とりなし手としての使命

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創世記18章16〜33節

(2016.4.3)

参考資料

16節の「その人たち」は、ヘブロンの近くで天幕生活をしていたアブラハムとサラ(17章で改名しました)の元に、来年息子が誕生することを告げに来た3人の人です。2人は天使ですが、残る1人は創造主ヤハウェです(受肉前の子なる神、すなわちやがて救い主イエスさまとして地上に誕生なさるお方だと言われています)。

20節の「ソドムとゴモラ」は、死海の南にあった町です(正確な場所は不明で、今は水没していると考えられています)。

地図はこちらを参照

「ソドムとゴモラの叫び」は、これらの町の人々の罪を糾弾する声のことで、これらの町や周辺の町々にいて、彼らによって苦しめられている被害者たちの叫びでしょう。19章で、2人の天使がソドムに遣わされますが、彼らをもてなすために家に招いたロト(アブラハムの甥)に対して、町の男たちがやってきて「彼らを差し出せ。彼らをよく知りたい」と強要しました(「知る」は、聖書ではしばしば性行為を指します)。ソドムは性的な堕落が甚だしかったことが分かります。なお、ここから、同性愛や幼児性愛、獣姦など不自然な性行動を指す、英語のソドミー(sodomy)という用語が作られました。

22章の「その人たち」は、2人の天使。ヤハウェはまだ丘の上に留まり、アブラハムと話を続けておられます。

聖書からのメッセージ

イントロ

アブラハムは、ソドムの町が滅ぼされないよう、必死でとりなしをしました。ここから、私たちに与えられているとりなし手としての使命について確認しましょう。

1.アブラハムのとりなし

ヤハウェの思い

天地を造られたまことの神ヤハウェは、2人の天使を伴って、アブラハムの元を訪れました。そして、来年の今頃、彼の妻サラが男の子を産むと約束なさいました(18章の前半)。それから、彼らはソドムとゴモラのある低地に向かっていき、アブラハムも、彼らを見送るためについて行きました。

ソドムを見下ろせる丘の上につくと、ヤハウェはこんなふうにお考えになりました。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」(17節)。これは、ノーを期待する質問です。すなわち、アブラハムには隠しておくべきではない、必ずこれからの計画を打ち明けなければならない、ということです。

なぜでしょうか。ヤハウェは続けてこんなふうに考えておられます。「アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである」(18-19節)

アブラハム(と、その子孫であるユダヤ人)が祝福されるだけでなく、彼らを通して全世界の人々が祝福されるというのが、アブラハム契約の中の祝福の約束でした。ところが今、全世界の人々の中の一部が、罪のためとはいえ滅ぼされようとしています。彼らに祝福をもたらすチャンスをアブラハムに与えないまま、さばきを実行することはできないと、ヤハウェはお考えになったのです。

ヤハウェの願いは、アブラハムによって、ソドムやゴモラがのろいではなく祝福を受け取れるようにすることです。すなわち、アブラハムが彼らのために赦しを願うこと、とりなしをすることでした。

アブラハムの応答

ソドムとゴモラに対するさばきの計画を知らされたアブラハムは、ヤハウェの期待通り、何とかさばきが下らないように、とりなしを始めます。なぜなら、ソドムには、愛する甥のロトとその家族が住んでいたからです。ソドムが滅ぼされれば、ロト一家も一緒に死んでしまいます。

アブラハムはヤハウェに尋ねました。「もしかしたら、町の住民全部が悪人なのではなく、正しい人が50人いるかもしれません。それでもあなたはさばきを決行なさって、正しい人も一緒に滅ぼしてしまわれるおつもりですか?」と(23-24節)。

しかも、彼は闇雲に願ったわけではありません。彼には、ヤハウェは正しい人と悪人とを一緒に滅ぼすような、そんなことをなさるお方ではないという確信がありました。ですから、「あなたは公正なお方だから、偏りのない正しい裁判をなさるはずです」と訴えかけました(25節)。

ヤハウェは、もちろん公正なお方ですから、50人の正しい人がいれば町を滅ぼすことはしないと約束なさいました。

続けてアブラハムは言いました。「正しい人は、50人でなく、45人かもしれません。それでもダメですか?」 ヤハウェは、それでも赦すとおっしゃいました。アブラハムは、40人、30人、20人と、条件のハードルを下げていきます。そして、10人まできました。ヤハウェは、それでも赦すと約束なさいました。私たちが信じる神ヤハウェは、そういうお方です。

ロト一家の救出

ところが、アブラハムは、10人でやめてしまいました。なぜ10人でやめたのかは聖書に書かれていないので不明ですが、それで十分と思ったのかもしれません。しかし、10人も正しい人がいなかったソドムは、ゴモラと共に滅ぼされてしまいました。

もしも1人まで条件を下げていれば、もしかしたらソドムは滅ぼされなかったかもしれません。第2ペテロ2:7はロトのことを「義人」と表現しているからです。

結果的にソドムは滅ぼされてしまいましたが、ヤハウェはアブラハムのとりなしを無視なさったのではありません。アブラハムの願いは、ロトとその家族が滅びを免れることです。ヤハウェは、その願いをかなえてくださいました。

19章で、2人の天使がソドムに住むロトの元を訪れ、これからこの町が滅ぼされると警告し、家族を連れて逃げなさいと命じます。そして、天使たちは、躊躇するロトたちの手をつかんで、強制的に町の外に連れ出します。ヤハウェは、ソドムとゴモラは、彼らのひどい罪の故に滅ぼしましたが、そこに住んでいたロトたちの命は守ってくださいました。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.祭司としての私たちの使命

命がけでとりなしたイエス

アブラハムは、ロト一家やソドム、ゴモラの人々の上に滅びのさばきが下らないよう、熱心にとりなしの祈りを捧げました。その祈りを聞いておられたのは、ヤハウェご自身でした。多くの聖書学者は、このお方は三位一体であるヤハウェの第二位格、すなわち子なる神だと言います。

子なる神は、紀元前6年頃、人となって地上にお生まれになります。すなわち、イエス・キリストです。イエスさまは、聖書が登場を約束してきた約束の救い主は、この自分だと主張し、それを証明するための様々な奇跡を行なわれました。ところが、当時のイスラエルの国は、それを受け入れず、イエスさまを逮捕してローマ人の手に渡し、十字架につけて殺させてしまいました。

その十字架の上で、イエスさまは、ご自分をあざける不信仰な人々を見つめながら、天の父なる神さまに祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)

これは、罪が赦され、罰が下らないようにと願う、とりなしの祈りです。しかも、命がけの祈りでした。イエスさまは、ご自分が十字架につけられ、血を流すことによって、それを信じる人の罪を赦し、神の子どもとして大いに祝福されるようにしてくださいました。

先ほど、アブラハムがとりなしをしたのは、ヤハウェの願いどおりだったという話をしました。私たちの神であるヤハウェは、人が一人として滅びることなく、イエスさまを信じて救われ、祝福されるようにと願っておられます。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(第2ペテロ3:9)
  • 「その約束」とは、不敬虔な人々の罪がさばかれるため、世界が火によって滅ぼされるということです。
私やあなたが救われたのは、ヤハウェが私たちの救いを強く強く願ってくださったおかげです。その願いの強さ、イエスさまが命をおかけになったほどの本気度を、自分の感覚や世間の常識で値引いてはいませんか?

そして、人々の救いは、私たちの願いでもあるでしょうか? 父なる神さまの子どもとされ、イエスさまのしもべとされ、聖霊なる神さまが住む神殿とされた私たちは、神さまの願いを自分の願いとしなければなりません。

そして、私たちもアブラハムのように、他の人々が罪の故に滅びることがないように、それどころか神の子とされ、大いに祝福を受けられるように、熱心にとりなしの祈りを捧げなければなりません。家族のために、友人や同僚のために、地域やこの国や世界の人々のために。

私たちは祭司である

黙示録5:9-10で、天国に住む4つの生き物と24人の長老が、イエスさまに向かってこんなふうに歌っています。「あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです」

また、第1ペテロ2:5にはこう書かれています。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい」

特に、「祭司」という言葉に注目しましょう。イエスさまが十字架の血によって救ってくださった者たち、すなわち私たちクリスチャンは、祭司と呼ばれています。

牧師や神父だけが祭司なのではありません。イエス・キリストの十字架と復活を信じてクリスチャンになった人であれば、年齢や性別、社会や教会での立場、信仰歴、身長、体重、性格に関わりなく、すべて祭司です。なお、この教えは、「万人祭司」と呼ばれていて、プロテスタント教会の中心的な教理です。

祭司の仕事

あなたは祭司なのですから、あなたも祭司としての仕事をしなければなりません。

祭司の仕事とは、ヤハウェと人とをつなぐことです。祭司は、人がヤハウェに近づくことができるよう、仲介者となります。人は罪のあるままでは聖いヤハウェに祝福されるどころか、近づくことさえできません。

そこで、旧約時代の祭司はその人の罪が赦されるよう、その人の身代わりとして動物を殺し、血を祭壇に注ぎかけ、死体を火で焼きました。そして、ヤハウェに代わって、人に向かって祝福の言葉を述べて送り出しました。

今の時代、すでに完全な犠牲の子羊として、イエス・キリストが十字架で死に、血を流してくださいました。ですから、私たちが血の犠牲をささげる必要はありません。イエスさまの十字架と復活を信じるだけで、人は罪赦され、神の子とされ、永遠の祝福を体験できます。

ですから、私たちは、大切な家族や友人たちが、そしてこの国の人たちや世界の人たちが、イエス・キリストの十字架と復活を信じることができるよう、熱心に祈りましょう。そして、イエスさまが悲しまれる罪深い生き方を離れ、イエスさまが喜ばれる正しい生き方、聖い生き方、愛に満ちた生き方に変えられるよう祈りましょう。そして、ヤハウェが用意してくださる祝福を、生きている今も、そして死んだ後に続く永遠の世界でも、十分に味わうことができるよう祈りましょう。

そして、人々に、イエスさまに命がけで愛され、祝福されているのだと語りましょう。

まとめ

私やあなたが救われるために、誰かが熱心にとりなしの祈りを捧げてくださいました。今度は私たちの番です。死を迎えるそのときまで、祭司としての働きをし続けましょう。ヤハウェは、あなたのとりなしの祈りを待っておられます。

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