貧しさも富も与えないでください

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箴言30章7〜9節

(2015.11.15)

参考資料

この章は、「マサの人ヤケの子アグルのことば。イティエルに告げ、イティエルとウカルに告げたことば」(1節)と言われています。マサは、元々はアブラハムの長男イシュマエルの七男の名で、他の兄弟たち同様、北西アラビヤに住みました(創世記25:13-18)。ですから、ここでのマサは、アラビヤのどこかにあった町の名でしょう。ヤケやアグル、イティエルやウカルについては詳しくは分かっていません。

聖書からのメッセージ

イントロ

体幹がしっかり鍛えられていて、軸がぶれないでいられると、多少ふらつくようなことが起こってもすぐに体勢を立て直すことができます。生きていると、いろいろ嫌なことや苦しいことが起こるものですが、焦ったり道を踏み外したりしないで、あるべき所にしっかり戻ってこられるような生き方ができればいいですね。

そのために、アグルの願いから私たちの人生の軸が何なのかということを学びます。アグルは2つの願いを挙げて、神さまに祈りましたが、特に2つめの願い、「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください」という願いについて見ていきましょう(実は、1つめの願いとも関係しますが)。

1.神との正しい関係を求めよう

ちょうどいい富を求める理由

アグルは、多すぎもせず、少なすぎもしない、ちょうどいい分量の富を求めました。そして、その理由も挙げています。
  • 富を持ちすぎると、自分の力だけで生きていけるかのように思い込み、神さまに信頼したり従ったりすることを忘れてしまう恐れがあるからです。
  • 富が少なすぎると、生活に困窮して、食べ物やお金を盗むなど、不正行為に手を染める恐れがあるからです。

アグルの根本的な思い

富みすぎず、また貧しすぎもしない生活をアグルが求めたのは、一つの根本的な思いからでした。それは、「神さまとの正しい関係を保ちたい」という思いです。アグルが、富みすぎたり貧しすぎたりすることを警戒したのは、神さまを信頼したり、神さまのみこころに従ったりする、本来あるべき正しい関係を損ないたくなかったからです。

アグルのもう一つの願いである、「不信実と偽りとを私から遠ざけてください」というのも、神さまとの正しい関係を損ないたくないという思いから出たものだと考えられますね。

神さまとの関係を正しく保ち、むしろそれをますます深めていく。これこそ、彼が寝ても覚めても考えていたことです。

そして、神さまとの正しい関係は、聖書全体を貫くテーマの一つです。
  • 罪の結果は、神さまとの関係がおかしくなってしまうことです。
  • 救いとは、神さまとの敵対関係が解消され、平和で仲の良い関係になることです。
  • 悔い改めとは、おかしくなりかけていた神さまとの関係を修正することです。

私たちの判断基準

前にも言いましたが(11月1日のメッセージ)、神さまはほとんどの場合、私たちの一挙手一投足に対して「はい、右」「はい、左」というふうに、信号機のような指示はなさいません。私たちは、聖書の知識、祈りの中で感じる静かな平安、神さまに忠実に生きている他のクリスチャンの意見などを総動員して、自分で理性的に判断することが求められます。

その際、私たちがいつも心に留めなければならないことは、「何をすることが(あるいは何をしないことが)、神さまとの愛の関係を保ち、むしろさらに良くしていくだろうか」ということです。

昔、横山幹雄牧師(となみ野聖書教会)が語ってくださった言葉が心に残っています。それは、「何が罪かを考えるより、どうしたらイエスさまに喜んでいただけるかを考えましょう」という言葉です。

何が罪かばかり考える生き方は、「どうやったら神さまに叱られないで、しかも自分の好きなことをやることができるだろうか」という、なんだか神さまの目を盗むような生き方につながりかねません。そのような態度は不健全であって、神さまとの良い関係を育てないどころか、むしろおかしくしてしまうでしょう。

私たちと同じ教団の川端光生牧師が、著書「理屈っぽい人のQ&A要点ノート」の中で、こんなエピソードを書いておられます。ある人が川端先生にこう尋ねました。「姦淫は罪ですね?」 先生はこう答えます。「その通り、妻以外の女性と関係を持つことは罪です」。するとその人は重ねてこう尋ねました。「じゃあ、どうしようもない状況で関係を持ったとしたらどうですか? それでも罪になるのですか?」

川端先生はこうおっしゃっています。「もし私が『どうしようもない状況ならしかたがありませんね』と答えたなら、きっとこの人は自分でそのどうしようもない状況を作り出して、姦淫に及ぶつもりだったのだろう」。

もしそういう心で「罪を犯さないようにしよう。いったい何が罪なのだろうか」と考えたとしても、すでにその人の心は神さまの方を向いていません。神さまとの関係が、最初からおかしくなってしまっています。

アグルが問題にしたのは、実は富のあるなしではありません。自分が神さまと正しい関係にあるかどうか、これこそアグルが本当に問題にしていたことでした。私たちが求めるべきなのも、神さまとの正しい、深い、愛に満ちた関係です。

あなたがしようとしていることは、あなたと神さまとの良い関係を深めますか? あるいは、他の人と神さまとの良い関係を生み、育てますか?

2.神の方から関係を修復なさったことを知ろう

神への信頼

この箇所から香ってくるのは、アグルの、神さまに対する深い信頼の思いです。彼がこのような祈りをしたのは、
  • 神さまが自分に関心を持っておられると信じているからです。
  • 神さまが自分に敵意ではなく、愛情を抱いておられると信じているからです。
  • 神さまが自分に必ず良いものを備えてくださると信じているからです。
アグルは、自分が神さまとの正しい関係、良い関係を求めていましたが、同時に、神さまもまた、自分と良い関係でいたいと願っておられる。そう信じていました。

救いは神の一方的なわざ

救いはイエス・キリストを通して私たちに与えられたということを、私たちは知っています。

それに関して、パウロはこう語っています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:3-5)

また、使徒ヨハネはこう語っています。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(第1ヨハネ4:9-10)

パウロやヨハネが強調していることは、私たちが神さまを選び、愛する前に、まず神さまが私たちを求め、愛し、関係を修復することを選んでくださったという順番です。しかも、そのために、イエスさまはご自分のいのちという尊い犠牲を払ってくださいました。救いは、神さまからの一方的なわざです。

神の愛に応えるのが信仰生活

私たちが神さまとの正しい関係、愛に満ちた関係を深めたいと願い、そのために役立つ行動、生き方を選び取ろうとするのは、まず神さまが私たちとの関係修復のために行動してくださったからです。その愛に対する感動や感謝が、その愛に応えたいという思いを生み、「もっと神さまといい関係になりたい」という飢え渇きにさえ似た思いを生み出します。

「すべし」「すべからず」ばかり考える信仰生活は疲れます。ともすれば、「どうやって神の目を盗んで好き勝手な生き方をしようか」というような、ゆがんだ生き方を生み出します。私たちはいつも、イエスさまの十字架と復活に表されている、神さまの深い愛を思い描きましょう。

そして、聖霊なる神さまのお仕事は、私たちが神さまの愛、イエスさまの恵みに感動し、感謝にあふれて、もっともっとイエスさまのことを知りたい、神さまといい関係になりたいと思うようにすることです。その点を無視して、ただ奇跡や幻や興奮などの霊的現象ばかりを求めても、聖霊さまは働かれません。もっともっと神さまと良い関係になれるよう、聖霊さまに願いましょう。

まとめ

あなたやあなたの周りの人と神さまとの良い関係を育てることを、アグルのように切に求めましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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