カインとアベル

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創世記4章1〜16節

(2016.1.31)

参考資料

3章の、アダムとエバの堕落の記事はとても重要な箇所ですが、2011年11月27日2015年11月29日に取り上げましたのでスキップします。今回は、アダムとエバがエデンの園を追い出された後の話です。

1節の「知った」というのは、単に知的に理解することではなく、体験的に知ることで、ここでは性的な交わりの婉曲表現です。

1節の「私は、【主】によってひとりの男子を得た」は、直訳すると「私はひとりの男子、(すなわち)【主】を得た」です。エバが、3:15で約束された、人類を罪ののろいから解放する「女の子孫」(救い主)はこの子だ、と期待したということです。
しかし、その期待はまもなく失望に変わります。カインの人格が、自分たち同様、救い主とは思えない罪深いものだということを思い知らされたからでしょう。だからこそ、次男アベルには「空虚」(ハビル)という意味の名を付けたのでしょう。ちなみに、カインの名は、「得る」(カニシー)という言葉の音に似せて付けられたと思われます。

7節の「恋い慕っている」は、(罪がカインを)「支配しようとして狙っている」という意味です。3:16の(妻は)「夫を恋い慕う」も同じ言葉ですね。すなわち、同じ意味です。

15節のしるしがどういうものかは分かりませんが、他の人が目で見て分かるようなものでしょう。

16節のノデは、「さすらう」という意味です。

聖書からのメッセージ

イントロ

罪を犯したアダムとエバは、エデンの園を追い出された後、カインとアベルを生みました。そして、カインがアベルを殺すという恐ろしい事件が起こります。この恐ろしい出来事の背後にも、創造主の神であるヤハウェの愛と恵みが示されています。それを見つけ出し、私たちも応答しましょう。

1.事件の背景

受け入れられなかったささげ物

あるとき、カインとアベルの兄弟は、それぞれささげ物を、創造主である神、ヤハウェにささげようとしました。

3節の「【主】へのささげ物を持って来た」という文は、「主のもとに献げ物として持って来た」(新共同訳)という意味で、ささげる場所が決まっていたことを暗示しています。おそらく、エデンの園の入り口の前でしょう。そこには、人がエデンの園に入らないよう、天使であるケルビムと輪を描いて回る炎の剣が置かれていました(3:24)。同じく3節の「ある時期になって」という言葉は、定期的にというニュアンスがあります。アダム一家は、定期的にエデンの園の入り口の前にささげ物を携えてきて、礼拝をささげていたのでしょう。

ところが、兄カインがささげた農作物は拒否され、弟アベルがささげた羊の初子は受け入れられました(映画では、アベルのささげ物の上にだけ、天から火の玉が降ってきて焼き尽くすというような描かれ方がされたりしています)。いったいなぜでしょうか。アベルは羊飼いだったから羊をささげ、同じようにカインは農夫だったから農作物をささげたのでしょう。そのどこがいけないというのでしょう。ヤハウェは、肉は好きだけれど野菜は嫌いだという、偏食の激しい子どもみたいな方なのでしょうか。

この理由を探るには、3章の記事に返らなければなりません。罪を犯したアダムとエバは、自分たちが裸であるのを恥ずかしく思うようになりました。ありのままの自分を受け入れられなくなってしまったのです。そこで、ヤハウェは、皮の衣を作って2人に着させた上で、エデンの園を追い出しました。

ここで、皮の衣が作られたということがどういうことか考えてみましょう。皮を剥ぐために、少なくとも1頭、あるいはそれ以上の獣が血を流し、殺されたということです。それまで、動物が死ぬということはありませんでした。しかし、アダムの罪のために、死が地上に始まったのです。

ヤハウェは「罪を犯すと死ぬ」と警告なさいました(2:17)。その警告通り、罪を犯した人類は、まず霊的に死んで、ヤハウェとの親しい関係が切れてしまいました。そして、やがて肉体的にも死ぬことになってしまいました。肉体的な死とはどういうものか、それまでアダムとエバは知りませんでしたが、皮の衣を作るために獣が死んだのを見て、二人はその意味を知り、震え上がったことでしょう。

と同時に、アダムとエバは、罪に対する厳しいさばきの中にも、ヤハウェの愛と恵みが満ち満ちているということを体験しました。ヤハウェは、動物の血を流し、それによって皮衣を作って彼らの恥を覆ってくださったのです。ヘブル語の「赦す」という言葉は「覆い隠す」という意味があります。ヤハウェは、アダムとエバの罪を覆い隠し、赦してくださいました。

この出来事によって、ヤハウェに礼拝をささげる際、犠牲の動物を殺して血を流し、その血をささげるという習慣ができあがったと考えられます。それによって罪が覆い隠されて、きよいヤハウェに受け入れていただき、親しい交わりができるようにするためです。

この血の犠牲の制度は、旧約聖書の歴史の中で連綿と続いていきました。ずっと後に定められたモーセの律法でも、穀物のささげ物は単体でささげるものではなく、血の犠牲(動物犠牲)と共にささげるものでした(レビ23:37など)。

ですから、カインはそれまで、アベルから動物を買い取って、それで血の犠牲をささげていたはずです。しかし、このときには手を抜いて、自分の家にある穀物で間に合わせようとしました。しかも、4節でアベルのささげ物が最上のものだったとわざわざ書いてあるということは、カインのささげた作物は最上のものではなかった、いわばささげても惜しくないような低質のものだったということを示唆しています。

アベルは、自分が犯してしまった罪が覆われて、ヤハウェに受け入れられることを心から願っていましたが、カインは、形だけの宗教行事として礼拝しようとしていたと言えるでしょう。当然、人のうわべでなく心をご覧になるヤハウェ(第1サムエル16:7)は、カインのささげ物を拒否なさいました。

悔い改めない心

カインは、自分と弟に対するヤハウェの扱いが違うことに、「差別だ」と腹を立てました。もちろん差別しているのではなく、ちゃんと理由があってのことです。そこで、ヤハウェは穏やかに優しくカインを諭します。「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる」と。すなわち、私はあなたを嫌っているわけじゃない。やり方が間違っているから受け入れなかっただけだ。正しい心と行動でやり直せばいいだけだよ、と。

そして、こう勧めました。「ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」。罪の思いがあなたをコントロールして間違った行ないをさせようとしているが、あなたの方が罪の思いをコントロールして、正しい行ないができるようにしなければならないよ、と。

ところが、カインは悔い改めませんでした。嫉妬のあまり罪の思いに支配されてしまったカインは、アベルを呼び出して殺してしまいました。

さらなるヤハウェの愛と恵み

ヤハウェは、殺人の罪を犯したカインに尋ねました。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」。もちろん、ヤハウェは全知全能ですから、カインのしたことは百も承知です。それでもあえてこう質問したのは、アダムとエバの時と同様(3:9-13)、自ら罪を告白して赦しを求めて欲しかったからです。私たちが信じるヤハウェは、なんと愛と恵みに満ちたお方でしょうか。

しかし、カインは「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか」などとしらばっくれて、ごまかそうとします。そこで、やむなくヤハウェはカインに彼の罪状を突きつけました。それでもカインは悔い改めず、ただ自分が殺されることを恐れて嘆くだけでした。

ヤハウェの恵みに満ちた対応は続きます。「そんなの自業自得だ」と突き放すのではなく、カインが殺されないようにしるしを与えてくださいました。それに対してカインは、ヤハウェに感謝してとどまったのではなく、御前から離れていってしまいました。

今回の箇所には、ヤハウェのあふれる恵みと、それを受け取って新しい生き方をしようとしないカインの姿の対比があります。では、ここから私たちは何を学べるでしょうか。

2.恵みに応えて生きていこう

カインとアベルの違い

アダムとエバは罪を犯しました。悔い改めを期待してヤハウェは「あなたはどこにいるのか」と尋ねましたが、2人は責任転嫁することで自分の罪をごまかそうとしました。

そんな彼らでしたが、「女の子孫」の約束をいただき、さらに裸の恥を覆う皮の衣を作っていただいたことで、ヤハウェは罪を赦してくださり、交わりを回復してくださるお方だということを知りました。だからこそ、彼らは「女の子孫」の登場を待ち望み、血の犠牲をささげて定期的に礼拝していたのです。カインが救い主ではないことが分かって、一時的にガッカリはしましたが、救い主登場の約束そのものを信じなくなったわけではありません。それは、「女の子孫」に関する約束が末代(つまり、私やあなたのことです)まで伝わっていることから分かります。

カインとアベルは、この同じ両親の元に生まれ、育ちました。二人とも、アダムとエバから罪の性質を引き継いでいました。カインだけでなく、アベルもまた罪人だったのです。2人の違いはどこにあったのでしょうか。それは、ヤハウェの愛と恵みを受け取って感謝する心を持っていたか、それともそれを受け取ることをしなかったかどうかでした。

アベルは、アダムとエバに教わった通り、ヤハウェが愛と恵みの神であり、赦しを与えてくださる方だということを信じていました。そして、そのことに感謝し、自分の罪を覆う血の犠牲をささげて、喜んで礼拝しました。しかし、カインはそれを信じませんでした。だからヤハウェに対する感動も感謝も喜びもなく、礼拝が形だけになりました。そして、罪を示されても、悔い改めて正しい生き方に戻る代わりに、ごまかしたり、いたずらに刑罰を恐れて嘆いたり、逃げ出したりしました。

究極の血の犠牲

アダム一家の時代に始まった血の犠牲は、その後もずっと続けられます。罪人がヤハウェに近づき、祈りを聞いていただいたり、礼拝をささげたり、祝福をいただいたりする場合、血の犠牲をささげて罪を赦していただく必要があるからです。

しかし、今の時代、キリスト教会で礼拝のたびに動物の血を祭壇にささげるような真似はしません。それは、「女の子孫」である救い主、イエス・キリストが、究極の血の犠牲をささげてくださったからです。それは、十字架にかかることで流してくださった、イエスさまご自身の血です。

「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです」(ヘブル7:27)

アベルのような生き方を選び続けよう

私たちは、イエスさまによって罪が赦されました。今、私たちはカインのような生き方と、アベルのような生き方のどちらを選ぶか、選択しなければなりません。アベルの死後、エバはまた男の子を産みました。その名はセツと名付けられます。セツは、カインではなく、アベルの生き方を引き継ぎました。その家系に、やがてノアが現れます。

もしあなたが福音(第1コリント15:1-5。すなわち十字架と復活)を信じてクリスチャンになったのなら、あなたはアベルやセツのような生き方を選んだということです。せっかく良いスタートを切ったのですから、その良い道にとどまり続けましょう。

アベルやセツは、カインと同じように罪人でした。しかし、自分の罪を自覚させられたとき、ごまかさないで素直に認めました。また、ヤハウェは罪を赦してくださり、親しい交わりを回復してくださるのだということを信じました。そして、赦されるためには血の犠牲が必要だから、血の犠牲をささげました。今の私たちにとっては、イエスさまの十字架によって自分の罪が赦され、ヤハウェとの愛の交わりが回復していることを再確認するということです。そして、アベルやセツは罪の行ないをやめ、改めてヤハウェが望まれる生き方を行ないました。

私たちもそういう生き方をしましょう。

まとめ

ヤハウェの愛と恵みを信じ、感動しましょう。イエスさまが尊い犠牲を払ってくださったことを感謝しましょう。罪はすぐに認めて悔い改めましょう。ヤハウェとの深い交わりを求めましょう。そして、感動と感謝をもって、喜んで礼拝しましょう。

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