燃える柴の中からの語りかけ

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出エジプト記2章23節〜3章12節

(2016.8.21)

参考資料

3:1の「イテロ」は、モーセの妻となったチッポラの父で、2:18ではレウエルという名で呼ばれています。ミデヤンは、アラビア半島の北西部地域(アカバ湾の東)と考えられています。

3:1の「神の山ホレブ」は、シナイ山とも呼ばれています。シナイ半島南部にあるジェベル・ムーサ(アラビア語で「モーセの山」)のことではないかと考えられています。後に、モーセを通じて、イスラエルに律法が与えられるのも、この山の上です。

3:12の「神に仕える」とは、公の礼拝をささげるということです。

聖書からのメッセージ

イントロ

80歳になったモーセが、神さまからの指名を受けて、イスラエルのリーダーとなろうとしています。この箇所から、私たちと神さまとの関係について教えていただきましょう。

1.モーセへの語りかけ

燃える柴

80歳になったモーセは、羊を飼ってホレブの山の麓までやってきました。すると、低木が燃えているのを発見しました。乾燥した地域では、落雷や静電気によって木が自然に燃えてしまうことがあります。しかし、モーセが見たのは普通の山火事ではありません。というのは、いつまでたっても木が燃え尽きないのです。

実は、その炎は、主の使いが現れたことで生じたものでした(3:2)。主の使いというのは、ここでは単なる天使のことではありません。多くの聖書の学者たちは、三位一体の神の第二位格である子なる神(後の時代に救い主イエスとして地上に来られるお方)だと解説しています。すなわち、天の神ヤハウェご自身です(4:3)。この炎は、神さまの栄光の輝き(シャカイナ・グローリー)です。

モーセ、モーセ

興味を持ったモーセは、その木に近づこうとしました。すると、その炎の中から神さまがモーセに語りかけました。その第一声は、「モーセ、モーセ」(3:4)と、彼の名を二度呼んだものです。

ここで、イエスさまが、ペテロやマルタの名前を二度呼んでおられたのを思い出しました。
★ペテロのとき
イエスさまが逮捕された後、ペテロ(本名はシモン)は「あなたもイエスの弟子だろう」と詰問され、「イエスなんて奴のことは知らない」と3度も証言してしまいます。逮捕の直前、イエスさまはあらかじめそれをペテロに預言なさいました。その際、こうおっしゃっています。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31-32)
★マルタのとき
マルタは、イエスさまを家にお迎えした際、接待に忙しく立ち回りました。そして、手伝いをしないでイエスさまの話を聞いてばかりいる妹マリヤに対して、ついいらいらした態度をとってしまいます。その時、イエスさまは優しく語りかけました。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」(ルカ10:41-42)。すなわち、「あなたもここに来て、私の話を聞いておくれ。それが一番うれしい接待だよ」というわけです。

ペテロもマルタも、決して良い状態ではありませんでした。モーセも同様です。彼は40歳の時に、自分がイスラエルをエジプトから解放するんだと思い、立ち上がろうとしましたが、挫折してしまい、ミデヤンの野に逃れて40年が過ぎたところです。もう昔の熱い夢もすっかり冷め切っていました。

「モーセ、モーセ」という語りかけは、ペテロやマルタの場合と同様、責めるニュアンスではありません。それは、精神的・信仰的に低空飛行をしている人に対する、慈しみに満ちた、親しみを込めた語りかけです。

くつを脱げ

次に、天の神ヤハウェは、「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」(3:5)とおっしゃいました。

「聖なる地」というのは、「特別な場所として、神さまが他の場所と区別した所」という意味です。三次元の空間にとらわれない神さまは、どこにでもいらっしゃいますが、今回の燃える柴の出来事のように、特別にご自分の存在を現されることがあります。神さまがご自分の存在と栄光を明らかになさった場所だから、聖なる地、特別な場所だということです。

そこで、神さまに対する尊敬の表現として、はだしになることが求められました。はだしは奴隷の姿です。はだしになることで、神さまが自分よりもはるかに高く、尊いお方であるということを表しています。すなわち、礼拝の心を表しているのです。

また、くつを脱ぐことは、権利の放棄を意味します。ルツ記で、ボアズが未亡人ルツと結婚したいと思ったとき、彼よりも優先権のある親類の男性と交渉しました。親類は、自分の権利を放棄してボアズに譲ることを了承し、その証拠として自分のくつをボアズに渡しました。

神さまが「くつを脱げ」とお命じになったということは、モーセに「あなたの権利を一切放棄しなさい。私が命じることに対して、断る権利を放棄して、無条件に従いなさい」とお命じになったということです。その命令の内容は、エジプトの王に、イスラエルを解放するように言えというとんでもないものでした。

かつてモーセは失敗しました。イスラエルの民に、自分がリーダーだと認めさせる自信なんかありません。しかも、絶対的権力者であるエジプト王に逆らうことを考えれば、恐ろしさのあまり震えてしまいます。それを乗り越えるだけの情熱は、すっかり消え果ててしまっています。ですが、四の五の言わないで、聞いて行なえというわけです。

モーセは、最初のうちはあれこれといいわけを並べて、命令に従うことを断ろうとします。しかし、最後には心のくつを脱いで、神さまの奴隷として従うことを決断することになります。

アブラハム、イサク、ヤコブの神

そして、3回目の語りかけで、ヤハウェはこう自己紹介なさいました。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(3:6)

アブラハム、イサク、ヤコブの神とは、彼らと契約(アブラハム契約)を結ばれた神という意味です。天地をお造りになったまことの神ヤハウェと彼らとの契約の中には、
  • 子孫の契約(多くの子孫が与えられる)
  • 土地の約束(カナンの地が彼らとその子孫に与えられる)
  • 祝福の約束(彼らとその子孫は大いに祝福され、彼らを通して、全世界の人々も祝福される)
……などの他、「彼らの子孫が異国の地で400年間奴隷となった後、約束の地に戻ってくる」という約束もあります(創世記15:13-16)。

2:24には、神さまは、エジプト王に苦しめられているイスラエル人の叫びを聞き、「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた」と書かれています。思い起こされたというのは、それまで忘れていたという意味ではなく、いよいよ約束を実行に移されるという意味です。この場合には、アブラハム契約に基づいて、イスラエルをエジプトから解放し、約束の地に戻すことを開始なさるということです。

2.親しさと敬虔さ

近づきやすいお方

モーセは、精神的にも信仰的にも低空飛行状態でしたが、きよく正しいお方である神ヤハウェは、そんな彼のことを見捨てませんでした。

モーセは不完全です。イスラエルの民も不完全です。イスラエルの民がエジプトを脱出して約束の地に入ることができるのは、彼らの信仰深さや人格的な素晴らしさの故でなく、アブラハム、イサク、ヤコブと神さまとの契約の故です。モーセは、その契約に基づいて、リーダーとしての使命を与えられました。

しかも、見捨てないどころか、神さまは慈しみと親しみに満ちた調子で、「モーセ、モーセ」と語りかけてくださいました。

私たちにとっても、天の神さまは親しいお方です。イエスさまは、神さまのことを「天の父」として私たちに紹介なさいました。父なる神さまは、私たちのことを子どもとして愛と慈しみのまなざしで見つめ、私たちの幸せを心底から願い、力強く導いてくださいます。

あるとき、イエスさまは放蕩息子のたとえ話をなさいました(ルカ15章)。二人の息子の弟の方は、父親がまだ生きているのに、財産の相続分をくれと願い、財産を受け取ると遠い外国に家出してしまいました。そして、そこで放蕩三昧の暮らしを続け、ついに一文無しになってしまいます。惨めな生活の中で、息子は、「子どもとしてでなくていい。奴隷でもいいから、お父さんの家に住まわせて欲しい」とお願いするつもりで、とぼとぼと帰宅の途につきました。しかし、父親は、息子が去ってから、毎日毎日息子の帰りを待ちわびていました。そして、まだ息子が遠く離れているのにそれと気づき、駆け寄って抱きしめ、口づけし、そして宴会を開いて歓迎しました。

これが、私たちの天のお父さまの姿です。

私たちも低空飛行状態に陥ってしまうことがあります。精神的に落ち込んでしまったり、夢や希望を失ってしまったり、生きがいを見いだせなくなってしまったり、あるいは、悪いと分かっていることを考えたり、実際に行なってしまったり……。

しかし、私たちの状態がどうであっても、仮に私たちの心が神さまに反発していたとしても、神さまの側では常に私たちを求め、私たちと親しい交わりをしたいと願っておられます。私たちの罪は、すべてイエスさまの十字架の血潮によって聖められました。これは、人間の願望ではなく、神さまが契約として与えてくださった確かな約束です(ルカ22:20)。ですから、私たちの心がどう感じようとも、他の人々がどう言おうとも、神さまにとって私たちはかわいい子どもたちです。

神さまに対して、変な遠慮がなかったでしょうか。どうせ自分なんか神さまに大切にされていないさと、ひねくれた考えを持っていなかったでしょうか。自分なんかが、神さまに何かを期待されたり、大切な働きを任されたりすることなどあり得ないと、勝手に決めつけてはいなかったでしょうか。

絶対的権威者

私たちがイエス・キリストを通して信じたアブラハム、イサク、ヤコブの神ヤハウェは、「モーセ、モーセ」と親しく語りかけてくださるお方であると同時に、くつを脱ぐことを命じ、絶対服従を求めるほどに超越したお方でもあります。先ほど学んだとおり、神さまは親しいお方ですが、親しさと気安さとは違います。

突然、皇居やバッキンガム宮殿に呼ばれ、天皇や女王に直接謁見することになったと想像してみてください。あなたは天皇や女王に対してどんな態度をとりますか? どんな姿勢でいますか? どんな言葉遣いをしますか?

全宇宙を造り、支配しておられる神ヤハウェは、王の王、主の主です(第1テモテ6:15)。私たちが神さまについて考えたり語ったりするとき、全宇宙の王に対するのにふさわしい敬意を表しているでしょうか。あるいは聖書を読み、祈り、教会の集会に参加するとき、全宇宙の王の前にいるという真剣な態度をとっているでしょうか。神さまの私たちに対する命令や願いや禁止を知ったとき、しもべのように素直に守ろうとしているでしょうか。

私たちも、モーセのように、心のくつを脱いで、イエスさまの前にしもべとしてひれ伏しましょう。

極端に走らないこと

私たち人間は、ともすると極端に走りがちです。親しい神さまの姿を強調するあまり、敬虔さや真面目さに欠けてしまったり、逆に超越した支配者である神さまの姿を強調するあまり、いつ見捨てられたり罰せられたりするかとびくびくしながら、不自由な生活を送ってしまったり。

私たちは、モーセに現れてくださった神さまの姿を忘れないで、バランスのとれた接し方をしましょう。

まとめ

天の神さまは、親しみのある絶対的権威者です。

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