全面的無条件降伏

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創世記32章1〜32節

(2016.6.5)

参考資料

伯父ラバンの元で20年間過ごしたヤコブは、ラバンやその息子たちが自分をねたんでいるのを感じ取り、妻たちや子どもたち、そして創造主ヤハウェが与えてくださった多くの家畜や財産、しもべたちと共に、故郷に向かって旅立ちました(31章)。

ヤコブには、11人の息子が生まれました(29:31-30:24)。息子たちの名は、ヤコブを巡って争うレアとラケルの心情を表わしています。
  • レアが産んだのが、@ルベン(息子を見よという意味)、Aシメオン(聞く)、Bレビ(結ぶ)、Cユダ(ほめたたえる)、Hイッサカル(雇う)、Iゼブルン(報酬)。
  • ラケルの女奴隷ビルハが生んだのが、Dダン(裁く)、Eナフタリ(争う)。
  • レアの女奴隷ジルパが産んだのが、Fガド(幸運)、Gアシェル(幸福)。
  • ラケルが産んだのが、Jヨセフ(加える)。ラケルは後に十二男ベニヤミンを産みますが、この時点では生まれていません。
  • また、ディナを始め、複数の娘が生まれました(37:35)。
2節の「マハナイム」は、宿営(複数形)という意味です。

3節の「セイル」は、エドムにある山岳地帯です。エドムは、死海の南東の地域です。

28節の「イスラエル」は、「サラ」(戦う)とエル(神)の合成語です。

30節の「ペヌエル」とは、「神の御顔」という意味です。当時は、罪ある人間が、完全にきよいお方であるヤハウェを見たら死ぬと思われていました。

この出来事の後、ヤコブはエサウとの和解を果たしました。

聖書からのメッセージ

イントロ

前回、信仰のテストに合格し、大いに祝福をいただいたヤコブでしたが、成長は無限です。まだまだヤコブには伸びしろが残っていました。創造主ヤハウェは、ヤコブをさらに次のステージに引き上げてくださいました。

私たちの伸びしろも無限大です。何しろ私たちの成長目標はイエスさまですから。この箇所から、私たちへのヤハウェのきよめの働きについて教えていただきましょう。

1.ヤコブの成長

励ましと恐れ

強欲な伯父ラバンと決別したヤコブは、ヤハウェがアブラハムとその子孫に与えると約束されたカナンの地に向かいました。しかし、ヤコブには一つクリアしなければならない問題がありました。それは、兄エサウとの和解です。20年前、エサウはヤコブに殺意を抱いていました。エサウと和解しなければ、故郷に戻ったとしても安心して暮らすことはできません。

そして、いよいよ約束の地に入る直前、ヤコブは天使たちを目撃します。これは、父の家を飛び出してラバンの元に向かう途中、ベテルで天使たちやヤハウェの幻を見たことを思い出させます。これからエサウと再会するヤコブを、ヤハウェは励ましてくださいました。

ところが、ここでも信仰のテストがやってきます。ヤコブの帰還を知ったエサウが、400人のしもべを連れてこちらに向かってきているというのです。エサウはまだ怒っていて、自分を殺すためにやってくるのだろうとヤコブは考えました。

恐れたヤコブは、3つのことをしました。
  1. まず、宿営を2つに分けました。一方が攻撃されても、もう一方が逃れられるようにするためです。
  2. 次に、祈りました。彼は、ヤハウェが約束してくださったことを思い起こしながら、エサウから救い出してくださるよう願いました。
  3. それでも恐れがぬぐえなかったヤコブは、さらに策略を巡らして、エサウの怒りを静めようと考えました。贈り物作戦です。彼は、合計580頭にも及ぶ家畜をエサウに贈りました。しかも、いっぺんに全部贈ったのではなく、少しずつ長い時間をかけて、続々とエサウの元に届くようにしたのです。
しかし、それでもヤコブの恐れは払拭されませんでした。

神との格闘

ヤコブは、一行をヤボク川の向こうに渡すと、自分は元の場所に戻ってきました。これは、一人だけ逃げたのではなく、恐れを取り除いていただくために、さらに祈る必要を覚えたからでしょう。

すると、一人の人が突然現れて、ヤコブに襲いかかりました。そして、格闘が始まります。この人のことを、聖書の学者たちは、三位一体であるヤハウェの第二位格、後の時代にイエスさまとして地上にいらっしゃる救い主だと解釈しています。

戦いは一晩中続きましたが、決着がつきません。そこで、ヤハウェはヤコブの股関節を打って脱臼させました。それでも、ヤコブは戦いをやめようとしませんでした。そして、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と言って、組み付いたまま離そうとしませんでした。ヤコブも、この人がただの人間でないことに気づいていたのですね。

ヤハウェは、ヤコブに向かって「あなたは神と戦い、人と戦って、勝った」と言い、新しい名をお与えになりました。イスラエルとは、「神」という言葉と、「戦う」という言葉の合成語です。そして、ヤハウェはヤコブを祝福し、姿を消されました。

ヤハウェに負けることが勝利

ヤコブは、神と人とに勝ったと言われていますが、股関節を打たれたヤコブは、格闘に負けていますね。どうして、ヤコブは勝ったと、ヤハウェはおっしゃったのでしょうか。

それは、「ヤハウェに負けることが、私たちの勝利」だからです。

これまで、ヤコブは自分の知恵と力を駆使して戦ってきました。兄エサウと戦うために父イサクをだましました。そして、伯父ラバンと戦うために、先週学んだように迷信的な方法を使って、珍しい毛並みの山羊や羊を産ませようとしました。そして、今またエサウへの恐れと戦うため、宿営を分け、効果的な贈り物を用意しました。

しかし、これらの行動は、究極的にはヤハウェに戦いを挑んでいることでした。

ヤハウェは、ヤコブこそイサクの跡継ぎだと、生まれる前から約束してくださっていました。また、必ず祝福し、生まれ故郷に連れ戻すと約束してくださっていました。しかし、ヤコブはそれでも不安でした。だから、自分であの手この手を使って安心しようとしたのです。

将来起こりうる危険を予想、知恵を尽くしてそれに備え、戦略的に行動することそのものがいけないのではありません。むしろそれは大切なことです。ただ、この場合には、ヤハウェが約束しているのに、それを完全には信じ切れなかったところが問題でした。それは、完璧なヤハウェに対して、「あなたのやり方では安心できない」とケンカを売っているようなものです。

前回のテストの時には、たとえ迷信的な方法を使ったとしても、ヤハウェはそれを責めないで、ヤコブを大いに祝福しました。それは、もっと信仰の基礎的な部分を鍛えたいと願われたからです。しかし、今回は、そろそろ次のステージにレベルアップして欲しいとヤハウェはお考えになりました。

自分で策略を巡らして、目に見える保証を用意することで安心を得るというレベルから、全面的にヤハウェのお働きに期待してお任せし、自分は自分に与えられている責任を果たすことに集中するというレベルへの成長です。

ヤコブは、ヤハウェの前に負けを認めて、全面的に信頼することを学びました。そして、足には障がいが残ってしまい、歩くのが少し不自由になりましたが、心の歩みはむしろしゃんとしました。平安の内にヤボク川を渡り、エサウと対面します。

すると、エサウはまったく怒っておらず、争いどころか、感動の再会となりました(33章)。ヤコブはエサウの復讐を恐れていましたが、20年の間に、ヤハウェはエサウの心に働いて、怒りを鎮めてくださっていました。ヤコブとヤハウェが格闘していたときには、すでにエサウの怒りは解けていました。ヤハウェの側では、ちゃんと約束を守ってくださっていたのです。

2.私たちの成長

ヤハウェへの全面的無条件降伏

エサウとの再開を前にして、ヤコブは恐れました。彼は、いろいろな作戦を考えて実行し、さらにヤハウェとの約束を思い起こしながら祈りもしました。それでも、恐れがぬぐえませんでした。

私たちも、恐れや不安を感じることがありますね。どんなに「イエスさまがついていてくださるから大丈夫だ」と思おうとしても、またどんなに熱心に祈っても、それでも恐れや不安で心がつぶされそうになることがあります。

そして、いてもたってもいられなくなり、いろんなことをやって、かえって状況を悪くしてしまうことさえあります。

そんな精神状態に気づいたら、ヤボクの渡しでのヤコブの経験を思い出しましょう。

ヤハウェに戦いを挑んでいないか

そして、自分自身の心をチェックしてみましょう。私たちは、ヤハウェに、全面的に、そして無条件に降伏しているでしょうか。どこかで、ケンカを売るようなことをしていないでしょうか。

私たちには、自分なりの計画があっていいし、願いがあってもかまいません。私たちは、イエスさまの十字架と復活によってすべての罪が赦されて、父なる神さまの子どもにしていただいたのですから、自分の計画や願いをヤハウェに申し上げ、かなえてくださるように熱心にお願いすることは正しいことです。

しかし、その一方で、自分の計画や願いにあまりにも固執して、「これ以外の解決は受け付けません」というふうに、無理強いするような思いがなかったでしょうか。それは、ヤハウェに戦いを挑むことです。

日本が先の戦争に負けたとき、ポツダム宣言を無条件に受け入れました。天皇制は何とか維持して欲しいとか、憲法(大日本帝国憲法)には手をつけないで欲しいとか、下級兵士への裁判は免除して欲しいとか、食糧援助をして欲しいとか、いろいろな条件を一切つけずに、戦争終結に同意しました。負けるとはそういうことです。

ゲツセマネの祈り

イエスさまは、十字架を前にして、ゲツセマネの園で祈られました。血のような汗を流しながら、必死で祈られました。イエスさまが恐れていたのは、十字架にかかることではありません。それは、旧約聖書で預言されており、イエスさまも前々から覚悟しておられたことです。もし十字架にかかることそのものを嫌がったのなら、イエスさまは救い主ではあり得ません。

イエスさまが苦しまれたのは、血を流して死ぬだけでなく、罪人として父なる神さまに呪われ、関係を断ち切られることです(これは旧約聖書で預言されていませんでした)。

イエスさまはこう祈られました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22:42)
  • 「杯」は、旧約聖書の預言では、よく神のさばきの象徴として使われています。中に入れるぶどう酒の色が血を連想させるからです。
イエスさまは、ご自分の願いを正直に、ストレートに、父なる神さまに祈られました。同時に、全面的に降伏し、みこころのままにと祈られました。

これこそ、私たちが学ぶべき祈りであり、生き方です。

まとめ

こだわりを捨てて、全面的にヤハウェにお任せしましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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