自分の中のユダとタマル

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創世記38章1〜30節

(2016.6.26)

参考資料

1節のアドラム人は、アドラムという町の住民という意味。民族的にはカナン人。アドラムは、ベツレヘムとガテの中間地点の少し南にありました。

8節の「義弟としての務め」とは、兄が死んで未亡人となった兄嫁を、弟が妻に迎え、子を残して兄の財産を相続させるということです。これはレビラト婚といい、世界各地で行なわれていた習慣です。

ユダの次男オナンの名は、オナニー(自慰行為)の語源となりました。しかし、彼がさばかれた罪は自慰行為ではありません。自分の相続財産を増やすため、兄エルの後継者が生まれないよう、わざと外に漏らしてタマルが妊娠しないようにしたことです。

12節のティムナは、アドラムから北北東8キロほどの所にあった町。エナイムは二つの町の中間地点にあった町だと思われますが、場所は特定されていません。

タマルが産んだ子の名前は、ペレツが割り込む、ゼラフは輝くという意味です。なお、マタイ1:3やルカ3:33ではギリシャ語読みでパレスとゼラとなっています。

聖書からのメッセージ

イントロ

ヨセフ物語が始まったとたん、ユダの物語が挿入されます。そのことと、私たちの救いの関係について考えていきましょう。

1.エジプトに下る理由

エジプトでの苦難の預言

ユダとタマルの物語は、この後ヤコブ一家がエジプトに下っていく理由を私たちに教えています。

前回も触れましたが、ユダの曾祖父アブラハムに対して、契約の神ヤハウェは、ある預言をなさいました。「そこで、アブラムに仰せがあった。『あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる』」(15:13-14)

今回の記事は、どうしてアブラハムの子孫(すなわちイスラエル民族)が外国に移り住み、400年間も奴隷として苦しまなければならないかを説明しています。

ユダは父ヤコブから離れて、アドラムの町の外に天幕を張って生活を始めました。そして、土地のカナン人たちと親しく交わるようになり、さらにカナン人の中から妻を迎えました。カナン人は偶像礼拝者であり、道徳的にもかなり堕落していました。そこで、彼らと交わりを深めることで、ユダはその悪影響を受けてしまいます。ユダの長男と次男がヤハウェの怒りを買うような生き方をしたのも、ユダとタマルとの姦淫も、その現れです。

ヤコブの四男ユダのことしか書かれていませんが、次男シメオンもカナン人の女性を妻に迎えたことが分かっています(46:10)。エジプトに売り飛ばされたヨセフを除く他の兄弟たちもまた、カナン人と親しく交わり、結婚さえしていたのでしょう。こうして、ヤコブの子どもたちの中にカナン人の霊的・道徳的悪影響が広まっていこうとしていました。

アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエル人には、全世界の人々を祝福するための器になるという使命が与えられていました(12:3)。イスラエル人は、まことの神ヤハウェを信じて礼拝し、お仕えし、大いに祝福されることにより、ヤハウェを知らない人々がヤハウェを信じて救われるようにしなければなりません。しかし、その使命を全うするどころか、逆にヤハウェに逆らい、ヤハウェが喜ばれない生き方へと堕落しようとしています。

そこで、ヤハウェは、彼らをエジプトに下らせ、そこで異教徒たちから隔離して、霊的・道徳的悪影響から守ろうとなさいました(当時のエジプト人は羊を忌み嫌っていましたから、羊を飼っていたヤコブ一家は、エジプト人の居住地から離れたゴシェンの地で暮らすことになります)。さらに、国家的な迫害をくぐらせることで、頼れるのはヤハウェだけという状況を作り、それによって彼らの信仰を練り鍛えようとご計画なさいました。

私たちの鏡としてのユダとタマル

さて、ユダは、タマルが売春をして、しかも妊娠までしているという話を聞きました。法的には、彼女は三男シェラの妻です。ですから、タマルの売春は、シェラに対する裏切り行為であり、姦淫の罪です。そこで、ユダは怒りを燃やします。「あの女を引き出して、焼き殺せ」(24節)。いったいどの口が言うのでしょう。売春婦(を装ったタマル)を買って妊娠させたのは、ユダ本人なのに。

今回の物語を読むと、ユダはとてもひどい男だと思ってしまいます。タマルも、同情すべき点はありますが、それでもこのやり方はあまりにも不道徳です。

しかし、ここで「ユダってしょうが無い奴だなあ」「タマルも破廉恥だなあ」と言うなら、私もまた「どの口が言うのか」とイエスさまに笑われることでしょう。

作家の三浦綾子さんが子どもの頃、弟さんが食器の片付けをしようとして、誤って皿を落として割ってしまいました。綾子さんはそれを厳しく責めました。すると、お母さんが静かにこう言いました。「綾ちゃん。生まれてかれこれまで、自分が何一つ壊したことがないかのような叱り方をするものではありませんよ」。

聖書には、他にもひどい罪の記録がたくさん書かれています。私たちがこういう罪深い記録を読むときには、自分を罪を犯した人々とは別だと考えて、まるできよい天国から醜い地上を眺めているかのような読み方をしてはいけません。

私たちアダムの子孫は、内側に罪の性質を宿して生まれました。自分の中にもユダがいるし、タマルがいます。自分だって、聖書に書かれているような罪を犯してしまう可能性があるのです。

では次に、今回罪を犯したユダとタマルに対して、ヤハウェが何をしてくださったかを見てみましょう。自分の中にユダやタマルがいることを認めるとき、それはとても意味のあるものとなるでしょう。

2.キリストの先祖

キリストの系図

マタイ1章は、系図から始まります。6節まで読んでみましょう。

マタイ
1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
1:2 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、
1:3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
1:4 アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、
1:5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
1:6 エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、


ここには、4人の女性が登場します。後ろの方から紹介すると、6節のウリヤの妻(バテ・シェバという名です)、5節のルツとラハブ、そして3節に登場するのが今回登場したタマルです。

この系図は、救い主として地上にお生まれになった神の子、イエス・キリストのものです。ユダとタマルは、キリストの先祖です。

ユダとヨセフの比較

ユダは、性的な誘惑にとても弱い人でした。一方、エジプトに売られていったヨセフはどうでしょうか。次回学びますが、彼は性的な誘惑を断固として退けてしまいます。どちらがきよくて立派でしょうか。もちろんヨセフですね。

しかし、救い主は、高潔なヨセフではなく、不道徳なユダとタマルの血筋から誕生します。

ちなみに、系図に出てくるタマル以外の女性たちもなかなかの経歴の持ち主です。
  • ラハブは、今回私がさんざん悪口を言ってきたカナン人で、売春婦でした。
  • ルツはまことの神ヤハウェを信じて改宗しましたが、元々は外国人、しかもロトと彼の娘が交わった結果生まれたモアブの子孫です。
  • バテ・シェバは、ダビデの忠実な家来であるウリヤの妻でしたが、ダビデが権力を使って彼女を自分のものとし、さらにウリヤを謀殺してしまいました。
女性たちだけではありません。系図に登場する男性たちもまた、聖書の中で様々な罪を指摘されています。キリストの系図の中で、まったく罪がないと言える人物は、ただの一人もいません。イエスさまは、このような家系に生まれました。

あの高潔なヨセフでさえも、正義の神であるヤハウェの前に立ったときには、「自分には全く罪がない」とは言えません。人は、ヤハウェの要求する高い倫理基準に、100%到達することができないからです。人間の目から見れば、ヨセフはユダよりはるかに高潔ですが、神さまの目から見れば、ヨセフもまた赦していただかなければならない罪人の一人です。エベレストは富士山よりもはるかに高いですが、太陽の位置から見れば、その高低差はなきに等しいのと同じです。

恵みのわざ

ユダとタマルは、その罪深い行動にもかかわらず、キリストの先祖となるという特権を与えられました。これは、愛に満ちたヤハウェによる恵みのわざ以外の何ものでもありません。

自分の中に罪の性質があること、自分の中にユダやタマルがいることを認めない人にとって、キリストが彼らの子孫としてお生まれになったということも、キリストの十字架や復活も全く意味がありません。しかし、自分もまたユダやタマルのような罪人なのだと認めることができた人にとって、イエスさまがユダとタマルの子孫となってくださったという事実、この自分を救うためにイエスさまは死に、復活してくださったのだという事実は、感動に満ちたものとなります。

天の父なる神さまは、私たちを一方的に愛してくださいました。そして、私たちが罪の故にさばきを受けることがないよう、私たちの罪を赦そうと計画してくださいました。しかし、神さまは正義ですから、罪を無かったことにしてさばかないということはできません。そこで、御子イエス・キリストが地上に生まれ、罪の無い完璧な人生を送り、私たちの身代わりに罪のさばきを受けるため、十字架にかかって血を流し、死んで葬られ、3日目に復活なさいました。

私たちは、罪が無くて立派だから愛され、祝福されるのではありません。私たちが愛され、祝福されるのは、天の神ヤハウェの恵みです。

恵みとは何ですか? 何度も繰り返していますから、もう覚えてくださったことでしょう。「恵みとは、神さまにもっと愛されるために、私たちにできることは何もないということであり、神さまにもっと愛されなくなるために、私たちにできることも何もないということである」(フィリップ・ヤンシーの定義)

考えるだけで感動しますね。うれしいですね。この感動や喜びこそが、私たちの原動力です。もっときよい生き方がしたい。もっとイエスさまに喜ばれる生き方がしたい。もっと父なる神さまのご計画を実現したいと思い、それを実践するための原動力です。

ルカ
7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
7:43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。


なお、「どの口が言うのか」という話をしましたが、それは、他人の過ちを指摘したり、叱ったりしてはいけないという意味で申し上げたことではありません。聖書は、誰かが罪を犯したり過ちに陥っていたりしたら、見て見ぬふりをするのではなく、戒めるように命じています。

ただ、「自分は罪がなくてきよい。あなたは罪深くて汚れている。きよい私が汚れたあなたを修正してあげよう」という態度で戒めるのと、「自分もまた罪人だが、イエスさまが命がけで自分の罪を赦してくださった。イエスさまはあなたのことも命がけで愛してくださっている。だから、もうそんなことを繰り返しちゃいけない」という思いで戒めるのとでは、伝わってくるものが自ずから異なるでしょう。

まとめ

自分がどれほどの罪を赦されているかを振り返りましょう。それは、自分を責めるためではなく、感動し、ますますイエスさまを愛するためです。

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