愛しにくい人への偽りのない愛

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ローマ人への手紙12章9節〜21節

(2016.11.13)

参考資料

20節は、箴言25:21-22の引用です。

12:1-2は、2009年1月11日に解説しています。また、12:3-8については、前回の解説をご参照ください。

聖書からのメッセージ

イントロ

ガラテヤ5:14で、パウロは「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」と語っています。今回の箇所は、愛について何を教えているのでしょうか。

1.対象を選ばないこと

聖徒やまだ救われていない人に対する愛

13節で、「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい」と教えられています。聖徒とは、クリスチャンのことです。

特に旅人に対するもてなしが強調されているのは、この手紙が書かれた時代特有の事情があります。この時代、爆発的に教会が成長したため、牧師や伝道者の数が圧倒的に足りませんでした。救われたばかりの人が、他の人を教え導けるほど成熟するには、それなりの時間が必要だからです。

そこで、牧師や伝道者たちは、各地の教会を巡回しながらクリスチャンを教え導いたり、伝道を行なったりしていました。ですから、巡回伝道者を家に泊めたり、生活を支えたりすることは、各地の教会の人々に対して、そしてまだ世界中の救われていない人たちに対して、愛を表す大切な方法の一つだったわけです。

迫害者に対する愛

しかし、この箇所はさらに、自分を迫害する人に対しても愛を表すようにと勧めています。

「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」(14節)

「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』。」(17-19節)

この命令は、別にパウロだけのものではありません。ペテロもこう教えています。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです」(第1ペテロ3:9)

イエスさまもこうおっしゃっています。「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい」(マタイ5:38-41)

心を込めて

さて、20節には、「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです」と書かれています。

そうか、あの気に入らない野郎に親切にしてやったら、天罰が下って、そいつは頭に炭火を乗せられるような苦しみに遭うのか。それはいいことを聞いた。あいつをひどい目に遭わせるために、早速親切にしてやれ……。もしそういう動機で親切なわざをするなら、それはもちろん愛ではなく、のろいです。

「炭火を頭に乗せる」というのは、その人が地上でひどい目に遭うとか、地獄に落ちるとかいう意味ではありません。愛されることで、その人が自分のやっていたことを振り返り、恥ずかしさや悲しみを味わって、結果として悔い改めに導かれるということです。
「レ・ミゼラブル」の中で、銀の皿を盗んだジャン・バルジャンをミリエル司教が赦しただけでなく、銀の燭台まで与えた話は有名ですね。司教の愛に感動したジャンは、自分の罪を悔い改めて、この後は正しい生き方をし、困っている人々を助ける人生を歩もうと決意します。
そして、それによって、私たちが霊的・精神的に勝利を得ることができます。悪に悪で報いれば、ますますひどい対立を生むだけです。そして、戦いの末に相手を打ち負かすことができたとしても、霊的・精神的には私たちの負けです。しかし、悪に対して善で応答できれば、私たちの勝ちです(21節)。

9節には、「愛には偽りがあってはなりません」と書かれています。心から迫害者を祝福できるようになることが、私たちの目標です。では、どのようにしてそんなことが可能になるのでしょうか。

2.そのために必要なこと

(1) 謙遜であること

10節に「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」と書かれています。また、16節にも「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません」と書かれています。

迫害された、意地悪を言われたというところにだけ注目すると、私たちはその人に対する怒りがわき上がります。しかし、もしかしたらその人は、私の信仰に反対なのではなく、私の何気ない態度に傷ついて頭にきたのかもしれません。あるいは大切にされていないと感じて、寂しい思いをしたのかもしれません。

特に人間には自尊心がありますから、馬鹿にされたとか、大切にされていないと感じると、強烈な反発心を持ちます。霊的な問題ではなく、単に相手の自尊感情を傷つけているせいで、迫害を招いていなかったか、冷静に考えてみる必要があります。

第1コリント13:5には、「(愛は)礼儀に反することをせず」と書かれています。私たちが相手に対する尊敬を忘れず、礼儀を尽くすことで、迫害や意地悪を防止したり、やめさせたりすることが可能な場合もあります。この話をお読みください

「私を迫害するあの人は、霊的に盲目で、道徳的に劣っていて、頭も悪いからこんなことをするんだ」と、その人のことを見下げてはいなかったでしょうか。どんな理由があろうとも、他人に対する意地悪な言動それ自体は良くないことです。しかし、人が何かをしたり語ったりするのには、それぞれ自分なりのもっともな理由があるということは、私たちは忘れてはなりません。

そして、自分を高くして、相手を低く見てしまうと、相手の中のもっともな理由が見えてきません。相手の自尊心への配慮も生まれません。

もちろん、謙遜と卑屈は違います。相手の中のもっともな理由を理解することと、相手の言いなりになることも違います。時には、迫害やトラブル覚悟で、自分の信念を押し通す必要がある場合もあります。

しかし、謙遜であることが、愛の始まりです。いつも謙遜であることを追い求めましょう。

(2) 神の助けを受けること

相手が迫害者であっても、呪うことなく心から祝福を願うこと、あるいは謙遜であることは、簡単にできることではありません。

パウロが、今回の愛の勧めを、ローマ書の冒頭でせず、12章になってからしていることに注目しましょう。

11章までで、パウロは「イエス・キリストを信じる信仰によって人は救われる」ことを論証してきました。そして、私たちは、11章までを読むことで、以下のことを知りました。
  • 自分が本来なら罪の罰を受けて滅ぶべき存在だったこと。
  • しかし、神さまは私たちに対するあふれる愛の故に、さばきを望まなかったこと。
  • そのために、イエス・キリストが身代わりに死んで復活し、罪の赦しをもたらしてくださったこと。
  • 私たちは、何が良いことをして、ご褒美で救われるのではなく、キリストによる罪の赦しを信じるだけで、さばきを免れ、神の子にしていただけること。
そして、救われた喜びに満たされた読者に対して、12章から、信じて救われた者がいかに生きるべきかを教えています。

今回の11-12節にもこう書かれています。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」

救いの望みによって喜ぶことが、霊に燃えること、患難に耐えることにつながります。ですから、「絶えず祈りに励め」と勧められているように、私たち自身がもっともっとイエスさまの愛に満たされ、喜びにあふれるように祈りましょう。そのことによって、ますます謙遜にされ、たとえ相手が迫害者であっても、祝福を祈ることができるような、心の余裕を与えてくださるよう祈りましょう。

(3) 教会の助けを受けること

そして、パウロは、直前の3節でこう語りかけています。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」

そして、教会はキリストの体であって、一人一人のクリスチャンはその器官のようなものだから、自分に与えられている賜物を発揮して、互いに協力し合うことが大切だと教えています。

謙遜ともつながりますが、私たちは、一人で信仰生活を送ることができるほど、立派でも強くもないということを知らなければなりません。愛することについても、ほかのクリスチャンの助けを借りる必要があります。

愛しにくい人、特に意地悪な人がいたとき、その人からの意地悪につぶされないこと、かえって心からその人を愛し、祝福する力が与えられるようになることが求められています。しかし、そんなに簡単にできることではありませんから、教会の仲間に相談し、つらい気持ちを吸い取ってもらった上で、イエスさまの愛に満ちあふれ、そのいやな相手を尊敬し、祝福することができるよう祈ってもらうことが必要です。

なお、1:29では、罪のリストの中に「陰口」も入っています。単にその人の悪口を言うだけなら問題ですが、最終的にその人のことを愛せるようになることを目的とするなら、ほかのクリスチャンに相談することは陰口には当たりません。むしろ素晴らしいことであり、必要なことです。

私たちは、一人でクリスチャン生活を送ることが求められているわけではなく、教会に属し、互いに支え合うことができます。「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない」(伝道者の書4:12)

まとめ

謙遜に、神さまと教会の仲間に助けを求めながら、どんな人に対しても愛のわざを行ないましょう。

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