医者を必要とする人

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マタイによる福音書9章9〜13節

(2015.10.4)

参考資料

「取税人」は、通行税、関税、土地税、人頭税など、さまざまな税金を民衆から取り立てる役人です。当時のイスラエルはローマ帝国の属国でしたから、税金はローマに納められました。ローマ帝国は、自分たちに恨みが向かないよう、ユダヤ人の中から取税人を選びました。しかも、取税人は契約した額だけローマに納めさえすれば、実際に民衆からいくら徴収したとしてもローマは意に介しませんでした。そんなわけで、取税人は金持ちでしたが、イスラエルの民衆から敵の手先として、また盗人として蔑まれ、忌み嫌われていました。

「パリサイ人」は、パリサイ派というイスラエルの宗教的グループに属する人たちです。彼らは、神さまがイスラエルのために定めた命令(モーセの律法)以外に、膨大な数の戒律を作り上げ、それを守るように教えていました。その結果、かえってモーセの律法そのものをないがしろにすることが多かったので、イエスさまはしばしば彼らと対立なさいました。

13節の「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」の引用元は、ホセア6:6「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ」です。「あわれみ」と訳されている言葉は、「神さまを知ることによって与えられる、神さまに対する真実の愛」という意味だと分かります。

聖書からのメッセージ

イントロ

本日の午後、原発事故後5年ぶりにバーベキュー会を催します。というわけで、今日は新しく弟子になったマタイがイエスさまを招いた宴会に注目してみましょう。

食事を共にするというのは、お互いをよく知り、さらに仲良くなるための良い機会です。私たちもマタイの宴会に参加することで、私たちにとってイエスさまがどんなお方であり、私たちにどんなすばらしいことをしてくださるお方なのかということを知りましょう。

1.罪人と交わるイエス

取税人や罪人たち

取税人だったマタイが、イエスさまに声を掛けられ、弟子に加えられました。マタイは、その感謝のために宴会を催しました。ところが、パリサイ派の人たちが、これを非難します。まずは、どうして非難されたのか、そこから見ていきましょう。

パリサイ人たちの批判はこうです。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか」(11節)

参考資料に書いたように、当時の取税人は人々から忌み嫌われていました。パリサイ派の指導者たちも、「一般民衆は取税人と付き合いをしてはいけない。取税人が交わっていいのは、同じ取税人仲間か遊女だけだ」という命令を出していました。そんなわけで、マタイが開いた宴会に集まってきたのは、取税人や遊女たち、そのほか町の中で後ろ指を指されるような人たちだったわけです。

ところが、イエスさまはそんな命令など全く無視して、喜んでマタイの誘いを受け、取税人や遊女たちと楽しく歓談しているではありませんか。そんなわけで、パリサイ人たちが怒ったのです。

霊的な病人

これに対するイエスさまの最初の答えはこうでした。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(12-13節)

イエスさまは、宴会の場にいるマタイや取税人仲間たち、他の罪人と呼ばれていた人たちのことを、「病人」にたとえています。そして、自分は医者であって、彼らを助けるために来たんだから、彼らと交わりを持って何が悪いのかというわけです。

マタイたちが病人にたとえられている意味を考えてみましょう。

マタイもユダヤ人ですから、全知全能の神がおられることを知っていました。しかし、人生の現実の前に、いつの間にかお金を中心にした生き方をせざるを得なくなってしまっていました。そして、きっと心の中には、「これではいけない」という小さな声も響いていたことでしょう。お金はたくさん持っていましたから、豪華で暖かい家に住み、おいしいものもたくさん食べられます。しかし、心の中はむなしさと罪責感で冷え冷えとしていたことでしょう。

そして、取税人は、他のユダヤ人たちから嫌われ、無視されてきました。当然嫌われるようなことをしているのですから、自業自得と言えばその通りです。しかし、今さら生き方を変える勇気も力もありません。マタイの心は孤独感や無力感でいっぱいだったことでしょう。

彼は自分が罪人であり、霊的な健康を損なった病人だということを自覚していました。もしも、世界をお造りになった聖書の神さまの前に立たされたなら、たちどころに滅ぼされてしまうような、そんなちっぽけな存在だということを認めざるを得ませんでした。

しかし、そんなことをいつも自覚していたら、生活なんかできませんから、心の奥底に押し込めて、とりあえず目に見えることに集中して心をごまかそうとしていました。彼にとっては金儲けがそれです。

私たちはどうだろうか

では、私たちはどうでしょうか。マタイと共に宴会に参加する罪人でしょうか。それとも、自分は罪人では無いと思い、罪人たちを外から非難するパリサイ人でしょうか。

私は、自分のことがずっと嫌いでした。不誠実で、いい加減な自分のことが大嫌いで、こんな自分は生きている価値なんか無いと思ってきました。もちろん、そんなことをいつも考えていたらうつになって、自殺することになります。ですから、なんとか自分だってOKだということを証明するために、一生懸命勉強し、真面目に過ごし、周りの大人たちから認めてもらおうと頑張りました。ところが、どんなにほめられても、認められても、心の奥底にある「お前はダメ人間だ」という声から解放されませんでした。

あなたはどうですか? 自分の中の力のなさとか、矛盾とか、いい加減さとか、罪深さとかに悩んでこられませんでしたか? そして、それをごまかすために、仕事や勉強に没頭したり、薬や異性や刺激的な遊びなどにふけって、とりあえず今楽しく過ごそうとしたり、自分よりもひどい人を見つけて比較して、「あの人よりはましだ」と安心しようとしたりしてこなかったでしょうか。あるいは、自分で自分を傷つけるようなことをして、自分を罰して許してもらおうとしてこなかったでしょうか。

しかし、もしも今、自分は霊的な病人だ。人としての本来の姿から外れてしまっている、霊的な病人(これを聖書は罪人と読んでいます)だと認めるなら、あなたは幸いです。なぜなら、イエスさまは、そんな病人を治す医者として地上に来られたからです。

本当の自分の姿を発見し、それを見つめ、認めることは痛いことです。しかし、聖書が私たちに本当の姿を見せつけるのは、私たちを苦しめるためではありません。私たちにいやされる希望があるからです。

2.罪人を救うイエス

罪人を退けない愛

霊的な医者であるイエスさまは、どのようにして霊的な病人、罪人をいやしてくださるのでしょうか。

まず、イエスさまは罪人たちを、罪人だから、不完全だから、汚れているからという理由で退けませんでした。むしろ、親しく声を掛け、じっくり話を聞き、一緒に食事も取りました。

マタイはイエスさまに声を掛けられて、すぐに従いました。これは実は驚くべき事です。取税人の仕事はいわば公務員で、いったん辞めてしまったら、後で思い直して同じ仕事に就くということができません。ペテロやヨハネたちが漁師を辞めたのとは犠牲の度合いが違う、大きな決断でした。なぜこんなことができたのでしょうか。

それは、宗教的な指導者で、自分にこんなに親しくしてくれた人がいなかったからです。イエスさまの優しい眼差しと声は、密かに孤独や罪責感を感じてきたマタイの心に感動を与えました。

しかも、マタイは通行税を取るために、人通りの多い街道沿いの収税所にいつも座っていました。当然、イエスさまの噂は耳にしていたことでしょう。そのみわざや教えのことも漏れ聞いていたに違いありません。そして、この方こそ、旧約聖書が昔から登場を約束してきた、人となられた神、人類を罪ののろいから救い出す救い主だと思うようになっていたのでしょう。

救い主が来たら、真っ先に滅ぼされても仕方のない取税人の自分を、イエスさまは弟子に加えてくださるという。そこにマタイは感動したのです。

十字架の愛

この時点では、マタイも仲間の取税人たちも、それどころかペテロたち他の弟子たちも知らないことですが、やがてイエスさまは十字架にかかって殺されます。それは、私たち罪人の罪の罰を、身代わりに負うためだったと聖書は教えています。

イエスさまが十字架で血を流してくださったことにより、私たちの罪はすべて赦されました。過去の罪も、現在の罪も、そしてこれから死ぬまでに犯すであろう罪も、すべてです。そして、私たちはこのままの姿で神さまの子どもとなり、考えられないような祝福をいただく身分となりました。

しかも、その特権が与えられるのに条件はたった一つ。献金することでも、お百度参りをすることでも、ボランティア活動に精を出すことでもありません。それは「私たちの罪のためにイエスさまが死んで葬られ、3日目に復活して今も生きておられる」ということを信じるだけです。

ですから、イエスさまはマタイたち罪人を退けませんでした。

変化を信じる愛

しかし、罪がすべて赦されるなんていったら、人はつけあがってどんどん悪さをするのではないでしょうか。しかし、イエスさまは、人は変わることができると信じておられます。ですから、マタイに声を掛け、罪人たちと親しく交わられました。

イエスさまはパリサイ人に答えて、「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」というホセア書の言葉を引用なさいました(13節)。参考資料に書いたとおり、「あわれみ」とは「神さまを知ることによって与えられる、神さまに対する真実の愛」という意味です。一方、「いけにえ」とは儀式的な行為の代表です。

儀式は、心の裏打ちがあって初めて意味があります。神さまへの愛がないのに、ただ儀式的にいけにえをささげても、そんなものを神さまは喜ばれないということですね。

マタイは、イエスさまに赦され、愛され、交わりを持てたことに感動しました。それ故に、イエスさまを歓迎して持てなそうとしたし、仲間たちにもイエスさまと出会って欲しいと願って、彼らを宴会に誘いました。マタイの生き方は大きく変えられたのです。

自分自身を正直に見つめたら、私たちは惨めになります。しかし、神さまはそんな私たちのことを醜いとはおっしゃいません。むしろ、大切な子どもと呼んでくださいます。そして、私たちを守り、支え、教えて、本当の幸せへと導いてくださいます。

そして、私たちは変わることができます。それは、イエスさまの愛を知ったからです。その歩みは他の人と比べてゆっくりかもしれません。しかし、それでも人は変わることができます。

まとめ

イエスさまは、私たちの罪の問題を解決するために来られました。あなたもイエスさまに信頼することにより、変わることができます。

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