神のしもべとしての生き方

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創世記24章1〜21節

(2016.5.1)

参考資料

前の章でアブラハムの妻サラが亡くなりました。このとき息子のイサクは37歳でした。そして、今日の記事はイサクが40歳の時の出来事です(25:20)。

9節の「ももの下に手を入れる」とは、生殖器に触れることの婉曲表現です。もし誓いを破ったら、たとえ自分が死んだとしても子孫が復讐するという意味を持つ、厳粛な誓いの儀式だと言われます。

10節のアラム・ナハライムは、メソポタミア(チグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域)北部のこと。パダン・アラムとも呼ばれています。ナホルの町とはハラン(カラン)のこと。ナホルはアブラハムの兄弟の名です。アブラハムたちは、ヤハウェの命令を聞いて元々住んでいたウルを離れて、聖地を目指しますが、ハランまで来たところで一時旅を中断します。父テラが亡くなってからアブラハムは聖地を目指しますが、ナホルはハランに留まりました(11-12章)。

当時アブラハムが住んでいたベエル・シェバからハランまでは、直線距離で730キロほどで、実際に歩けば800キロにはなるでしょう。これは、郡山から新幹線で大阪に行く以上の距離です。

聖書からのメッセージ

イントロ

前回学んだように、私たちはイエスさまに友と呼ばれています。しかし、新約聖書を書いた弟子たちは、自分のことをキリストのしもべと呼んでいます。今回は、イサクの嫁探しの任を受けたしもべの記事を通して、イエスさまのしもべとしての心構えを学びましょう。

1.命令をしっかりと聞き取る

しもべへの指令

アブラハムの息子イサクは、40歳になりましたが、未だ独身でした。そして、前の章で妻サラが亡くなりました。アブラハム自身はまだまだ元気でしたが(この時、アブラハムは140歳で、亡くなるのはまだ35年も先です)、だんだんと世代交代の時期が近づいてきたことを意識するようになったでしょう。そして、イサクのために嫁を探すことを決意しました。

アブラハムは、最も年長のしもべを呼んで、彼に嫁探しの任務を与えました。しもべの名は書かれていませんが、伝統的には、アブラハムに子が生まれる前、跡継ぎ候補となっていたしもべ、「ダマスコのエリエゼル」(15:2)がこの人だと言われてきました。名前がないと不便ですから、ここでは伝統に則って「エリエゼル」と呼ぶことにします。

しもべへの注意点

アブラハムがエリエゼルに与えた注意点は以下の通りです。
(1) カナン人の中から嫁をもらってはならない。
イサクの結婚がここまで遅れたのは、その土地に住むカナン人たちは、信仰的にも道徳的にも堕落しきっていて、まことの神ヤハウェに仕えるアブラハム一族の嫁として、ふさわしい女性を見つけることができなかったからでしょう。
(2) ナホルの町で、すなわちナホルの一族の中から嫁を見つけなさい。
実は、アブラハムの妻サラが亡くなる前、アブラハムの元に、彼の兄弟ナホル一家の話が伝わっていました。

22:20 これらの出来事の後、アブラハムに次のことが伝えられた。「ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルに子どもを産みました。
22:21 すなわち長男がウツ、その弟がブズ、それにアラムの父であるケムエル、
22:22 次にケセデ、ハゾ、ピルダシュ、イデラフ、それにベトエルです。」
22:23 ベトエルはリベカを生んだ。ミルカはこれら八人をアブラハムの兄弟ナホルに産んだのである。
22:24 レウマというナホルのそばめもまた、テバフ、ガハム、タハシュ、マアカを産んだ。


ナホルも、アブラハムと同じく、ヤハウェの命令に従って、アブラハムや父テラと共に、当時住んでいたウルを離れて旅立ちました。すなわち、ナホルもヤハウェを信じていたのです。そこで、アブラハムは、遠く離れた町に住んではいますが、ナホルの一族の中からイサクの嫁を探すことにしました。
(3) イサクがナホルの町に行くのではなく、娘がここに来なければならない。
イサクはアブラハム契約を引き継ぐ存在でした。アブラハム契約の中に、土地の約束があります。それは、アブラハムたちが今住んでいるカナンの地が、アブラハム、イサク、そして子孫たちのものとなるという約束です。

ですから、アブラハムは考えました。我が子イサクはどうしてもカナンの地に住み、そこで子孫を繁栄させる責任があると。

アブラハムは、「もし嫁候補の女性が、ここに来ることを拒んだらどうしますか」と尋ねるエリエゼルに対して、「その娘が来るのを拒んだら、嫁探しの任務は果たさなくて良い」と答えます。ここで妥協し、イサクを異教徒と結婚させるくらいなら、独身のままでいさせる方がいいというわけです。

ただし、アブラハムは、娘がここに来ることを拒むとは考えていません。まことの神ヤハウェが土地の約束と共に、イサクを通してたくさんの子孫を与えてくださると約束なさった以上、イサクが結婚しないということは考えられないからです。これは、イサクをこの土地から離れさせてはならないという命令が、それくらい大切なのだということを、エリエゼルに知ってもらうための言葉です。

そして、自分に契約を与えてくださったヤハウェが、エリエゼルの先に天使を遣わしてくださり、旅を成功させてくださると励ましました。

まず聞くことから

エリエゼルは、これらのアブラハムの言葉をしっかりと聞きました。曖昧な点についてはそのままにせず、注意深く質問することで明確に理解し、アブラハムの思いを心に刻みつけました。

しもべとしての働きは、まず聞くことから始まります。私たちもイエスさまが、自分に何を求めておられ、何を禁じておられるかをしっかり聞き取りましょう。

では、どうやって私たちはイエスさまのみこころを知ることができるでしょうか。通常は信号機のように「こっちがみこころ。こっちに行け」というような明確なサインが与えられることはありません。ヤハウェは、私たちを奴隷になさったわけではなく、子としてくださいました。ですから、一挙手一投足に至るまで、事細かに支配しようとはなさらず、多くのことは私たちの判断に任せておられます。

もちろん、好き勝手に判断していいということではなく、判断の材料が用意されています。特に以下の3つに注目しましょう。
(1) 聖書
聖書の中には、この世を造り支配しておられるまことの神ヤハウェの、ご計画やみこころが記されています。そこで、私たちは、与えられている聖書の教えを総動員して、何がイエスさまの望んでおられる行動だろうかということを、その場その場で理性的に判断しなければなりません。

たとえ幻を見たり、聖霊や天使のお告げを聞いたり、有名な牧師が語ったりしたことであっても、その内容が聖書の教えに反するならば、それは決してヤハウェからの言葉ではありません。サタンも光の天使に化けるのです(第2コリント11:14)。

なお、聖書を読む際は、変な自己解釈を加えないで、歴史は歴史として、預言は預言として、詩的表現は詩的表現として素直に読むこと、そして文脈(前後の話の流れや、その書全体、あるいは聖書全体のテーマとの関係)を大切にして読むことが大切です。そういう素直な読み方は、こうして礼拝式の中で実践しています。礼拝式に定期的に出席することによって、私たちは体験的にそういう読み方を学んでいくことができます。
(2) 祈りの中の平安
また、何かをしようとするとき、あるいはそうしなければならないのではないかと思ったとき、それについてイエスさまがどうお考えになるか、みこころを求めて祈ってみましょう。そして、その際、心の奥底に静かな平安が与えられるかどうかを探りましょう。表面的には、不安や納得できない思いで心が立ち騒いだとしても、心の奥底に「それでいい」という平安が与えられているなら、その計画はイエスさまのみこころである可能性が大です。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ4:6-7)
(3) 他のクリスチャンたちの意見
さらに、イエス・キリストに忠実に従っている他のクリスチャンたちの意見も参考にしてみましょう。クリスチャンが、たった一人で信仰生活を送るのではなく、教会に属して、他のクリスチャンたちと共に成長したり、活動したりするよう定められているのには意味があります。

エリエゼルがアブラハムの話にしっかり耳を傾けたように、私たちも日頃から聖書に親しみ、祈りを深め、聖霊さまに心を開き、教会の集会に定期的に集い、神の家族と親しく交わることにより、イエスさまが自分に何を求めておられ、何を禁じておられるかをしっかり聞き取りましょう。最初のうちは、イエスさまの思いが分からなくても、意識して聞こうとしていれば、だんだんと理解できるようになっていきます。

2.目的を見据えてぶれない

移動

こうしてエリエゼルは旅立ちました。宝物を持って旅をするのですから、もちろん一人ではなく、護衛のしもべたちを連れて行きました(32節)。

10節を見ると、「彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った」と、まるで隣町に行ったかのような調子でさらりと書かれています。ところが、その距離、なんと800km。らくだに乗っていましたから、徒歩より少し早い時速5キロで、1日10時間移動するとすると、16日間かかります。その間、きっと様々な苦労があったでしょうが、それについては一切書かれていません。エリエゼルが、アブラハムにもイサクにも報告しなかったからでしょう。

また、アブラハムは、エリエゼルに対して、創造主ヤハウェは天使を遣わしてくださり、旅を成功させてくださると励ましました。ところが、その後天使は一度も姿を現していません。ほとんどの場合、天使は目に見えません。しかし、確実にヤハウェの働きを遂行しています。エリエゼル一行を守った天使たちもまた、見えないところで働いていました。

私は、アブラハムのしもべエリエゼルの苦労も、ヤハウェのしもべである天使たちの働きも、何も触れられていないという点に注目したとき、イエスさまの次の言葉を思い起こしました。「自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17:10)

命令されたことを実行するのに、どれだけ大変だったかをアピールするんじゃないということです。なんだか寂しい気もしますが、私たちの父なる神さまは、私たちの苦労をよくご存じです。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21)。だからしもべである私たちの方からアピールなんかしなくていいのです。

しもべが気にすべきこと

エリエゼルは、自分がどれだけ苦労したかということ、そしてそれを主人にねぎらってもらえるかどうか、ほめてもらえるかどうかというようなことには無頓着でした。彼が気にしていたのは、主人が命じた命令を首尾良く果たすことができるかどうか、です。

最近は、「キリスト教」と呼ばれているものの一部が、自己実現の手段、この世の中での成功や繁栄、この世が求めている幸せを手に入れるための手段になってしまっています。そして、私たち自身も気をつけていないと、いつの間にかそういうそういうものを求めて、一喜一憂するようになってしまいがちです。

私たちは、イエスさまのしもべですから、生きる目的をずらさないようにしなければなりません。私たちの自己実現、私たちの成功、私たちの快楽は、求めてはいけないのではありませんが、二の次です。しもべの第一の目的は、主人のみこころを実行することです。

3.信仰を働かせる

とんでもない祈り

ハランに到着したエリエゼルは、早速嫁探しを開始……したりはしませんでした。エリエゼルに与えられている使命は、非常に重要でした。イサクの嫁は、健康な女性だったら誰でもいいというものではありません。彼女には、天の神ヤハウェとの契約、それによって与えられた祝福と使命を、イサクと共に次の世代へと継承していく責任があります。そういう女性を見いだすことは、非常に困難だということをエリエゼルは知っていました。

困難だからこそ、天地のすべてを造り、支配しておられるヤハウェの働きがなければ無理だと、エリエゼルは考えました。そこで、彼は祈りました。

「私の主人アブラハムの神、【主】よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように」(12-14節)

この祈りの中で、イサクの嫁候補を見つけるしるしとして、エリエゼルたちに水を飲ませてくれるだけでなく、自発的にらくだにも水を飲ませてくれるという条件をつけました。これはとんでもない条件です。

らくだは一度に80リットル、最高で136リットルもの水を飲むそうです。しもべは10頭のらくだを連れていましたから、全部のらくだに飲ませるには800リットルも必要でした。水瓶に10リットル(水だけで10キログラム!)入るとして、80回も往復しなければなりません。

それを自ら進んで申し出る女性など、普通に考えればいるはずがありません。もしいたとしたら、その人の優しさと体力は比類ないものです。まさに、若旦那の妻にふさわしい人でしょう。

どうして、エリエゼルはこんなとんでもない祈りができたのでしょうか。それは、信仰です。アブラハムが励ましてくれたように、ヤハウェが天使を遣わして、自分に与えられている使命を全うさせてくださると信じていたからです。

そして、エリエゼルの信仰の祈りは見事に応えられました。まだ彼が祈り終わらないうちに、水瓶を抱えたリベカが現れます。そして、自ら進んでらくだに水を飲ませてくれたではありませんか。しかも、彼女はアブラハムの兄弟ナホルの孫に当たります。性格的にも、体力的にも、そして信仰的にも問題ありません。

ヤハウェを信じない人たちは、こんな都合のいい話があるものか、作り話だと言うでしょう。しかし、私たちは知っています。私たちが自分の欲望のために祈るのではなく、イエスさまのみこころを実践するために祈るとき、時にこういうふうに奇跡的なタイミングで物事が起こっていくことがあるということを。

難しいときこそ信仰の働かせどころ

だから、イエスさまのしもべである私たちは、イエスさまのみこころを行なうに当たって、イエスさまが助けてくださることを祈り求めましょう。特に、その命令が、実践するのに難しければ難しいほど、私たちは信仰によってますます大胆に祈らなければなりません。

先日教会のサイトの読者の方から電話をいただきました。詳しい内容は書けませんが、あることで大変悩んでおられます。私はよく、「何があっても絶対大丈夫」などと記事に書いています。クリスチャンであるその方もそう信じようとしておられるのですが、現実を見ると不安でたまらなくなるそうです。

そのお気持ちは私もよく分かります。何しろ、書いている私自身が、ちょっとしたことで不安になり、パニックになり、じっとしていられなくなるからです。それでも、私はたとえば「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)などというような聖書の言葉にしがみついて、「これを信じます。絶対大丈夫!」と宣言するのです。

話をしていく中で、その方も「大丈夫だという感情が伴わず、むしろ不安でいっぱいだからこそ、聖書の約束に目をとめ、だから大丈夫だと信じて、そう告白する」ことを決断なさいました。きっとイエスさまは、その方の信仰の宣言に応答し、不思議な平安を与えてくださることでしょう。いや、電話を切る直前、その方の言葉には、確かに平安の響きがありました。

まとめ

エリエゼルは主人の話にしっかり耳を傾け、心に刻みつけました。また、主人の指示を実行するという目的から外れませんでした。そして、その実行が困難だからこそ、ヤハウェの助けを信じて祈りました。私たちも、そういうしもべになりたいですね。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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