善を行なう力があるとき

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箴言3章27〜28節

(2015.5.20)

参考資料




聖書からのメッセージ

イントロ

今日の箇所は人間関係、特に隣人愛を教えています。

1.隣人に善を行なう

貧しい人たちに施す責任

27-28節は、善を行なう力、助ける力があるなら、それを求める人に惜しみなく与えるべきだと教えています。

旧約聖書も、新約聖書も、貧しい人たちや困っている人たちに対して、自分の持っている物で援助をするようにと命じています。今日の箇所もそれを教えています。

日本は世界的に見れば非常に豊かな国です。しかし、それでも貧しい人たち、生活に困っている人たち、経済的な理由で様々な夢をあきらめなければならない人たちがいます。

また、世界に目を転じれば、70億の世界人口のうち、十分に食べるのものがなくて苦しんでいる人が10億人います。7人に1人の割合です。南部アフリカに限っていえば、実に3人に1人の割合です。そして、今この瞬間も、5秒に1人の子どもが、飢餓が原因で亡くなっています(データは国際飢餓対策機構のサイトより)。

教会の存在目的と使命

教会には5つの存在目的があります。
  1. 神さまへの礼拝
  2. 信徒の親しい交わり
  3. 成長のための訓練
  4. 伝道
  5. 社会のいやし
です。5番目は「愛のわざ」と言ってもいいでしょう。

そして、これらは教会がこの地上で行なわなければならない使命でもあります。これらは、オプション(してもいいし、しなくてもいいもの)ではなく、どうしてもしなければならないものです。どんなに小さな教会であっても、です。

マケドニヤは、今のギリシャの北部地域です。ここには、ピリピとかテサロニケとかいう町があり、パウロの伝道によって教会が誕生しました。ところが、この地域は元々あまり豊かな地方ではなかった上、大変な迫害が起こったために、教会のクリスチャンたちは貧しい生活を余儀なくされました。

しかし、そんなマケドニヤの諸教会は、エルサレムの教会のクリスチャンたちがさらに貧しい生活に耐えているという話をパウロから聞いて、募金をしてパウロに託し、エルサレムに届けてくれるよう願いました。

たとえ貧しくても、限界があっても、それでも善を行なう力がわずかでもあるなら、それを使って他の人への愛を表そう。聖書は一貫してそれを教えています。

イエスさまは、2レプタ(100円くらい)を神殿にささげた女性を見て、彼女が献金した人の中で最も多くささげたと言いました。彼女がお金を投げ入れたのは、貧しい人たちに施すための、いわば募金箱です。大黒柱である夫も息子もおらず、彼女自身が貧しかったのですが、もっと貧しい人たちのために、喜んで自分が持っている物をささげようとしたのです。

なぜでしょう。それは、マケドニヤの教会の人たちも、2レプタの未亡人も、神さまが自分を愛してくださっていることに感動していたからです。神さまは、私たちを救うために、ご自分の最も大切なものをささげてくださいました。それは、御子イエスさまのいのちです。ですから、それを信じて救われた私たちは、多くのものを持っていても、わずかしか持っていなくても、何かしらの愛を他の人に現そうとするのです。

自分にできることはわずかだなんて思わないでください。
作家の竹田恒泰さんは「月刊正論」の2015年4月号で次のように語っている。

ピケティ教授の公表しているデータベースによると、日本の所得上位0・01パーセントの所得の平均は8057万円であり、その所得の総額ですら1兆円に満たない。最高税率を40パーセントから70パーセントに上げたところで、数千億円税収が増えるだけである。

ところが、日本の生活保護費は3兆円を突破しているのであるから、数千億円程度の税収増は、貧困対策費としては誤差の範囲とまでは言わずとも「焼け石に水」なのである。

実は一部の富豪層からお金を奪って貧困層に振り分けても何ら問題が解決することはない。格差社会を是正しようとするのは、頑張って報われた人達の努力を否定してしまうことになるだけなのだ。一番正しい方向性は批判の矛先を格差ではなく貧困に当てることであろう。
NETGEEK 9月16日の記事より)
そして、この記事を読んだ救世軍の友だち(年末の社会鍋を30年やっている)は、少数派の金持ちの寄付の総額より、一般の市民がそれぞれ少しずつささげてくださった総額の方が、金額が多いとおっしゃっていました。

善を行なうこと

もちろん、私たちが行なうべきなのは、悪ではなく善です。どんなにこちらが「いいことをしてあげた」と思ったとしても、それを相手に与えることが、かえって相手の迷惑になったり、かえって相手を甘やかして自立する力を削いでしまったりするのであれば、それは愛ではなく、自己満足に過ぎません。

この前、ある子育て中の女性の投書を読みました。この方が買い物をしていると、自分の子と同じような年齢の小さな子どもが転んだのを目撃したそうです。すると、近くにいた母親がしゃがんでその子を見つめましたが、手を出して起こそうとせず、「さあ、○○ちゃんなら、自分で立てるよね?」と言ったそうです。そして、半べそをかきながら一人で起き上がった子どもを見て、「すごい。○○ちゃんは、転んでも泣かないで一人で起きられた。強ーい!」と言い、ぎゅーっと抱きしめたそうです。それを見ていた女性は、自分が子どもに手を掛ける場所を間違えていたと思ったそうです。

効果的な愛には知恵が必要ですね。箴言は知恵について教えています。そして、その知恵は神さまが下さるものです。

自分が持っている物で、困っている人に良い行ないができるように、また本当にその人を助け、生かし、励ますことができるようなことができるように、いつも神さまにお祈りしましょう。

2.心の貧困

お金がないことだけが貧しさではない

インドの貧しい人たちに仕えたマザー・テレサが来日したとき、こんなことをおっしゃったそうです。「今朝、私はこの豊かな美しい国で、孤独な人を見ました。この豊かな国の、大きな心の貧困を見ました」。

お金がないということだけが、教会やクリスチャンが対処すべき貧困なのではありません。病気、加齢、喪失体験、いじめ、差別、誤解、犯罪被害、様々なストレスなどで、苦しんだり悲しんだりしている人は、この豊かな日本の中にもたくさんいます。そんな苦しみを、たった一人で乗り越えなければならないとしたら、その戦いはどれほどつらいことでしょうか。

友なき人の友となる

イエスさまは、イスラエルの中でも、特に嫌われていた人たち、差別されていた人たち、軽く扱われていた人たちの元に親しく近づいて、一緒に食事をし、温かい言葉を掛けました。たとえば、取税人(彼らは、ローマ帝国の権威を使って、規定以上に多く税を取って、差額でもうけていたので、売国奴として、また盗人として嫌われていました)や遊女、あるいは未亡人や子どもたち、神さまの呪いの結果だと思われていた病気や障がいの人たちです。

マザーもこう言っています。「大切なことは、遠くにある人や、大きなことではなく、目の前にある人に対して、愛を持って接することです。日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります」。

あなたの温かい眼差し、温かい手のぬくもり、温かい勇気づけの言葉。それを待っている人がいます。それは遠くにいるのではなく、きっとあなたのすぐ側にいます。その人のために、何ができるでしょうか。

医者じゃなければ医療行為はできません。弁護士でなければ法律相談はできません。しかし、きっとあなたにできることがあります。それは電話を掛けて、ただ黙って話に耳を傾けることかもしれません。あるいは、一緒に食事やお茶をすることかもしれません。あるいは、一緒に遊びに行くことかもしれません。あるいは、一緒に祈ることかもしれません。

あなたにできることは何ですか?

まとめ

イエスさまの愛に感動し、その感動を具体的に愛の行動で現しましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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