主は愛する者をしかる

トップページ聖書のメッセージ集2015年 > このページ


箴言3章1〜12節

(2015.9.13)

参考資料

1節の「私」は、父あるいは教師を指します。ただし、神の民イスラエルでは、父や教師の教えや命令は、神さまの教えに基づくものであることが当然のこととして期待されていたわけですから、ここは「神」と読み替えても差し支えありません。

聖書からのメッセージ

イントロ

物事がうまくいかなかったり、問題がやって来たりしたとき、神さまの知恵に満たされた人はどのように対処するのでしょうか。

1.生き方を振り返る機会にする

シナイ契約

箴言や詩篇は、神さまとイスラエルが結んだ契約に基づいて書かれています。聖書の中には神さまが人間と結んだ契約が8つ記されていますが、そのうちの5つはイスラエルと結ばれたものです。

今回の箇所は、神さまとイスラエルの諸契約の中でも、特に「シナイ契約」が背景となっています。それは、モーセの律法と密接に関係していて、「イスラエルがモーセの律法を守れば様々な物質的な祝福を受け、モーセの律法を無視すれば物質的な苦難を味わうことになる」という取り決めです。

「見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、【主】の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、【主】の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える」(申命記11:26-28)

参考資料に書かせていただいたように、1節は「神さまの教えを忘れず、神さまの命令を心に留めよ」と読み替えることができます。すると、シナイ契約に従って、「そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる」(2節)のです。

同様に、6〜10節も「こういう生き方をすれば、こういう祝福が与えられる」という、シナイ契約に則った形になっていますね?

問題は神の語りかけかもしれない

ということは、問題がやって来たときに、イスラエル人(ユダヤ人)ははたと立ち止まって考えることが期待されていました。「果たして自分は、神さまの命令を忠実に行なってきただろうか。それとも神さまを無視して、自分勝手に生きてきたのではないだろうか」と。

そして、思い当たることがある場合、悔い改めて、正しい行ないに戻ることが望まれていました。

これは、モーセの律法が有効だった時代だけの話、あるいはイスラエル人に限った話ではありません。

イエスさまが十字架にかかり、復活なさったことで、モーセの律法は無効になりました。そして、私たち異邦人(イスラエル以外の民族)も、異邦人のままで救われ、神の家族に加えられる時代がやって来ました。

そして、この今の時代でも、神さまは問題を用いて、人に罪を示し、悔い改めを迫ることがあると教えられています。

たとえば、コリントの教会では、聖餐式を行なう際、金持ちは自分たちだけで食事をし、貧しくて食事を用意できない人たちは聖餐式に参加できないでいました。このような差別は神さまの悲しまれることです。そこで神さまは、悔い改めを迫るため、コリント教会のある人たちを病気になさいました(第1コリント11:30)。

もちろん、すべての問題がその人の罪によってもたらされるわけではありません。
  • ダビデがサウル王に命を狙われて、あちこちを放浪しなければならなくなったのは、ダビデの罪のせいではありませんでした。
  • イエスさまも、生まれつき目の見えない人がこうなったのは、彼の罪のせいでも両親の罪のせいでもないとおっしゃいました。
逆に、問題がないからといって、その人に罪の問題が全くないというわけでもありません。

問題を、何でもかんでも罪と結びつけて考えるのは間違いです。それでも、問題にぶつかったときに、自分のこれまでの生き方を振り返ってみて、間違いがあってもなくても、「自分はますます神さまを愛し、神さまに忠実に従っていこう」と、その決心を新たにすることは、大切なことでしょう。

2.恵みとまことを捨てない

律法は救いの条件ではない

よく誤解されていますが、旧約聖書の時代でも、モーセの律法は救いの条件ではありませんでした。今の私たちと同じように、昔のイスラエル人も、アブラハム以前の人々も、行ないによってではなく、信仰によって救われました。信じる内容は時代によって異なりますが、どの時代の人も、神さまの約束を信じて救われたのです。

たとえば、イスラエルの先祖であるアブラハムについて考えてみましょう。神さまは世界中の人間の中からアブラハムを選び、彼と契約を結ばれました。アブラハム契約と呼ばれています(創世記12:1-3、12:7、13:14-17、15:1-21、17:1-21、22:15-18)。主な内容が3つあって、
  1. アブラハムにたくさんの子孫が与えられること(子孫の約束)
  2. アブラハムとその子孫にカナンの地が与えられること(土地の約束)。
  3. アブラハムとその子孫は神さまに祝福され、彼らを通して異邦人も祝福されること(祝福の約束)。
です。アブラハムはこの約束を信じて救われました。「彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)

なお、この後、アブラハム契約がいう「子孫」とは誰のことなのかということが絞り込まれていきます。アブラハムの肉体の子孫が皆、約束の子孫なのではなく、アブラハムの子イサクの子ヤコブの子孫(イスラエル人)がそうだということがはっきりします。

イスラエル人は、神さまは自分たちイスラエルと契約を結んでくださったということと、その契約の内容を信じて救われました。モーセの律法とは、救いの条件ではなく、すでに救われているイスラエル人が、神さまへの感謝を表すために、どのような生き方をしたらいいかを教えるためのものです。

今の時代の私たち

今の時代は、異邦人である私たちも、イスラエルで誕生なさった救い主イエスさまのおかげで、神さまとの愛を受け取り、祝福をいただける身分となりました。

私たちの過去の生き方がどんなに罪深いものであったとしても、私たちはイエスさまの十字架と復活を信じるだけで、罪赦され、神さまの子どもにしていただけます。そして、いったん与えられたその救いは、私たちがどんなに失敗したとしても、決して取り去られることはありません。

だからこそ、私たちは感謝をこめて、新約聖書で教えられている神さまの命令(キリストの律法)を忠実に守ろうとするのです。

恵みとまこと

ですから、3節で「恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ」と勧められています。
  • 3節の「恵み」とは、「契約に基づく変わることのない愛」を表す言葉です。その時の気分や、こちらの態度によって愛がなくなったりしないということです。
  • また、「まこと」とは、「確実で信頼するに足る性質」を表す言葉です。神さまが契約に基づいて約束なさったことは、決して反故にされることはありません。
恵みもまことも、いずれも神さまのご性質です。

問題がやって来たとき、私たちは神さまの愛を疑いそうになるかもしれません「。もしかしたら、神さまは私が嫌いなんだろうか。神さまは、私を捨ててしまわれたのだろうか。私のことを怒り、滅ぼそうとしていらっしゃるのだろうか」と。

いいえ。そんなことは思ってはいけません。どんなに神さまに嫌われている感じがしても、どんなに罪責感や後悔の念で押しつぶされそうな気分になっていたとしても、です。神さまの愛は契約に基づく確かなものです。私たちの気分や感覚で計ってはいけません。

私たちの神さま、イエスさまは恵みをまことに満ちておられる方だということを信じましょう。「この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)

問題を抱えたときは、それでも神さまは私を愛してくださっていると自分を言い聞かせましょう。私を罪の間違いから方向転換させるためか、あるいは私を霊的・精神的に訓練するためか、あるいはその問題を通してでなければ味わえない祝福があるためか、いずれにしても私を深く愛しておられるからこそ、この問題が私を苦しめるのを許可しておられるのだ、と信じることです。

まとめ

問題を通して、ますます神さま愛を確認し、神さまへの愛も確認しましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


Copyright(c) 2015 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.