悩む者が呼ばわったとき

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詩篇34篇

(2015.8.16)

参考資料

表題の「ダビデ」は、イスラエル統一王国の2代目の王です。「アビメレク」はペリシテ人の王の称号で、この時の王はアキシュという人でした。

今回の詩の背景は、第1サムエル21:10-15です(こちらのメッセージもどうぞ)。
当時、イスラエルを治めていたのは、サウル王でした。ダビデは、サウルに将軍として仕え、ペリシテ人との戦いにおいて多くの勝利をもたらしました。サウルは、ダビデに対するねたみと、いずれ王位を狙うのではないかという恐れから、ダビデを反逆者としてとらえ、殺そうとします。しかし、ダビデは親友である王子ヨナタンによって命を救われ、命からがら逃げ出しました。
そして、ペリシテ人の領地へと逃れてきました。ところが、正体がばれ、彼は捕らえられてしまいます。これまでダビデに痛い目に遭ってきたアキシュ王は、きっとダビデを殺すでしょう。そこで、ダビデは気が狂ったふりをして身を守ろうとしたのです。

聖書からのメッセージ

イントロ

アキシュの前で気が狂ったふりをした時のダビデの精神状態はどうだったでしょうか。恐れ、恥、自己嫌悪、怒り、悲しみ、絶望感などでいっぱいだったでことしょう。

しかし、この詩には平安や希望、喜びが満ちあふれています。私たちも平安や喜びを失うことがあります。この詩によって、平安を取り戻す秘訣を学びましょう。

この詩は、10節までと11節以降の、2つに分けることが可能です。前半は、平安を失ったときどうすればいいかということ、後半はそのために必要な条件です。

1.主に呼ばわろう

心から神さまを呼ぶ

ひどい精神状態から解放され、平安を取り戻すために、ダビデは何をしたでしょうか。6節にその答えがあります。「この悩む者が呼ばわったとき」と。神さまに向かって祈り、現状を訴え、助けてくださるようにお願いするということです。

私たちが心から神さまを呼ぶとき、神さまはその心の叫びを聞いて、平安を与えてくださいます。
  • 問題そのものを取り除くことによって。
  • 問題は残るけれど、それに耐える力が与えられることによって。
  • 重荷を共にになってくれる協力者が与えられることによって。

イエスさまの模範

イエスさまも模範を示してくださいました。十字架を前にして、イエスさまの心はかき乱されていました。ご自分は全く罪を犯したことがないのに、全人類の罪を身代わりに受けて、十字架にかかって死ななければなりません。肉体的な痛みもさることながら、イエスさまにとって何よりつらいのは、永遠の昔から一緒にいた父なる神さまから切り離されてしまうことです。

そこで、血がしたたるように汗を流しながら、イエスさまは父なる神さまに向かって、もだえるようにして祈りました。すると、天使がやってきて、イエスさまを励ましました。

「そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。『父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください』。すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」(ルカ22:41-44)

その後、イエスさまは、淡々と十字架に向かって歩んで行かれました。イエスさまの心に平安が満ちあふれたのです。

信仰の祈り

「呼ぶ」といっても、神さまは耳が遠いわけではありません。「見よ。【主】の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない」(イザヤ59:1)

ですから、大声を出すかどうかが問題なのではありません。心から神さまを頼って、神さまに助けを求めるかどうかということです。あなたが神さまの守りと助けを信じて祈るとき、神さまはあなたのその信仰に答えてくださり、平安、喜び、希望で満たしてくださいます。

たとえ、あなたが祈った通りの結果にならなかったとしても、最終的に神さまはあなたに平安をくださいます。 この話をお読みください

ただし、ダビデは、ここには条件があると歌っています。それは……

2.主と仲直りしよう

神との関係はどうか

先ほど引用したイザヤ書59章には続きがあります。「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(イザヤ59:2)

神さまは耳が遠いわけではないし、力がないわけでもないが、もし罪のために神さまとの関係がおかしくなっていたとしたら、私たちの祈りは届かないということです。というのは、罪は神さまを否定し、神さまに逆らい、神さまを敵に回すことだからです。

神のみこころを生きよう

そこでダビデは、11-15節で、悪を離れて、善を行なうよう勧めています。

「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。【主】を恐れることを教えよう。
いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。
あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。
悪を離れ、善を行え。平和を求め、それを追い求めよ。
【主】の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる」


神さまが私たちに願っておられる生き方が何かを学び、それを実践しなさいということです。

ダビデの時代にはモーセの律法が与えられていました。今の私たちクリスチャンには、キリストの律法が与えられていて、それは主に新約聖書の書簡の中に、使徒たちによる命令、指導という形で記されています。それを学んで実践せよということです。

悔い改めて再出発しよう

しかし、天に挙げられて栄光の体が与えられるまでは、人は不完全なままです。すなわち、どんなに頑張って努力しようとも、罪を犯してしまうことがあるということです。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10-12)

そこで、モーセの律法の中には、神さまのみこころに違反してしまった人たちが、神さまとの関係を回復するための手段が用意されていました。それは血の犠牲です。

自分がモーセの律法に反してしまったことを認めた人は、祭司にきよい動物を渡します。祭司はその動物を殺して血を採り、神殿の祭壇に注ぎかけます。それによって神さまは、罪を犯したその人自身が命を差し出して償いをしたと見なしてくださり、罪を赦し、仲直りをしてくださいます。
罪を認めよう
血の犠牲をささげるということは、まず自分が罪を犯し、神さまのみこころに反して、神さまとの関係をおかしくしてしまったことを認める必要があります。

「【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる」(18節)
赦しを信じよう
そして、それでも神さまは自分との関係を回復したいと願っておられる事を信じ、神さまによる赦しを信じる必要があります。

「【主】はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない」(22節)
クリスチャンも同じ
これは、今の私たちにとっても同じです。

今や私たちのために、イエス・キリストが十字架にかかって血を流し、ご自分の命という完全な犠牲をささげてくださいました。そして、3日目に復活し、今も生きて私たちのために父なる神さまに取りなしをしてくださっています。

私たちは、クリスチャンになった後も罪を犯してしまうことがあります。神さまのみこころに反することを、思いがけず、あるいは分かっていて、行なったり、考えたりしてしまうのです。

しかし、イエスさまの十字架と復活を信じ、そのために自分の罪は完全に赦されているということを思い起こしながら、神さまに自分が犯してしまった罪を告白し、改めて神さまのみこころを行なおうとするとき、神さまはその罪を完全に赦してくださり、仲直りをしてくださいます。

聖書は言います。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(第1ヨハネ1:9)

こうして、私たちとの関係を回復してくださった神さまは、大切な子どもが困ったとき、喜んで手助けしようとする親のように、苦しみの中で呼ばわる私たちの祈りに耳を傾け、手をさしのべてくださいます。

まとめ

平安や喜びを失ったときには、神さまに、困難を取り除き、平安を与えてくださるよう祈りましょう。そして、もしもまだ告白していない罪があるなら、それを神さまに申し上げ、改めて神さまのみこころを実践しましょう。

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