クリスチャンの政治的スタンス

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ローマ人への手紙13章1節〜7節

(2016.11.20)

参考資料


聖書からのメッセージ

イントロ

アメリカ大統領選挙で、ドナルド・トランプ氏が次期大統領に選出され、大歓迎する人たちがいる一方で、反対デモもあちこちで起こっているようです。また、お隣韓国では、朴槿恵大統領に絡むスキャンダルで、100万人規模の退陣要求デモが起きているとのことです。私たち日本に住むクリスチャンも、政治的な動きと無関係ではいられません。

今回の箇所には、クリスチャンが政治権力に対して、どのような態度で臨むのかという原則が記されています。

1.原則

権威には従うべきである

1節の前半でパウロはこう言っています。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです」

この場合の権威とは、皇帝や総督、議員などの政治権力を持っている人たちのこと、そして彼らの命令や彼らが定める法令のことです。さらには、政治家だけでなく、それ以外の権威、会社や学校、あるいは教会や家庭の中でのリーダーやルールにも拡大することができるでしょう。

すなわち、基本的にクリスチャンは、
  • 様々な法令や規則、ルールを遵守すべきです。
  • 同様に、社会的に認められているマナー、エチケットなども大切にしなければなりません。
  • 納税の義務など、国民やグループの構成員としての義務をしっかり果たすべきです。
  • リーダーに対して敬意を表すべきです。
別の箇所でもパウロはこう命じています。「あなたは彼らに注意を与えて、支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者とならせなさい。また、だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい」(テトス3:1-2)

パウロだけでなく、ペテロも同様に命じています。「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい」(第1ペテロ2:13-14)

この原則は、民主国家でなくても適用されるということに注目しなければなりません。パウロやペテロが手紙を書いたのは、ローマ帝国が支配する地域の中です。当時のローマ帝国では、国民が民主的にリーダーである皇帝を選んでいたわけではありません。それでもこのように命ぜられています。

従うべき理由

クリスチャンが地上の権威に従うべき理由は、1節の後半に書かれています。「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」

そして、神さまがそのようになさった目的は、正義のためです。地上に悪ではなく善を広めるためです。それによって、私たちクリスチャンも含めて、みんなが幸せに暮らすことができるようにするためです。

「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです」(3-5節)

無政府状態に陥った国が、どんな状態になるか、イメージしてみてください。子どもたちが担任の指示に一切従わず、学級崩壊したクラスがどんな状態になるか、イメージしてみてください。

誰もが権威に従うことをしない世界、みんなが好き勝手に生きている社会というのは、自由でいいじゃないかと思えますが、実は無秩序で、弱肉強食が支配し、安心安全が失われ、経済が沈滞し、自然が破壊され、町は不潔になり、かえってみんな不自由な暮らしを強いられるようになってしまいます。

ですから、神さまに従うクリスチャンは、神さまがお建てになった地上の権威にも、率先して従うのです。

ひどい権威だったら?

しかし、ここで反論も出てきます。私たちが従うべきリーダーが、立派な政治家、立派な上司、立派な親、立派な先生だったら、喜んで従うし、尊敬もするでしょう。また、法令やルールがまともなものであれば、喜んで従うことができるでしょう。しかし、いい加減なリーダーだったり、欠陥だらけのルールだったらどうするんですか、と。

ましてや、キリスト信仰に反するような命令も、守らなければならないのですか、と。

次に、この問題について聖書から教えていただきましょう。

2.ひどい権威への対応

優先順位を確認しよう

まず地上の権威に従えと命じた使徒たちが、そのような場合にどうしたのかを見てみましょう。

イエスさまの昇天と聖霊降臨の後、弟子たちはイエスさまの十字架と復活のメッセージを宣べ伝え、教会が爆発的に成長していきました。脅威を感じたユダヤの指導者たちは、ペテロとヨハネを呼びつけ、「いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない」と命じました。

これはイスラエルの指導者、すなわち権威者による命令です。クリスチャンが権威に従わなければならないのであれば、ユダヤ人である使徒たちは、当然伝道や教会での教育活動をやめなければならなかったはずです。

しかし、それに対してペテロたちはこう反論します。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」(使徒4:19-20)

ここから分かることは、基本的には地上の権威に従うべきだけれど、もしも明らかにイエスさまの命令に反するなら、地上の権威に逆らってでもイエスさまの命令を守るべきだということです。

そんなことをすれば、当然、様々な反発や中傷、攻撃や迫害を招くでしょうが、それでもイエスさまに従う方を選ぶべきです。イエスさまは王の王、主の主であり、あらゆる権威の上に立つ権威者だからです。パウロもペテロも、やがて迫害によって命を落としますが、それでも最後までイエスさまに従うことをやめませんでした。

暴力的な手段はとらないようにしよう

しかし、仮に、権威者の命令や法令、規則が神さまの命令に矛盾するようなひどいものだったとしても、それを改めるのに暴力的な手段に訴えてはなりません。

前回学んだ12章には、このように書かれています。「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」(12:17-19)

以前、出エジプト記を学びました。モーセは、エジプト王の権威に従わず、神さまの命令に従って、イスラエルを解放するよう王に迫りました。しかし、反乱によってイスラエルを解放するという、暴力的な手段は使いませんでした。モーセは、イスラエルの解放が神さまのみこころである以上、神さまが何とかしてくださると信じていたからです。

暴力的な方法をとらなければ、間違っている権威者を諫めたり、ルールの変更を求めたりすることはもちろん許されています。

パウロとシラスがピリピで伝道していたとき(使徒16章)、町を騒がせた罪で逮捕されてしまいました。町を治める長官は、パウロたちをろくに取り調べることなく、何度も鞭で打たせ、牢に入れてしまいます。

その夜、パウロとシラスが牢内で賛美していると、地震が起こって牢獄の扉が全部開いてしまいました。パウロたちは囚人たちを扇動して反乱を起こし、脱走を試みることもできたでしょうが、そうすることをせず、他の囚人たちと共に牢の中にとどまります(これがきっかけで、看守とその家族が回心し、クリスチャンとなります)。

翌朝、パウロとシラスは釈放されることになりますが、パウロは看守を通じて長官にこう言いました。自分たちはローマ市民権を持っているが、ローマ市民を裁判も受けさせずにむち打ち、投獄しておきながら、こっそり釈放しようとするとは何事かと。そこで、長官が飛んできて、直接二人に謝罪することになります。パウロは、暴力的な手段はとりませんでしたが、自分の権利はしっかりと主張しました。

イエスさまについても、こう書かれています。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(第1ペテロ2:21-23)

デモ自体は、民主国家において国民に保障された権利の一つですから、クリスチャンがデモに参加することは問題ありません。しかし、石や火炎瓶を投げたり、その辺の車に火をつけたり、略奪行為を行なったり、デモの対象者や警備の人たちに暴力を振るったりするのはもちろんいけません。また、相手を悪し様に罵ったり、相手の行為ではなく人格を否定するような暴言を吐いたりすることも、クリスチャンとしては厳に慎む必要があります。

祈りという武器を使おう

それどころか、私たちは間違ったリーダーのために、取りなしの祈りをする必要があります。その人が呪われて、取り除かれるようにという祈り「ではなく」、彼らの祝福を祈り、彼らがイエスさまのみこころにかなう政治や指導ができるようにと祈るのです。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです」(第1テモテ2:1-3)

まとめ

日本や世界の政治家のために、また家庭、会社、学校などのリーダーのために、祝福を祈りましょう。

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