。これが「わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです」(40節)と書かれている意味です。

苦しくても忠実であれ

神の国での高い地位を求めたヤコブとヨハネに対して、イエスさまは「あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか」とお尋ねになりました(38節)。これは、これからイエスさまが大変な苦難に遭われることを表しています。

エルサレムに到着すると、イエスさまは弟子の一人に裏切られ、他の弟子たちにも見捨てられ、逮捕されて拷問を受け、不当な裁判で死刑を宣告されます。そして、十字架刑という恐ろしい方法で殺されてしまいます。

ルカ9:57-58で、ある人が自分からイエスさまに従いたいと申し出ました。すると、イエスさまは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」とお答えになりました。これは、イエスさまに従う人生は快適な船旅などではなく、犠牲を払うことを覚悟しなければならないということを表しています(5月31日のメッセージ参照)。

今回のイエスさまの指摘も、これと同じです。

クリスチャンになって救われるのは、ただ信じるだけです。イエスさまが自分の罪を赦すために十字架で死なれ、復活なさったと信じる以外、何の行ないも必要ありません。しかし、クリスチャンであり続け、イエスさまが喜ばれる生き方を始めたり、それを続けたりすることには、多かれ少なかれ犠牲が伴います。

この世と調子を合わせ、この世の生き方と全く変わりなく生きていれば、迫害など起こりません。しかし、千年王国で高い地位を得るには、イエスさまに忠実に従い、神さまのみこころを実行しようとしなければならないわけですから、それだけこの世からの迫害や苦難を覚悟しなければならないということです。

天に宝を積もう

ヤコブとヨハネの願いに対して、他の10人の弟子たちが怒ったと書かれています。それは、彼らもまた、他の者たちよりも高い地位につきたいと願っていたということです。それなのに二人に出し抜かれて、悔しかったのですね。

それに対して、イエスさまは「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます」(42節)とおっしゃいました。

人が権力を求め、偉くなりたいと思うのは、人を支配し、思い通りに動かしたいからです。そこまで権力志向でなかったとしても、夫や妻や子どもや他の人を、自分の思い通りに動かしたいという思い(コントロール欲求)は、誰にもあるのではないでしょうか。

人がコントロール欲求を持つ目的の一つは、それによって自分の価値を確認したいということです。人が自分の思い通りに動いてくれれば、自分がその分だけ価値ある者になったような気がして、いい気持ちになれます。逆に、人が思い通りに動いてくれなければ、何だかバカにされたような気持ちになります。だから腹が立って、怒鳴ったり脅したり暴力を使ったりしてでも、動かしたくなるわけです。

しかし、私たちクリスチャンは、人を思い通りに動かして、それで喜びを得るという、地上に宝を積む生き方ではなく、たとえ犠牲を払っても、イエスさまに従うこと、神さまのみこころを行なうことを選んで、天に宝を積む生き方を目指していきたいですね。

では、今日の箇所で示されている神さまのみこころとは何でしょうか。

2.仕えるリーダーたれ

仕えるしもべ

人を支配し、思い通りに動かすことで快感を得たいと思いがちな私たちに対して、イエスさまはおっしゃいます。「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」(43-44節)

リーダーが仕えるしもべになるとはどういうことでしょうか。
  • 上司として、部下たちを自分の仕事のために使うという態度は、支配する態度です。
    そうではなく、むしろ自分が部下たちに仕えること、部下たちがより良く仕事ができるように段取るのが、自分の役目だととらえてみようということです。
  • 自分の都合のために、子どもにどんなふうに行動して欲しいかを考え、命じるのは支配する態度です。
    そうではなく、子どもが心身共に健全に成長し、自分も周りの人も幸せにできる自立した大人になっていくために、親として今できることは何だろうか、今この子に施さなければならないしつけは何だろうかと考えてみようということです。
  • 夫婦でも、友人関係でも、こちらが自己主張ばかりするのは、支配する態度です。
    そうではなく、相手が何を語っているか、何を語ろうとしているか、そこに肉の耳と心の耳をしっかりと傾けてみようということです。

キリストの模範

イエスさまは、ご自分がその模範を示してくださいました。イエスさまは、神が人となって来られた方であり、神の国の王となられる方です。ですから、誰よりも権威をお持ちであり、全宇宙のすべてのものがこの方に従わなければなりません。

しかし、その王の王であるはずのお方が、貧しい生活をしながら、人々の苦しみを取り除くために東奔西走なさいました。そして、人類の罪の罰を取り除くために、身代わりとなって十字架にかかり、命を捨ててくださいました。

このようなことは、全く馬鹿げています。しかし、そのおかげで、私たちは不完全な罪人のままで神さまの子どもとなり、神さまからの祝福をいただけるような身分にしていただきました。

「クリスチャン」とは、もともと「キリスト馬鹿」というようなニュアンスのあだ名です。周りの人から「こいつは馬鹿か」と思われるほど、キリストを愛し、キリストに従い、キリストを模範とするのがクリスチャンです。実際パウロは、「お前は気が狂っている」と言われました(使徒26:24)

馬鹿の親玉であるイエスさまが、ご自分を捨てて私たちを愛し、私たちの幸せを願い、私たちに仕えてくださったのですから、キリスト馬鹿である私たちも、他の人に対して仕えるしもべとなりましょう。

まとめ

仕えるしもべとして、リーダーシップを発揮しましょう。

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