律法の目的

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出エジプト記20章1節〜17節

(2016.10.16)

参考資料

ユダヤの学者たちによると、モーセの律法(トーラー)は613の命令からなるそうです。今回出てくる命令は、そのうち最初の10個です。「十のことば」(34:28)、あるいは十戒と呼ばれています。ただし、聖書は律法を613全部ひとまとまりのものとして扱っていて、十戒と他の603の命令の関係は、憲法と通常の法令の関係のようなものではありません。

神さまは、十戒を2枚の石の板にご自身の指で刻みつけ、モーセを通じてイスラエルにお与えになりました(31:18、申命記4:13)。

聖書からのメッセージ

イントロ

いよいよモーセの律法(トーラー)がイスラエルに与えられます。律法が与えられた目的は何でしょうか。そして、その目的は、現代のクリスチャンにとってどんな意味があるのでしょうか。

1.いかに生きるべきかを教える

祭司の王国、聖なる国民とする

モーセが律法を受け取るためにシナイ山に登る直前、まことの神であるヤハウェはモーセにこうお語りになりました。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである」(19:5-6)

神さまは、イスラエル民族を「祭司の王国」「聖なる国民」になさるおつもりです。祭司には、神さまと人々をつなぐ役割があります。イスラエルが祭司の王国になるということは、諸国の民に全世界の王である創造主ヤハウェを紹介し、ヤハウェと諸国の民とをつなぐ役割を果たす国になるということです。

そのためには、まずイスラエルがヤハウェといい関係でいなければなりません。聖なる国民という言葉がありますが、これに関連して、レビ11:45には「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから」と書かれています。ここで言う「聖」とは、神さまが望んでおられるような生き方をし、神さまに受け入れられているということです。

そこで与えられたのが、十戒を始めとするモーセの律法です。その内容は、神さまに対する態度、家族や隣人に対する態度、現在の刑法や民法などに相当する規定、儀式のやり方など、多岐にわたります。律法を読めば、イスラエルは自分たちがどんな行動や心構えで生きていけばいいかを知ることができます。

ユニークな存在とする

律法の中には、ひげを剃ってはいけないとか、混紡の服を着てはいけないとか、衣服の四隅の裾には房をつけなければならないとか、様々な食事のタブーとか、なぜこんな命令があるんだろうかと首をひねるようなものもあります。しかし、モーセの律法を実践するイスラエルの人たちは、周りの国の人たちと比べて非常にユニークです。

私が周りの人と全く同じ行動やライフスタイルを送っていたら、伝道は成り立ちません。「あの人、なんか自分たちと違うね」というふうに、まず私自身に興味を持ってもらって初めて、私が信じているイエスさまや、イエスさまがくださる救いについて興味を持ってもらうことができるのです。

聖書の神さまは、イスラエルだけでなく全世界の人々を救いに導こうとしておられます。そのために選ばれた祭司の国、世界の人々と神さまをつなぐ国民がイスラエルです。そして、その任務を果たすために、神さまは律法を与え、この通りに生活しなさいとおっしゃいました。

私たちへの指針

モーセの律法は、旧約時代のイスラエルに対して与えられた命令でした。そして、イスラエルに対しても、イエス・キリストが十字架にかかって復活し、罪の赦しを完了なさってからは、モーセの律法は無効となりました。「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」(ローマ10:4)

では、どんな生き方をしてもいいということではありません。今の時代は、キリストの律法と呼ばれる教えが与えられています。「律法を持たない人々(註:異邦人のこと)に対しては、──私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです」(第1コリント9:21)

キリストの律法とは、新約聖書に書かれている使徒たちの命令と、十字架と復活後の信者に向けて語られているイエスさまの命令です。なお、福音書のイエスさまの命令の中には、まだモーセの律法が生きている時代のイスラエルに対する命令がたくさん含まれていますから、文脈で判断しなければなりません。

私たちにキリストの律法が与えられているのも、イスラエルにモーセの律法が与えられたのと同様、祭司として世界中の人々を救いに導くためであり、そのためにイエスさまが望まれる聖なる生き方をするためです。ですから、しっかりと聖書を読み、イエスさまのみこころを学んで、それを実践しましょう。

適応注意

なお、モーセの十戒のうち、安息日規定を除く9つはキリストの律法の中にもあります。それは、モーセの律法の一部が今も生きているのではなく、たまたま一致しただけと言えます。

旧約聖書を読む際には、そこに書かれている命令を文字通り守らなければならないと受け取るのではなく、いったん新約聖書の命令に照らして判断する必要があります。「新約聖書の命令をより深く理解するために、例話的に読む」というのが実際的でしょう。

たとえば、新約聖書には父母など年長者を敬うようにという教えがあります。一方、モーセの律法でもそうですし、もし父母を叩いたりのろったりしたら死刑でした。新約の教えでは死刑は定められていませんから、親を叩いたからといって、教会がその人を殺すことはできません。しかし、父母や年長者を敬うというのは、それだけ厳粛な教えなんだということの説明するものとして、モーセの律法の定めを受け取ることができますね。

2.キリストへの信仰を生み、増し加える

自力救済不可能

モーセの律法を読んでみると、これを完璧に実践するのは大変だなぁと思わされます。しかも、イエスさまがマタイ5〜7章でなさった解説(山上の説教)によると、モーセの律法が要求しているのは、単に表に現れた結果としての行動だけでなく、原因となる心の中もきよくなければならないということです。

たとえば、「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタイ5:21-22)

誠実に真剣にモーセの律法を実行しようと思えば、人は必ず失敗します。ですから、自分の行ないの正しさによって神さまに受け入れられ、愛され、報酬として祝福をいただくということは、これは無理だなと思わされます。モーセの律法は、自力救済が不可能だということを人間に教えます。

恵みによる救いの希望

結果として、神さまに一方的に赦され、受け入れられ、愛され、祝福されるしか道はなくなります。これを恵みといいますが、聖書は、私たちの神は恵みに満ちたお方であり、恵みによって救いを与えるお方だと教えています。モーセの律法を真剣に実践し、行ないによる救いに挫折したイスラエルの人々は、救いは恵みによるのだということに希望を置くようになるはずです。

そして、やがて神の恵みの集大成として、救いを一方的に与えてくださる救い主(メシヤ、キリスト)が地上にいらっしゃる時、イスラエルの人々は救い主に信頼し、救いを完成させることができることでしょう。実際にはイエスさまを救い主と信じなかったので、イスラエルの民族的な救いはずっと後の時代(黙示録の時代)に先送りになってしまったのですが。

私たちも恵みによって救われた

旧約時代のイスラエルは、モーセの律法を守るから救われたのではありません。あくまでも神さまの一方的な恵みと、それを信じる人の信仰によって救われたのです。

一方的な愛によって、しかもイエスさまご自身の命を犠牲にして、私たちは救っていただきました。その感謝、もったいなさ、喜び、感動が、イエスさまに従いたいという思いを生み出します。

私たちにもキリストの律法が与えられていますが、キリストの律法は救いの条件ではなく、結果です。それを決して忘れないでください。そうでないと、クリスチャン生活が重苦しく、不自由なものとなります。

一方、救いが恵みによってもたらされたことを知り、信じて受け入れた人は、律法を学び、それを実践することが重荷ではなく、喜びになります。詩篇には、そのような喜びが詠われています。「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(詩篇119:103)。私たちも、キリストの律法を学び、実践することが、スイーツをいただく以上の喜びに満ちた経験となりますように。

まとめ

モーセの律法は今は無効となりましたが、私たちがキリストの律法を学び、実践するにあたって、大いに参考になります。

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