死者の願い、イエスの願い

トップページ聖書のメッセージ集2016年 > このページ


ルカによる福音書16章19節〜31節

(2016.10.23)

参考資料

22節の「アブラハムのふところ」は、死後に信者が行く慰めの場所で、「パラダイス」(ルカ23:43、2コリント12:4)と同じ。一方、23節の「ハデス」は、死後の苦しみの場所。どちらも一時的に入れられる場所で、永遠の慰めや苦しみに入れられる日を待つ、待合室のような所です。

29節の「モーセと預言者」とは、聖書のことです。この時代はまだ新約聖書は書かれていませんから、旧約聖書のことですね。

聖書からのメッセージ

イントロ

今日は、召天者記念礼拝です。普段は死について考える機会は少ないかもしれませんが、長さの違いはあるものの、人は必ず死にます。改めて、自分も死ぬ者であることを自覚しましょう。それが地上をいかに生きるかを左右します。

今回、死後の世界についてイエスさまが教えておられる聖書箇所を選びました。ここからどんなことが分かるでしょうか。3つ申し上げます。

1.人生は逆転可能だが、死後の再逆転は不可能

全く異なる状態

よく死ぬことを婉曲的に「眠りに就く」と言いますが、実際には本当に眠ってしまうわけではありません。ましてや存在そのものが消滅してしまうわけでもありません。死後の世界、すなわちアブラハムのふところ(以下、パラダイス)という場所や、ハデスと呼ばれる場所に送られたラザロと金持ちには、ちゃんと意識がありました。金持ちは、遠くに見えたアブラハムと会話さえしています。

しかし、ラザロと金持ちが置かれた状態は、極端に異なっていました。
  • パラダイスに送られたラザロは、慰めに満ちた幸せな状態で暮らしています。
  • 一方の金持ちは、大変な苦しみを味わっていました。彼が味わっていた苦しみは、指先を濡らしただけのほんのひとしずくの水でも慰めになるというような、それほどの熱さです。
私たちが死後に行くとしたら、もちろん慰めの場所の方がいいですね。

人生の大逆転

ラザロと金持ちは、生前も全く異なる人生を味わっていました。金持ちは毎日ぜいたくに遊び暮らしていましたが、ラザロの方は食べるにも事欠くような貧しい生活で、しかも全身のおできに苦しんでいました。しかし、彼らが死んだとき、上述の通り状況がまったく逆転します。

ちなみに、パラダイスもハデスも、限られた期間入れられる、いわば待合室のような場所です。世の終わりがやってきて、今のこの宇宙がすべて消え去って、新しい天地が造られるとき、永遠に続く世界がやってきます。そこでも、人間は2つの全く違った状況に振り分けられます。

永遠の場所の1つは、新しくできた地上に降りてくる「新しいエルサレム」と呼ばれる場所で、ここは永遠に続く慰め、喜びに充ち満ちた所です。

「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである』」(黙示録21:1-4)。

死後、待合室であるパラダイスに入った人は、すべてこの新しいエルサレムに住むことができます。もちろん、物乞いをしていたあのラザロもそこに住みます。

もう一つの永遠の場所は、ゲヘナ(火の池)と呼ばれる場所です。

「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた」(黙示録20:13-15)。

死後、ハデスに落とされた人は、すべてこのゲヘナに投げ込まれてしまいます。その苦しみは、ハデスで味わう苦しみの比ではありません。そして、その苦しみは永遠に終わることがありません。やがてあの金持ちもゲヘナに投げ込まれてしまいます。

再逆転はない

さて、ハデスに落とされ、大変な苦しみに陥っている金持ちに対して、アブラハムは非情な宣言をします。それは、パラダイスとハデスとは、行き来が不可能だということです。「私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです」(26節)。

いったんハデスに落とされたなら、どんなに悔やんでもパラダイスに移ることはできません。また、いったんパラダイスに入ったなら、その後は決してハデスに移されることはありません。

ということは、その先の運命、すなわち新しいエルサレムに住めるか、燃えるゲヘナに投げ込まれるかという運命も変更不可能だということです。

死んだその瞬間に、運命がばっちりと分けられて、もう変更はきかないのです。ですから、地上に生まれてから死ぬまでの間にどんな生き方をするか、どんな選択をするかが重要だということになります。

2.死者は正者の永遠の幸福を願っている

兄弟の心配をした金持ち

いったん死んでしまったら、もう再逆転が不可能だという悲しい現実を突きつけられた金持ちは、まだ生きている5人の兄弟のことを心配しました。彼らまで自分と同じ苦しみを味わって欲しくないと、金持ちは思いました。そして、生きている兄弟たちには、まだ永遠の運命を選ぶチャンスが残されています。

死者はたたらない

日本の宗教の中には、死者のたたりを説くものがあります。「あなたが今ひどい状況にあるのは、先祖をちゃんと供養していないために、たたりを招いたからだ。だから、しっかりと先祖供養をしなさい」というわけです。中には、供養と称して、多額のお布施を要求したり、ツボや印鑑などを販売したりする怪しげな宗教団体がありますし、そういう占い師やスピリチュアルセラピストなどもいます。

しかし、イエスさまのこの話は、そのような考え方を真っ向から否定しています。死んだ人たちは、たとえ自分が死後苦しみに遭っていたとしても、それをまだ生きている家族や子孫のせいにして恨むことはなく、むしろ家族や子孫が死後に苦しむことがないように、むしろラザロが味わったような祝福に満ちた第二の人生を味わって欲しいと願っている。イエスさまは私たちにそう教えてくださっています。

死者の冥福を祈る必要は無い

そして、私たちは死者の冥福を祈る必要はありません。私たちが教会で葬儀を行なうのも、またこうして召天者記念礼拝を捧げているのも、亡くなった教会員の方の供養のため、冥福を祈るためではありません。私たちが神さまにお願いするまでもなく、その方はすでに冥福を味わっておられます。その方はすでに慰めと平安と喜びに満ちたパラダイスにいて、やがてさらに祝福に満ちた新しいエルサレムに入ることが決まっています。

私たちが折に触れて亡くなった方々を思い出し、こうして年に一度の記念礼拝を捧げるのは、私たち自身がその方の信仰に倣って、自分自身の限りある大切な人生をイエスさまと共に生き、イエスさまに従いながら生きていこうという決意を新たにすることです。

そのことをこそ亡くなった方々は願っています。これこそが、本当の供養と言えるでしょう。死について考えることは、自分自身の生き方を振り返ることです。私たちは今、どんな生き方をしているでしょうか。それは、すでに亡くなった方々が「これだったら大丈夫だ」安心するような生き方でしょうか。

3.永遠の幸福を得られる道がある

どうして運命が分かれたのか

では、どんな生き方をすればいいというのでしょうか。

ここまである疑問について答えないできました。それは、「どうしてラザロはパラダイスに、そして金持ちは苦しいハデスに送られることになったのか」ということです。生きている間の何が違ったのでしょうか。

25節のアブラハムの言葉を読むと、まるでラザロが貧しかったからパラダイスに、金持ちが裕福だったからハデスに送られたのだと解釈する人がいるかもしれませんが、実はそれが原因ではありません。というのは、語っているアブラハム自身が大変な金持ちだったからです。

はっきりとした理由は書かれていませんが、ヒントは隠されています。金持ちがアブラハムに、ラザロがよみがえって兄弟たちを説得してくれたら、きっと彼らは悔い改めて、ハデスになんか来ることがないような生き方へと変わってくれるだろうと訴えた箇所です。

それに対してアブラハムはこう答えました。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」。モーセと預言者、すなわち聖書が教えていることに耳を傾けること。それが永遠の運命を分ける重要なカギなのだとアブラハムは、そしてこの話をしておられるイエスさまはおっしゃっています。

聖書は何を教えているのか

では、聖書は何を教えているでしょうか。今回の話より前の箇所を読んでみると、イエスさまが一貫して教えてこられたテーマがあります。それは以下のようなメッセージです。
  • 人は皆、天の父なる神さまにとって罪人である(犯罪を行なったとか、不道徳だとかいう意味ではなく、人の心や行ないが、完璧を求める神さまの高い要求水準に到達していないという意味)。
  • 神さまは正義なので、罪をさばかなければならないが、同時に愛に満ちたお方なので、罪人を罪ゆえにさばき、滅ぼすことを望んでおられない。
  • 神さまが望んでおられるのは、罪人が悔い改めて神さまとの関係を回復することである。
  • しかし、神さまの命令である律法を守って認めてもらうというやり方では、人は失敗するばかり、罪人であることが明らかになるばかりで、神さまのとの関係を回復することができない。
  • そこで、神さまは人の罪を一方的に赦すというやり方で、関係を回復される。
これこそ聖書が、創世記から黙示録に至るまで一貫して教えていることです。

そして、罪が赦されるための方法も、神さまの方から用意してくださいました。それは、「イエスさまが、私たちの身代わりに罪の罰を受けるために十字架にかかり、死んで葬られたけれど、3日目に復活なさった」ということです。これを福音(グッドニュースという意味)と呼びます。

私たちは、この福音を信じるだけで、あらゆる罪が赦され、神さまの子どもとされ、神さまに受け入れられて祝福されます。

もしも、読者の中でまだ福音を信じていない方がいらっしゃるならば、ぜひ生きている今、信じてください(今日信じたよという方は、ぜひメールでお知らせください。新しい神の子の誕生を喜び、祝福を祈らせていただきます)。

そして、すでに福音を信じておられる方は、完全な罪の赦しと、決して取り消されることのない救い、そして永遠に続く祝福の約束が与えられていることを確認して、大いに喜びましょう。

私たちイエスさまを信じた者たちは、今がどんなに苦しくてつらくても、人生の大逆転があると期待することができます。たとえ生きている間にその大逆転を体験できなかったとしても、人生は死んで終わりではありません。死んだ後、必ず大逆転が待っています。

ですから、過去の信仰の先輩たちは、貧しさの中にあっても、迫害の苦しみの中にあっても、馬鹿にされても、けなされても、たとえ殺されるような事態に陥っても、それでも平安や希望を失うことなく、前向きに生き生きと生きてきたし、イエスさまをますます強く愛し、イエスさまが喜ばれる生き方を貫こうとし、イエスさまが愛しておられる他の人々への愛をますます強く保ち続けました。

私たちも今の状況に一喜一憂することなく、「自分は必ず幸せになれる」と宣言しながら毎日を過ごしたいですね。

まとめ

死後も、人生は永遠に続くことを忘れず、生きている今をどう過ごすかを考えましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


Copyright(c) 2016 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.