再出発

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ヨハネ21章15〜19節

(2016.3.27)

参考資料

イエスさまとペテロの愛に関する問答で、イエスさまが尋ねた最初の2回の「愛する」は、ギリシャ語でアガパオー(アガペーの動詞形)が使われており、ペテロの答えと3回目のイエスさまの質問ではフィレオー(フィリアの動詞形))が使われています。アガペーは無条件の愛、一方的な愛を表し、フィリアは家族や友人など親しい者に対する愛を表します。

しかし、イエスさまとペテロはギリシャ語ではなくアラム語を話していたわけですから、あまりこの区別に意味はないでしょう(17節の「イエスが三度愛しますかと言われた」の所には、フィレオーが使われていますし)。意味があるとしたら、著者であるヨハネが、イエスさまやペテロの思いを想像して、あえて書き分けたのでしょう。

18節は、やがてペテロが捕らえられて殺されることを表しており、「手を伸ばし」というのは、十字架刑を示していると言われています。伝承によれば、ペテロは皇帝ネロの時代(AD67年)、十字架に逆さまにかけられて殉教しました。

聖書からのメッセージ

イントロ

あなたは自信がありますか? 自信がないとしてもご心配なく。むしろ、自信がないことは素晴らしいことです。それを、復活なさったイエスさまと使徒ペテロの対話から読み取りましょう。

1.あなたはわたしを愛するか

この人たち以上に

復活なさったイエスさまは、ガリラヤで弟子たちと再会なさいました。一緒に食事をした後、ペテロを呼んで個人的に話をなさいました。それは「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」という質問で、それが3回続きました。

15節の「この人たち以上に」という言葉は、「他の弟子たち以上に」という意味ですね。イエスさまがあえて競争をあおるような問いかけをしたのはなぜでしょうか。

かつてのペテロも他の弟子たちも、自分こそ一番弟子である、自分こそイエスさまが建設なさる神の国で最も高い地位をいただけるはずだという自負を持っていて、時に対抗意識をむき出しにしていました(ルカ9:46)。

十字架直前の、最後の晩餐の時、イエスさまは弟子たちの中の一人が裏切るとおっしゃいましたが、そのとき弟子たちは誰が一番偉いかと論じ合っていました(ルカ22:24)。そして、ペテロは、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」と豪語します(マタイ26:33)。

しかし、イエスさまが預言なさった通り、鶏が鳴く前に、ペテロは自分も逮捕されるのではないかと恐れて、「おまえもイエスの弟子だろう」と尋ねられた時、「イエスなんか知らない」と3度も否定してしまいました。

「私を愛するか」と3度尋ねられたペテロは、心を痛めたと書かれています(17節)。自分こそ一番イエスさまを愛しており、忠実であると傲慢になっていた自分の姿、そして3度も知らないと否定してしまったことを思い起こさせられたからです。

これらのもの以上に

イエスさまの問いかけは、実は別の解釈も可能です。「この人たち以上に」は、「これらのもの以上に」と訳すこともできるのです。その場合、「これらのもの」とは、文脈上、漁による収穫、あるいは漁師としての仕事、安定しているけれど古い生き方などを指します。

ペテロはイエスさまが神の国を実現したら、そこで高い地位を得ようと思っていましたが、イエスさまが亡くなった後、将来の希望を失ってしまいました。すでに復活のイエスさまにお目にかかっていましたが、3度もイエスさまを裏切った自分には、前のようにお仕えする資格はもうなくなったと思ったかもしれません。そこで彼は、漁師の仕事に戻ろうとしました(21:3)。

イエスさまの3度の問いかけは、ペテロに信仰を失いかけていた自分の姿を思い知らせました。イエスさまを愛し、お仕えしていたはずの自分は、この世を愛して、元の生き方に戻ろうとしていた。それどころか、イエスさまへの信仰よりも自分の命の方を優先させて、イエスさまを3度も知らないと言ってしまった。それを思い知らされることは、ペテロにとって痛いことでした。

再チャレンジの許可

いずれの解釈にせよ、ペテロは失敗しました。イエスさまを愛していると言いながら、そして他の弟子たちよりもずっと自分の方が忠実であると言いながら、イエスさまよりもこの世や自分の命の方を優先させてしまいました。イエスさまの問いかけは、それをペテロに改めて思い知らせました。

しかし、イエスさまが3度も「わたしを愛するか」とお尋ねになったのは、ペテロの罪を責め、いじめて懲らしめるためではありませんでした。3回裏切ったから、3回信仰を告白してやり直すチャンスを与えてくださったのです。

「もう自分なんかに資格がないと恐れる必要はない。わたしはあなたをわたしの流した血によってもう赦した。だから、もう一度私に従ってきなさい。私と共に神の国を完成させる働きをしようではないか」。そう誘っておられます。

私たちは、イエスさまの十字架と復活の力を値引いてはなりません。イエスさまに赦せない罪は何一つありません。あなたが赦しを受け取るなら、いつでもそこから再出発することができます。

さて、再出発を許可されたペテロには、どんな人生が待っていたのでしょうか。

2.謙遜から始まる力ある生活

迫害と殉教の預言

再出発を始めたペテロに、イエスさまは預言をなさいました。それは、参考資料に書いた通り、彼が迫害の末に殉教の死を遂げるというものでした(18節)。

これは、迫害を恐れてイエスさまの弟子であることを否定したペテロに、まさに命をかけて信仰を告白するチャンス、すなわち迫害よりも殉教よりもこの世よりも何者よりも、自分がイエスさまのことを愛しているということを証明するチャンスが与えられるということです。

それにしても過酷な未来が待っていますね。果たしてそんな大それたことが、臆病なペテロに可能なのでしょうか。かつてのペテロだったら、自信を持って「できる」と言ったでしょう。しかし、前回はそれでも失敗しました。今回も同じ結果が待っているんじゃないでしょうか。

いいえ。ペテロは、そのときが来ると、命がけで信仰を告白しました。何度も迫害に遭い、命の危険に合いました。そして、最後には皇帝ネロの迫害で命を落とします。それでも彼は「私はイエスを愛する」と言い続け、その殉教の死の姿を通して、ローマの信徒たちを励ましました。 その力は、どこから来たのでしょうか。

力は神から来る

この世の成功哲学は、成功したければ自信を持てと教えます。たとえば、何度も「自分にはできる」と唱えなさいなどと。しかし、前回のペテロは自信に満ちあふれ、「私にはできる」と言いましたが、失敗してしまいました。

一方、今回のペテロは、自信を完全に打ち砕かれていました。イエスさまも、3度も「わたしを愛するか」と尋ねて、過去の失敗を思い起こさせ、ペテロの自信のなさをわざわざひどくするようなことをなさっています。実は、ここが重要なポイントです。

この世では自信がないと成功しないのかもしれませんが、神の国においては、自信がないことが成功の秘訣なのです。なぜなら、神の国における成功は、創造主の神ヤハウェの力によって成し遂げるものだからです。

もしも、私の努力や工夫によって何かすごいことが成し遂げられたのなら、ほめたたえられるのは私です。しかし、私が無力であって、ヤハウェの助けによって何かを成し遂げられたのなら、ほめたたえられるのはヤハウェです。

神の国における成功とは、私たちがほめられることではありません。私たちが自己実現することでもありません。神の国の成功とは、ヤハウェの栄光(すばらしさ)が明らかになり、ヤハウェがほめたたえられることです。

愛していますと告白しよう

ですから、自信がないのは素晴らしいことです。あなたに自信がなければないほど、聖霊なる神さまの働く余地が大きいからです。そして、聖霊さまが働かなかったら、こんなことはできなかったと、誰しもが認めることになるからです。

ですから、自信のなさを感謝しましょう。自分には武器となる能力や他に誇るべき実績が何もないと思えたことを感謝しましょう。あなたは、復活のイエスさまによって謙遜にしていただいています。そして、聖霊さまによって満たされ、聖霊さまのお助けによって、父なる神さまの栄光を現すことができます。

そのために必要なことは、「これから私は素晴らしいことを行ないます」と誓うことではありません。ただイエスさまが命がけで自分を愛してくださり、不完全なままの自分を受け入れ、これからも共に働こうと決めてくださっていることに感謝して、「イエスさま、私もあなたを愛します」と告白することです。

そうしたら、あなたの人生に何かが始まります。あなたの周りの人たちの人生に何かが始まります。あなたの学校や職場、地域や国や世界に何かが始まります。あなたの力ではなく、聖霊さまのお力によって。

まとめ

イエスさまは復活なさいました。今日も生きておられます。ペテロや他の使徒たちだけでなく、あなたにも謙遜を教え、ヤハウェの栄光が現れる生き方へと背中を押してくださいます。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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