選びの確かさ

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創世記27章1〜29節

(2016.5.15)

参考資料

2節でイサクは今にも死にそうなことを言っています。しかし、新聖書注解(いのちのことば社)によれば、この時のヤコブ(とエサウ)は多く見積もって77歳です。だとすると、イサクは137歳。彼が亡くなるのが180歳ですから、あと43年は生きながらえます。目が見えなくなって、気弱になってしまったのでしょう。

この箇所でイサクがエサウに与えようとした祝福の祈りは、アブラハム契約の正式な継承者であると認める行為です。

聖書からのメッセージ

イントロ

私たちは、創造主であるヤハウェに選ばれた故に、罪赦され、救われ、ヤハウェの子どもにされる特権が与えられました。その選びの確かさについて、この箇所から教えていただき、励ましをいただきましょう。

1.ヤコブへの長子の祝福

そもそも論

今回の箇所は、イサクの正統な跡継ぎが誰なのかという問題が、決着した場面です。

しかし、後継者問題に関しては、実はイサクの双子の子ども、エサウとヤコブが生まれる前に、すでに決着しています。リベカがイサクと結婚して20年たち、ようやく妊娠した時の記事が、25:22-23に書かれています。

「子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、『こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は』と言った。そして【主】のみこころを求めに行った。すると【主】は彼女に仰せられた。『二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える』」

これは、後継者としての祝福は、兄エサウではなく、弟ヤコブの方に注がれているということを示しています。ヤコブがイサクの後継者、すなわちアブラハム契約の継承者だということです。

さらに、この問題は法的にもすでに決着済みです。かつてエサウは、ヤコブに長子の権利を売り渡してしまいました。

「さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。エサウはヤコブに言った。『どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから』。それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。するとヤコブは、『今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい』と言った。エサウは、『見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう』と言った。それでヤコブは、『まず、私に誓いなさい』と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである」(25:29-34)。

これは正式な契約です。イサクの長子、アブラハム契約の継承者としての権利は、ヤハウェのご計画の上でも、法的にもヤコブのものです。

神の計画への挑戦

ところが、イサク一家は全員それを無視したり軽視したりするかのような行動を取ります。
イサク
イサクは、猟師であるエサウが獲ってくる獲物の肉が大好物で、ヤコブよりエサウの方を愛していました(25:28)。当然、妻リベカを通じて、ヤハウェはヤコブを選ばれたということを聞かされていたはずですが、エサウを後継者として祝福しようとしました。
エサウ
エサウはどうでしょうか。長子、すなわち跡継ぎは、相続に際して他の子どもたちと明確な差がつけられました。アブラハムの子イサクの場合、アブラハムの全財産を相続しました。ビルハが産んだ6人の兄弟はわずかな贈り物を贈られただけでした(25:5-6)。ハガルが産んだイシュマエルに至っては、与えられたのはパンと水袋だけです(21:14)。

長子の権利など何になろうかと言ったエサウは、アブラハム契約、すなわち霊的な事柄については全く興味がありませんでしたが、物質的な祝福には興味がありました。そこで、スープと引き替えに長子の権利を売り渡したことなど無かったかのように、悪びれもせずに祝福を受けようとしました。
リベカ
イサクの妻リベカは、ヤコブが後継者になるべきだと思っていました。しかし、それはお告げを信じていたからというよりも、エサウよりヤコブの方を愛していたからだったようです(25:28)。というのは、彼女は、「ヤハウェが約束されたことは、絶対に実現する」と信じることができず、自分の知恵によって目の見えないイサクをだまし、愛するヤコブに祝福を受けさせようとしているからです。
ヤコブ
そして、ヤコブも、ヤハウェのお告げに信頼することをせず、母の勧めに従ってイサクをだましました。多くのクリスチャンが誤解しているように、ヤコブは長子の権利をエサウから奪い取ったのではありません。それは元々エサウのものではなくヤコブのものであり、奪い取ろうとしたのはエサウの方です。しかし、ヤコブが父をだましたのは明らかな罪です。

ヤハウェの介入

ところで、この箇所を読むと、いつも違和感を覚えます。いくら目が見えないからといって、イサクがいとも簡単にだまされてしまったことについてです。

どれだけエサウが毛深いからといっても、人間の肌と子ヤギの毛皮とを区別できないというようなことが、本当にあり得るのでしょうか。しかも、イサクは、目の前にいる我が子の声が、エサウではなくヤコブの声に似ていると感じています。これで嘘に気づかない方がおかしいのではないか、と。

ここには、ヤハウェの見えない御手が働いています。普通だったら、イサクはリベカとヤコブの策略に気づいたことでしょう。しかし、ヤハウェはイサクの感覚や判断力に影響を与え、結局ヤコブを祝福するよう導かれたのです。

本物のエサウが帰ってきて、イサクはヤコブにだまされたことを知ります。しかし、彼はヤコブに与えた祝福を取り消すことも、ヤコブを罰することもしませんでした。きっと、この出来事の背後に、ヤハウェの働きがあることを認めたからであり、それは自分の方がヤハウェに逆らおうとしていたためだと気づかされたからでしょう。

2.私たちの選び

私たちも選ばれた

ヤコブは、生まれる前からアブラハム契約を受け継ぐ者、約束の子孫として選ばれていました。そして、イサクやエサウがそれを信じなくても、リベカやヤコブが罪を犯しても、その選びはヤハウェによって確実に実現しました。

そして、私たちクリスチャンもヤハウェによって選ばれました。これは、聖書の大切な教えの一つです。選びは、私たちの救いの保証です。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」(エペソ1:3-5)

誰が選ばれて救いに導かれ、誰が選ばれていないのかは、私たちには分かりません。ですから、「あの人はきっと救われないんだ」などと、勝手に決めつけてはいけません。あなたが救われたのだって、奇跡です。

しかし、いったんイエスさまの十字架と復活を信じて救われたなら、その救いは確実です。選ばれた者を、ヤハウェはイエス・キリストによる救いに確実に導いてくださいます。そして、決してその救いが取り消されることはありません。

「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。(中略)どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)

選びは私たちの行ないによらない

ヤハウェによる選びは、私たちの行ないや性格が素晴らしかったからではありません。今回の箇所を引用しながら、パウロはそのことを説明しています。

「このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える』と彼女に告げられたのです。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです」(ローマ9:10-13)

ユダヤの詩は「対句法」が特徴で、同じ意味の言葉を2つ並べたり、逆の意味の言葉を並列させたりすることで意味を強調します。「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という言葉は、エサウを憎んだというところがポイントではありません。エサウも物質的に大いに祝福されました(33:9)。ここは、そう表現できるくらいヤコブがめちゃくちゃ祝福されたということを示しています。

3.聖霊による証印

ペンテコステの出来事

今年は5月15日(日)がペンテコステを祝う日です(毎年日付が変わります)。元々ペンテコステ(五旬節)は、ユダヤの収穫感謝祭であり、ユダヤ人がエジプトを脱出してモーセの律法を与えられたことを記念する祭りでもありました。

イエスさまが十字架にかかり、復活し、天にお帰りになった年のペンテコステの日、天から聖霊なる神さまが降ってこられ、弟子たち一人一人の内に留まってくださいました(使徒2章)。その日以来、臆病だった弟子たちは信仰の獅子に造り変えられ、愛の共同体を作り上げました。そして、1日で3千人が救われて教会が誕生します。そこで、ペンテコステは聖霊降臨と教会誕生を記念する祭りとなりました。

その日以来、聖霊さまは、イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンの内に住んでくださり、聖書の教えを理解させ、内側を造り変えてきよめ、場合によっては奇跡を起こす力さえ与え、導いてくださいます。

聖霊の証印

聖霊さまは、私たちの罪を示し、イエス・キリストの十字架を信じて罪を悔い改めるように導き、さらに神さまの子どもとして新しく生まれさせてくださいました。

それだけではありません。私たちの内に住んでくださる聖霊さまは、私たちの救いが確かなものであるということを保証し、証印(証拠としての印)を押してくださいます。「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました」(エペソ1:13)

「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました」(第2コリント1:21-22)

口約束であっても契約は有効です。しかし、契約書を作って、そこに署名捺印がされているものを見れば、私たちはこの契約が間違いないものだと、ますます確信を深めることができます。

聖霊さまは、私たちがヤハウェの一方的な選びによって救われたことと、その選びは確かなものであって、決して救いが取り消しになることはないという確信を深めてくださいます。

救いの確信が欲しいですか? もっともっと欲しいですか? 救われたこと、神さまの子どもにされたことへの喜びや感動に満ちあふれるよう祈りましょう。そして、喜びや感動のあまり、正しいことや価値あることを行ないたくてじっとしていられないほどになりたいですか? 何があっても揺れ動かない勇気が与えられたいですか? イエス・キリストをもっと効果的に力強く証しする知恵や力が欲しいですか?

聖霊さまに満たされて、選びの確信がますます与えられるように祈りましょう。

まとめ

私たちは、ヤハウェの一方的な選びによって、救いとそれに伴う様々な祝福が保証されています。聖霊なる神さまに、その確信を与えてくださるようにと祈りましょう。

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