試される神と試される私たち

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出エジプト記17章1節〜7節

(2016.10.2)

参考資料

1節の「シンの荒野」はシナイ半島の南西部にありました。「レフィディム」は、シナイ山北西部の麓にある平原。地図はこちら

6節の「ホレブ」は、シナイ山のこと。後に、モーセの律法が与えられます(20章〜)。

7節の「マサ」は試みという意味で、「メリバ」は争い(リーブ)から来ています。

聖書からのメッセージ

イントロ

この話は、昔のイスラエルの話ではなく、あなたの物語です。どういうことでしょうか?

1.神への試み

イスラエルのつぶやき

いよいよイスラエルの民は、シナイ山の近くまでやってきました。そして、山の麓にあるレフィディムという平原に宿営しました。ところが、あたりには水場がありません。そこで、例によって民は大騒ぎを始めました。

出エジプト記を読むと、イスラエルの民は何かあるたびにつぶやいています。しかし、それぞれの危機に際して、イスラエルと契約を結ばれた神ヤハウェは、イスラエルに奇跡的な助けの手をさしのべました。
つぶやき 神の介入
5章 モーセがエジプト王に、民を解放するよう要求し、かえって王が民への苦役を重くしたとき。 10の災害がエジプトを襲い、王の方から「エジプトから出て行け」と言うようになりました。
14章 エジプトの戦車隊と海に挟まれてしまったとき。 海を真っ二つに引き裂き、民が無事に向こう岸に渡ることができるようにし、後を追ってきたエジプト軍を溺れさせました。
15章 後にマラと呼ばれる場所で見つけた泉の水が、苦くて飲めなかったとき。 ヤハウェに示された木をモーセが泉に投げ込むと、その水が飲めるようになりました。
16章 空腹なのに食べるものが見つからなかったとき。 夕方にたくさんのうずらが宿営地に飛んでくるようにし、朝には不思議な食べ物であるマナを天から降らせてくださいました。
イスラエルの民は、何度も何度もヤハウェの奇跡的な介入によって、苦難を脱する経験をしました。しかし、そんなことなどすっかり忘れてしまったかのように、彼らはモーセを責め立てたのです。

主への試み

モーセは、そうやって過去の奇跡を忘れたかのように彼のことを責めるのは、天地の支配者ヤハウェを試しているのと同じだと指摘しました(2節)。「主を試みる」とは、神であるヤハウェの性質や行ないや言葉が正しいことを、証拠を示して証明してみろと、人が神さまに挑戦することです。

要するに、天地の支配者である神ヤハウェを試すとは、ヤハウェの愛も力も約束も、一切信用してないぞと言うに等しいことです。それは、ヤハウェに対する不信仰の罪です。ヤハウェに「いい加減にしろ!」と叱られて、滅ぼされても仕方がないほどの失礼ですね。

ヤハウェの恵み

しかし、ヤハウェは、怒りによってイスラエルを滅ぼすことをなさいませんでした。これまでと同じように、奇跡によってイスラエルの民に水をお与えになりました。

出エジプト記や民数記の記録を読むと、イスラエルの民はこの後も何度も何度もつぶやき、ヤハウェを試していることが分かります。私は、最初出エジプト記や民数記を読んだときには、イスラエルの民の不信仰にあきれ果てました。

しかし、それでもヤハウェはイスラエルの民を滅ぼしませんでした。私は、年を重ねるにつけ、出エジプト記や民数記は、天地の造り主ヤハウェの、考えられないほどの恵みの記録だと思うようになりました。

神さまの恵みは、神さまの忍耐と表裏一体です。忍耐しているということは、何かを待っているということです。

その答えは、第2ペテロ3:9に書かれています。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のこと(註:神さまが今の世界を滅ぼして、すべての悪をさばくこと)を遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」

神さまがさばきをなさらないのは、罪なんか気にしていらっしゃらないからではなく、私たち人間が悔い改めて、神さまを信頼し、神さまに従うようになるのを期待し、待ってくださっているからです。

そして、私たちが、この不完全で罪深いまま赦され、神さまの子どもにしていただけるよう、御子イエス・キリストが人として来られ、十字架にかかって死に、葬られ、そしてよみがえられました。それを信じるだけで、私たちは救われます。聖書が教える神さまは、恵みに満ちたお方です。

2.私たちへの試み

反面教師

今回の出来事について、聖書は何度も引用しています。そして、このときのように神さまを試みてはいけない、むしろ神さまを信頼し、忠実に従いなさいと命じています。たとえば、

申命記
6:16 あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、【主】を試みてはならない。
6:17 あなたがたの神、【主】の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。
6:18 【主】が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、【主】があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。

詩篇
95:7 主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、
95:8 メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。
95:9 あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。

私たちの物語

今回の箇所は、イスラエルの不信仰が隠すことなく記録されています。しかし、私たちには彼らを非難する資格がありません。私たちもまた、何度同じ失敗を繰り返してきたことでしょうか。繰り返し神さまの愛や力を体験しておきながら、問題にぶつかると「本当にイエスさまは私のことを気にかけておられるのだろうか」「本当に神なんか存在するのだろうか」などと、疑う気持ちが起こります。そして、慌てて右往左往したり、愚痴をこぼしたり、フリーズしたりするのです。

今回の箇所は、昔話でも、外国の話でもありません。私たちの物語です。そして、当時のイスラエルの民に注がれた、神さまのあふれる恵みは、私たちにも注がれています。今、私たちに対して忍耐深いの神、恵みに満ちあふれておられる神に感謝し、賛美しましょう。

たとえ証拠がなくても

さて、水がないと騒いでいるこのときも、マナの奇跡はずっと続いているということに注目しましょう。彼らは、毎朝、天からマナが降ってくるという奇跡を体験しているのです。それにもかかわらず、彼らは水がないと騒いでいます。

奇跡を体験しさえすれば、信仰が強くなるのにと思っていらっしゃる方がおいででしょうか。出エジプトの頃や、イエスさまが活躍なさった頃のイスラエルの姿を見ると、どうもそれは本当ではないようです。

大切なことは、仮にそう感じられない現状があったとしても、たとえ奇跡によって証明されなかったとしても、あるいは心に迫ってくるような霊的体験をしなかったとしても、それでも神さまを信頼して、その約束を受け入れるか、それとも受け入れないかということです。

7節には、「彼らが、『【主】は私たちの中におられるのか、おられないのか』と言って、【主】を試みたからである」と書かれています。しかし、本当は、試されていたのはイスラエルの民の方でした。すなわち、「あなた方は主を信頼するのか、それとも信頼しないのか」と試されているということです。

そして、今回の箇所が私たちの物語なのであれば、私たちもまた試されています。

私たちが問題にぶつかったとき、特に奇跡が起こって問題がすっかり解決するなどとはまったく期待もできそうにない、八方ふさがりの状況に陥ったとき、そのときこそ「今まさに、私たちはメリバに、マサにいるんだ」と自覚しましょう。そして、申命記や詩篇が勧めているように、「それでも、私は神さまを信頼する。イエスさまに従い続ける」と宣言しましょう。

まとめ

信じられないときこそ、今回の出来事を思い出して信じましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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