苦しいときの賛美

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詩篇63篇

(2015.8.30)

参考資料

表題によれば、ダビデがユダの荒野にいたときのことを歌った詩です。11節で「王」という言葉を自分に当てはめて使っていますから、サウル王に命を狙われて逃げ回っていたとき(第1サムエル19〜26章)のことではなく、王子アブシャロムの反乱に遭って逃げ回っていたとき(第2サムエル15〜18章)でしょう。

5節の「「脂肪と髄」は肉の中でもおいしい部分。なお、神さまにささげる動物犠牲の場合、脂肪は祭壇で焼いて煙にしなければならず、人は食べてはなりませんでしたから(レビ3:17)、これは動物犠牲のことではありません。礼拝の喜びを、おいしい食事をしたときの喜びにたとえているのです。

聖書からのメッセージ

イントロ

私たちは、毎週定期的に集まって礼拝をささげています。また、毎日の生活の中で、聖書を読み祈ることで礼拝しています。礼拝が持つ力について学びましょう。

1.喜びの源

苦しみの中の喜び

この詩篇全体を貫いている感情は、喜びです。

「私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します」(5節)

「あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います」(7節)

「しかし王は、神にあって喜び、神にかけて誓う者は、みな誇ります。偽りを言う者の口は封じられるからです」(11節)

ダビデの置かれていた状況

では、ダビデはどこで喜びに満ちあふれていたのでしょうか。それは、「聖所」です。2節「私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています」。聖所とは、イスラエルの礼拝の中心である、神の幕屋(やダビデの子ソロモンが建てた神殿)の真ん中にある場所です。その聖所の奥には分厚い幕で隔てられた至聖所があり、神の契約の箱が置かれていて、神さまが臨在なさっていました。

しかし、「参考資料」で触れたように、この詩は、ダビデが王子アブシャロムの反乱に遭い、命からがら王宮を逃げ出して、荒野をさまよっていた時のことを歌ったものです。ですから、この聖所はエルサレム神殿にある場所のことではありません。
アブシャロムの反乱
ここで、アブシャロムの反乱について簡単に説明します。ダビデには複数の妻と、たくさんの子どもたちがいました。その中のアムノンという王子が、腹違いの妹であるタマルに恋をして、なんと強姦してしまいます。ところが、ダビデはアムノンに対して十分な処分を下しませんでした。かつて、自分も姦淫の罪を犯したことがあったので(バテ・シェバ事件。後述)、強いことが言えなかったのかもしれません。

タマルと母親が同じであるアブシャロムは、これに不満を持ち、アムノンを殺してしまいました。そして、ゲシュルという所に逃げ出します。3年後、将軍ヨアブの取りなしでアブシャロムはエルサレムに帰ることを許可されましたが、ダビデは直接彼に会おうとはしませんでした。2年後、またヨアブの尽力で面会を果たしますが、アブシャロムのダビデに対する恨みは残りました。

アブシャロムは4年かけて自分に味方する者たちを増やしていき、逆にダビデに不満を持つよう人々にしむけていました。そして、ヘブロンという町で王位に就くことを宣言しました。アブシャロムに味方する民が思いの外多かったために、ダビデは都を脱出しなければならなくなりました。
聖所とは
後にアブシャロムがヨアブに殺されたことで反乱は終息しますが、この詩の時点では、反乱は続いており、ダビデは荒野を逃げ回っていました。自分の命の危険があるというだけではありません。命を狙っているのが自分の息子なのです。彼は、大変苦しく、また悲しい状況に置かれていました。

2節で歌われている聖所とは、エルサレム神殿ではなく、ユダの荒野です。とんでもない状況の中で、それでも彼は計り知れない喜びに満たされていたのでした。

賛美が生み出す喜び

ダビデに喜びを与えたのは、神さまへの礼拝です。荘厳な建物も、祭壇も、聖歌隊もありませんから、ちゃんとした儀式はできなかったでしょう。しかし、ダビデは神さまに賛美をささげました。

賛美というと賛美歌を想像しますが、それだけではありません。歌であれ、楽器演奏であれ、祈りの言葉であれ、踊りであれ、絵であれ、神さまの素晴らしさを数え上げ、それを神さまに向かって申し上げ、神さまの素晴らしさをほめたたえること、それが賛美です。

何かすばらしいことが起こったときに、感謝を込めて神さまを賛美するのは分かります。それは喜びを何倍にもすることでしょう(ですから、祈りっぱなしにしないで、かなえられたら感謝しましょう)。

しかし、病気や怪我をしたり、人間関係のトラブルに巻き込まれたり、大切な人が問題を抱えたり、仕事がうまくいかなかったり、経済的にピンチを迎えたりするなど、問題のまっただ中でささげられる賛美は、苦しみや悲しみや絶望から私たちを引き上げ、それどころか今回のダビデのように喜びを与えてくれます。

それはなぜでしょうか。

2.荒野の賛美が喜びを生むわけ

人や問題から神へと視点が変わる

賛美は神さまの素晴らしさを表現することです。ですから、神さまご自身に私たちの意識が向きます。

問題の大きさや人の弱さに目を向けているなら、私たちは限界を感じたり、絶望感に満たされたりするかもしれません。しかし、私たちの信じる神さまはどんな問題よりも強く、大きなお方です。神さまは全知全能のお方です。何が最善かを知っておられ、将来のことも見通しておられます。そして、何でもすることができる奇跡の神です。

しかも、その神さまは、イエス・キリストを通してご自分の愛を現してくださいました。私たちは不完全で、それどころか罪深く、何度も何度も神さまを裏切り、神さまを悲しませてきました。それにも関わらず、神さまは私たちを赦し、神さまの子どもとして受け入れてくださいました。

そのために、イエスさまは十字架にかかり、私たちの罪の罰を全部引き受けてくださいました。私たちは、イエスさまのおかげで、罪赦されています。神さまは、その全知全能の力を、私たちの本当の幸せのために用いようと約束してくださっています。

賛美は、問題や人ではなく、神さまに意識を向けさせます。ですから、将来に対する希望があふれ、それが喜びを生み出します。

過去の祝福に目を留めさせる

ダビデは、「あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います」(7節)と歌っています。現在は苦しみの中にあったとしても、過去を振り返ってみると、神さまがしてくださったたくさんのすばらしい出来事の記憶がよみがえってきます。
  • 神さまは、巨人ゴリアテを倒す力を下さったではありませんか。
  • サウル王の攻撃からも命を守ってくださったではありませんか。
  • サウルから身を守るため、敵であるペリシテ人の王の下に降ったときも、祖国イスラエルと戦わなくて済むようにしてくださったではありませんか。
  • 人妻バテ・シェバと姦淫し、その夫ウリヤを謀殺するという恐ろしい罪を犯したときも、神さまは悔い改めに導き、罪を赦してくださったではありませんか。
ダビデは、それらの過去の記憶の故に、神さまの愛情深さや力強さを賛美することができました。

現在は苦しく、つらくても、過去の祝福を思い起こし、その故に神さまをほめたたえるとき、心に希望があふれ、それが喜びを生み出します。

信仰が強められる

神さまは目に見えません。そして、過去がどうであれ、聖書に何と書いてあれ、現在は苦しく、つらいのです。そんな中で、神さまは全知全能である。神さまは正しいお方である。神さまは愛と恵みに満ちておられるなどとほめたたえるためには、見なくても信じる信仰が必要です。

そして、私たちが苦しみの中で、それでもあえて神さまの素晴らしさに目を留め、「あなたはこういうお方です」と信仰によって賛美するとき、神さまはその信仰に応えてくださいます。

イエスさまは、「あなたの信じた通りになるように」とおっしゃいました(マタイ8:13)。神さまの祝福は、私たちの信仰を通して地上に実現します。

苦しいときの賛美は、負荷を掛けた運動によって筋肉が鍛えられるように、私たちの信仰をますます強めます。その強められた信仰は、どんな状況の中にあっても希望を失わない強さとなります。そして、満ちあふれる希望は、大きな喜びを生み出します。 さらに、周りの人たちをも励ます力となるでしょう。

まとめ

苦しいとき、つらいとき、悲しいときほど、神さまから離れるのではなく、神さまをほめたたえましょう。つらくて苦しいときほど、教会の集会に出席し、他の神の家族と共に神さまを礼拝しましょう。

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