イエスの友

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創世記22章1〜19節

(2016.4.24)

参考資料

この時、イサクは15歳くらいにはなっていたでしょう(人一人を焼き尽くすだけの薪を背負って山を登ったのですから)。次の章でサラが亡くなりますが、そのときイサクは37歳ですので、もしかしたら30歳くらいになっていたかもしれません。いずれにしても、多くの絵で描かれたような幼児ではなく、抵抗しようと思えばできる年齢だったということです。

2節の「モリヤの地」とは、ユダヤの伝承では、後にソロモン王が神殿を建てるエルサレムの丘です。

2節の「全焼のいけにえ」とは、体を全部焼き尽くして、煙を創造主ヤハウェにささげるいけにえのことです。これは、ささげる人の全面的な服従、献身を表現しています。

11節の「主の使い」は、普通の天使ではなく、三位一体の神の第二位格、すなわちずっと後の時代に、救い主イエスとして地上にお生まれになる子なる神のことです。

聖書からのメッセージ

イントロ

今回の箇所は2012年7月15日のメッセージでも取り上げましたが、このシリーズではまた別の角度から解説します。

アブラハムは、聖書の中で「神の友」と呼ばれています(第2歴代20:7、イザヤ41:8)。他には、モーセが間接的な表現でそう言われているくらいです(出エジプト33:11)。

私たちも、イエスさまにとって忠実なしもべであるだけでなく、親友のような親しい関係になりたいですね。今日は、アブラハムの姿からその秘訣を学びましょう。

1.イサクの奉献

神の友と呼ばれたきっかけ

新約聖書も、アブラハムのことを神の友と呼んでいます。

ヤコブ
2:20 ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
2:21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。
2:22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、
2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。


すなわち、アブラハムが神の友と呼ばれる特権が与えられたのは、今回の創世記22章の出来事が理由だったということです。

イサクの奉献

イサクが誕生して何年もたちました(15〜30年後?)。ある日、創造主ヤハウェが、イサクを全焼のいけにえとしてささげよとアブラハムに命じました。

2012年日のメッセージでも詳しく解説しましたが、これは単に愛する子どもを殺さなければならないというだけでなく、アブラハム契約そのものが危うくなるような命令です。

前回、ヤハウェは、イシュマエルを追放して、イサクがアブラハム契約の継承者だと確認なさいました。しかし、今回の出来事の時、未だにイサクは結婚しておらず、当然子どももいません。もしイサクが子を残す前に死んでしまったら、イサクから多くの子孫が出るというアブラハム契約の約束はどうなるのでしょうか。

しかし、アブラハムはヤハウェの命令に素直に従おうとしました。すなわち、イサクを縛り上げ、ナイフで頸動脈を切り裂こうとしたのです。それは、後で神さまが止めてくださるはずだと思ったからでも、殺すふりをしたのでもありません。ヤハウェが止めなければ、彼は本気でイサクを殺す気でした。

そのことについて、ヘブル11:17-19ではこう解説されています。「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる』と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です」

復活を信じたからこそ、アブラハムは、イサクをいけにえとしてささげることに同意しました。イサクもまた、抵抗しようと思えば十分できる年齢だったのに、素直に縛り上げられ、いけにえとして死のうとしました。二人の信仰深さ、特にアブラハムの信仰が大きく成長していたことがよく分かりますね。

ひとり子さえ惜しまないで

ヤハウェは、すんでのところでアブラハムを止めました。そして、こうおっしゃっています。

「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」(12節)

神さまは、アブラハムの信仰が本物だと認めてくださいました。アブラハムは、この信仰の試練を通して、ますます神さまとの関係を深めたのでした。聖書が「神の友」と呼ぶほどに。

2.神の友である私たち

ひとり子さえ惜しまないで

さて、12節のヤハウェの言葉にもう一度注目してみましょう。ヤハウェはおっしゃいました。「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」

この言葉を読むと、新約聖書のこの言葉を思い出します。

「 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:32)

アブラハムがひとり子イサクをささげたように、父なる神さまは御子イエスさまを私たちの救いのためにささげてくださいました。大義のために自分の子を犠牲にしなければならないその悲しみ、その苦しみを、アブラハムは体験的に知っています。アブラハムとヤハウェは同じ思いを共有していました。だからこそ、彼のことをヤハウェは「わが友」と呼ばれたのです。

イエスの友

さて、十字架にかかる直前、イエスさまは弟子たちにこうおっしゃいました。

ヨハネの福音書
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
15:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。
15:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。


イエスさまは弟子たちを友と呼んでくださいました。そして、友のために命を捨てるといい、実際に捨ててくださいました。

私たちも、ペテロやヨハネたちと同じ信仰を受け継ぐイエスさまの弟子です。ですから、私たちもまた、イエスさまの友です。そして、私たちの救いのためにも、イエスさまは命をささげてくださいました。

友は思いを同じくする

イエスさまの言葉に注目しましょう。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です」(ヨハネ15:14)

アブラハムは、ヤハウェの命令を忠実に守ろうとしました。そして、神の友と呼ばれるようになりました。私たちもまた、イエスさまの命令を忠実に行ないましょう。

文脈上、ここで言われているイエスさまの命令とは、12節の「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」です。イエスさまが愛されたように愛するとは、犠牲を払うということです。

友のために命をささげるのが最大の愛です。そこまで行かなかったとしても、愛には犠牲が伴います。人を真実に大切にしようとするなら、そしてそうすることが本当にその人のためになるのであれば、私たちは時間だとか、財産だとか、体力だとか、プライドだとか、何かを犠牲にしなければなりません。

それは簡単なことではありません。しかし、父なる神さまが、そして御子イエスさまが私たちのために犠牲にしてくださったものの大きさを思い起こしましょう。その感動、感謝が、私たちにも犠牲的な愛を可能にします。

まとめ

イエスさまの友である私たちは、たとえ犠牲を払うとしても、愛することを選びましょう。

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