堅い食べ物

トップページ聖書のメッセージ集2015年 > このページ


伝道者の書12章1〜14節

(2015.11.22)

参考資料

3-5節は、年を取ると起こることを詩的に表現しています。たとえば「家を守るもの」は手、「力のある男たち」は背骨、「粉ひき女たち」は歯、「窓から眺めている女の目」は視力、「通りのとびら」は聴力、「臼をひく音」は内臓の働き、「鳥の声に起き上がり」は眠りが浅くなること、「歌を歌う娘たちはみなうなだれる」は声がしわがれること、「アーモンドの花」(白色です)は白髪、「いなご」は歩く様子、「ふうちょうぼく」(開花前のつぼみが香辛料や強精剤として用いられます)が花開くことは食欲や性欲が減退することを指します。そして6節は死を象徴しています。

聖書からのメッセージ

イントロ

ヘブル人への手紙は、私たちクリスチャンに、いつまでも乳を飲んでいるのではなく、堅い大人の食べ物を食べるように勧めています(5:12-6:2)。乳とは救いに関する初歩的な教え、堅い食べ物は成熟した信仰者が学ぶべき教えです。今日は、伝道者の書から、その堅い食べ物を一つ教えていただきましょう。

1.神を恐れて命令を守れ

死んで終わりなら、人生は空しい

伝道者の書には「すべては空虚である」という言葉が、何度も出てきます。

伝道者が誰を指しているのかについては議論がありますが、伝統的にはソロモン王だと言われてきました。確かに、2:4-10に出てくる伝道者の姿は、ソロモン王にぴったり一致します。

「私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すために池も造った。私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった」

しかし、彼ははたと気づきます。

「知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者はやみの中を歩く。しかし、みな、同じ結末に行き着くことを私は知った。私は心の中で言った。『私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか』。私は心の中で語った。『これもまたむなしい』と」(2:14-15)

人生が死んで終わりだったら、人生とは何と空しいことか。努力してもしなくても、正しく生きてもいい加減に生きても、結末は一緒だからです。

死んで終わりではない

しかし、最後の最後に、伝道者は結論を語ります。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ」(12:13-14)

時々、「キリスト教では、すべての罪は、キリストの十字架によって赦されているなどと教えていますが、そんなことを教えていたら、人はつけあがってどんどん罪を犯すようになるんじゃないですか?」というような質問を受けることがあります。

残念ながら(?)そうはなりません。なるとしたら、それは聖書の教えを中途半端にしか信じていないからです。標準的なクリスチャンが、「どうせ赦されるなら安心して罪を犯そう」などと思わない理由は、3つあります。それは、伝道者12:13-14とも関連しています。

(1) 神さまを尊敬し、愛しているなら、そんな真似はできません
(2) やがて来る世で損をします
(3) 地上でも損をします
 → 詳しくはこちらの記事をお読みください。

だから

伝道者は、人生は空しくないことを知りました。確かに神さま抜きの人生、自分勝手に生きるだけの人生なら空しいでしょう。しかし、神さまを信じ、神さまに従う人生には意味があるのです。

2.堅い食べ物

なぜ神のみこころに従うべきなのか

以前、ある町のALT(外国語指導助手)の先生たちの家庭集会に出席したことがあります。集会はすべて英語だったので、全部を理解できたわけではありませんが、心に残るエピソードがありました。

それは、説教者の先生が他の先生たちに、「私たちはどうしてイエスさまのみこころに従い、イエスさまの命令を守らなければならないのか?」と問いかけたときのことです。皆さんだったら、どう答えますか?

参加者たちは「それが最も安全だから」「そうすれば祝福されるから」などと答えていましたが、一人が「だって、イエスさまは神であって、神さまのおっしゃることなんだから従わなきゃ」と答えた時、リーダーは「その通り」と言いました。

「確かに、神さまの命令に従う生き方をすれば、私たちは祝福されるだろう。でも、私たちは、たとえそうじゃなくても神さまに従うべきなんだ。実際、神さまに従った結果、人間的には損をすることだってあるし、場合によっては迫害されたり、殺されたりすることだってある。それでも神さまに従うのは、命じておられるのが神だからだ」と。

御利益宗教に慣れている私たち日本人の信者にとって、これは目から鱗の教えです。少なくとも私は、思わず背筋を伸ばしたくなる答えでした。「あなたは、いつの間にか信仰を、あなたにとって得か損かで捉えていませんでしたか?」と、聖霊さまに指摘された気がしました。私は、「イエスさまを信じれば祝福されますよ」という軟らかい食べ物ばかり求めていたのかもしれません。

乳児は自己中心なのが順調

もちろん、信仰の入り口は軟らかい食べ物でかまいません。イエス・キリストを信じたら、この孤独がいやされるかしら、病気が治るかしら、子どもの非行がなくなるかしら、結婚できるかしら、商売が順調にいくようになるかしら……私たちは様々な理由で教会や聖書に近づきます。それでいいのです。

そして、聖書は、神さまがあふれるばかりに私たちを愛し、祝福してくださっていると教えています。

赤ちゃんは自己中心です。お返しなんか気にしないで、一方的に愛され、守られ、養われます。それが順調です。この時期に十分に、一方的な愛情を受け取らないと、大きくなった時に様々な問題を抱えることになります。

私たちクリスチャンも、「神さまの命令を守ったら愛してもらえる」という律法主義に陥らないように、イエス・キリストの十字架と復活をいつも心に留めていましょう。

「神を恐れる」とは、罰を恐れてビクビクすることではありません。神さまのあまりの愛の大きさ、イエスさまの恵みの深さに感動し、圧倒されることです。

愛を十分いただいたら

しかし、子どもが大きくなってからも、いつまでも自己中心では困ります。私たちも、イエスさまの恵み、父なる神さまの愛を確信した上で、損得抜きでイエスさまに従い、神さまのみこころに添った行動を行なおうとする、そんな生き方を目指していきましょう。

まとめ

損得抜きで、イエスさまのみこころを実践する。そんな生き方ができるよう、神さまに力を求めましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


Copyright(c) 2015 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.