問いかける創造主

トップページ聖書のメッセージ集2016年 > このページ


創世記1章1節

(2016.1.10)

参考資料


聖書からのメッセージ

イントロ

スポーツでも芸術でも、基本がとても大切です。聖書は創世記から始まります。創世記を理解することが聖書の学びと信仰生活の基本です。

1.すべては神によって造られた

創造主である神

聖書は、神さまが天地(この宇宙)を創造なさったという記事から始まっています。ヨハネ1:1-3でも、ヨハネはイエスさまのことを「ことば」と呼んで、こう書いています。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」

ある人が言いました。「神が世界を創造したのなら、その神を創造したのは誰?」 もしも聖書の神さまが誰か他の存在によって造られたのだとしたら、それはもう聖書が教える神さまではありません。聖書の神さまは、何者によっても創造されず、初めから存在しておられます。むしろ、あらゆるものが神さまによって創造されました。これが聖書の教える神さまです。

絶対者である神

そもそも、「神」という訳語には少し問題があります。私たち日本人の多くは、多神教の文化の中で育っていますので、神という言葉を使うと、どうしてもたくさんいる神々の中の一人というイメージがつきまといます。文化的影響というものは意識されないことが多いので、そういう神イメージは私たち日本人の無意識の中にまで染みついています。

日本神話やギリシャ神話を読んで分かる通り、多神教の神々は、人間よりは力がありますが不完全です。ですから、家内安全はこの神社、縁結びはこの神社、商売繁盛はこの神社というふうに、御利益の守備範囲が決まっています。そして、それらの神々はとても俗っぽくて、自分の欲望を満たすために失敗したりとんでもない事件を引き起こしたりします。人間くさくて親しみやすくはあるけれど、絶対的な存在、全知全能の存在ではありません。

ですから、普通の人よりちょっと優れた人は神と呼ばれます。たとえば商売に長けた社長のことを「経営の神さま」、スピードの速い駅伝選手を「山の神」というふうに。そして、人が死ぬと、神や仏として礼拝の対象にもなります。徳川家康や菅原道真のように、何か功績を立てた人や尊敬された人は、神社まで建ててもらえるのです。

そんなわけで、今後は「神」という言葉はできるだけ使わず、「創造主」とか、「ヤハウェ」(聖書の神さまの名の一つ。新改訳聖書では太文字の「」)とか呼ぶことにします。
 ※ヤハウェという名についての詳細は、こちらのメッセージをお読みください。

創造主が存在するなら、その方は世界のあらゆる法則、たとえば物理法則や時間の流れからも独立しておられます。いわゆる奇跡を行なうことも簡単にできますし、ずっと未来のことまで見通すことがおできになります。どんなものも、悪魔でさえも、創造主のなさることを妨害することはできません。

そういう絶対的な創造主の存在を信じ、その方に信頼して生きるのか、それとも人間にちょっと毛が生えた程度の相対的で不完全な神を信じるのか。それによって私たちの生き方は大きく変わってきます。あなたの神さまイメージはどうですか? 日本の多神教的な影響で、小さくて不完全でいい加減な神さまイメージを持っていませんか?

あなたを創造した神

すべての人間はヤハウェによって創造されました。あなたもそうです。

進化論に立つ人間観では、私たちの存在は偶然の積み重ねによってもたらされたということになっています。そこには意味も目的もありません。しかし、もしも私たちがヤハウェによって創造されたのだとすれば、私たちは自分で生きているのではなく、生かされている存在です。私たちがここに存在する意味、目的は確かにあります。そして、その意味や目的は、私たちを創造なさった方、ヤハウェとの関係抜きに見つけることはできません。

現代の思想の特徴の一つは、人間中心主義です。これは、人間をすべての中心にする考え方のことです。「私がどう考えるか」「私がどう感じるか」「私が何をしたいか、したくないか」「私がいいと思うか、悪いと思うか」が価値判断の基準だということです。

そして、クリスチャンでも、気をつけていないと人間中心的な信仰生活に陥ってしまいます。それでは、何のために生きているのか、何のために勉強したり仕事をしたりするのか、見つけることはできません。

たとえば、聖書はこう教えています。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」(エペソ2:10)

私たちがこの世に存在する目的の一つは、良い行ないをすることです。しかも、その良い行ないはヤハウェが備えてくださったというわけですから、良いか悪いかを決めるのはヤハウェだということです。自分がどう思うか、どう感じるかということは、もちろんおろそかにしてはいけませんが、それ以上に私たちはヤハウェとの関係を大切にして、この方が私たちに何を期待し、何を教え、何を語っておられるか、素直に耳を傾ける必要があります。

芸術作品や工芸品が、それを造った人の存在を明らかにするように、私たちヤハウェに造られた者たちは、その生き方を通して、ヤハウェの存在を明らかにします。

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」(第1コリント6:20)

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」(第1コリント10:31)

この話をお読みください

私たちの一挙手一投足が、ヤハウェの期待されたようなものとなり、それによってヤハウェがどんなに素晴らしいお方なのかということが、私たちにも他の人たちにもますます明らかになりますように。そんな生き方を、私たちがこの一年も行なうことができますように。

2.問いかける創造主

当然の前提

不思議なことに、聖書は創造主であるヤハウェが本当に存在するのかしないのか、その存在を証明しようとしていません。天地を造られたヤハウェがいらっしゃるということを当然の前提として話を進めています。

私たちは問いを発します。「聖書が教えるような創造主は存在するのか、しないのか?」 しかし、聖書はその質問に答えることをせず、逆に私たちに問いかけます。「あなたは、創造主の存在を信じて、この方に信頼し、また従うのか、それとも信じないのか?」と。

イエス・キリストによる救いも同じです。聖書ははっきりと教えています。
  • 人はヤハウェに従わずに罪を犯した。だから、本来であれば罪の罰として永遠の滅びを味わわなければならない。
  • しかし、ヤハウェは人を愛しておられるので、人を罪の罰から救い出し、平和な関係を取り戻すことを計画なさった。
  • そして、人となられたヤハウェ、イエス・キリストが十字架で死なれた。それは、本来はあなたが受けるべき罪の罰を身代わりに受ける行為だった。だから、あなたに対する罪の罰はすでに執行されたことになり、法的にもう終わったことになった。
  • さらに、イエス・キリストは3日目によみがえり、今も生きておられ、あなたのため父なる神さまに取りなしをしてくださっている。
  • このイエスさまの十字架と復活を信じるだけで、あなたの罪は赦され、あなたは救われて、ヤハウェの子どもにしていただき、ヤハウェから子どもとして永遠に祝福されるという特権が与えられる。
これが救いの大前提です。ヤハウェはあなたを愛しておられます。イエスさまは、すでに私たちの救いに必要なわざ(十字架と復活)をすべて完了しておられます。救いに関するボールは、すでに私たちの側に投げられているのです
  • ヤハウェがあなたを愛し、祝福し、幸せにしようと決めておられるということを、あなたが信じるのか、信じないのか、ということです。
  • 十字架と復活を信じるのか、それともまだ信じようとしないのか、ということです。

ヨブの態度

旧約聖書のヨブ記を読んだことがありますか? ヨブという人はヤハウェを信じ、忠実に従っていました。しかし、彼の身には次々と不幸な出来事が押し寄せました。彼は「どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないのか」という思いに苦しみました。

ヤハウェは、その問いには一切答えません。ただ、ご自分が世界を創造した絶対者であり、決して間違いを犯さない知恵に満ちた存在だということをお示しになっただけです。最終的にヨブはそれで満足しました。自分の身にどうしてこんなことが起こるのか、理性的にも感情的にも納得できないけれど、神さまは間違いを犯さない方だとと信じたからです。

この話をお読みください

あなたへの問いかけ

今日、聖書はあなたにも問いかけています。あなたは、聖書が教える創造主ヤハウェを信じ、この方に信頼し、この方を愛し、この方を一番にし、この方に従いますか? それとも、これからも自分がどう思うか、どう感じるか、どうしたいかだけを頼りに生きていきますか?

まとめ

私たちが信じる神は、相対的で不完全な存在ではなく、この世界を創造した、絶対的な存在、ヤハウェです。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


Copyright(c) 2016 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.