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ローマ人への手紙14章1節〜23節

(2016.11.27)

参考資料



聖書からのメッセージ

イントロ

自信を持って堂々と、しかも他の人たちと仲良く暮らしていけたらいいですね。今回の箇所は、そのための処方箋を提供してくれています。

1.正しい知識を持つ

パウロの危惧

今回の箇所の背景を説明すると、ローマ教会の中に、他のクリスチャンの行動を見て批判する人がいて、パウロが指導する必要性を感じたのでしょう。あるいは、他教会でよくそういう問題が見られるため、パウロがあらかじめ釘を刺しているのかもしれません。

ここには2つの例が挙げられています。
(1) 何を食べるか
一つは、何を食べるか。あるクリスチャンは何でも食べていましたが、別の人は野菜しか食べていませんでした(2節)。野菜しか食べないというのは、肉を食べないという意味です(21節)。

第1コリント8章を読むと、偶像に捧げられた肉をクリスチャンが食べていいかどうか、コリント教会の中で議論になっていたことが分かります。ギリシャやローマの町には、異教の神殿があって、そこに供え物として捧げられた肉の一部が市場に出回ることがありました。

そこで、まことの神を信じるクリスチャンがそんなものを食べると汚れるというわけで、異教の神殿経由ではないことが分かっている肉でなければ食べないというクリスチャンがいました。その一方、異教の神々などというものは存在しないのだから、供え物の肉を食べても汚されることはないと言って、平気で何でも食べるクリスチャンもいました。

おそらく、それと同じ問題がローマ教会の中にも起こっていたのでしょう。
(2) 特定の日は他の日より大事か
もう一つの例は、特定の日を他の日よりも大切だと考えるか、それともどの日も同じだと考えるかという問題です(5節)。

イスラエルでは、モーセの律法の定めに従って、様々な祝祭日が設けられていました。たとえば、過越の祭りや仮庵の祭りなどです。また、土曜日(イスラエルの一日は日没から始まりますから、正確に言うと金曜日の日没後から土曜日の日没後まで)は「安息日」と呼ばれ、「聖なる日」と定められていて、全国民が仕事を休むようにと命ぜられていました。そういう日は、他の日よりも大事だというわけです。

一方、モーセの律法はすでに完了したのだから(ローマ10:4)、どの日も同じだと考えるクリスチャンもいました。

現代でも、イエスさまが復活なさった日曜日がクリスチャンにとっての安息日だとして、この日以外に公の礼拝をささげてはいけないと考える教会もあります。一方で、日曜日だけが他の日よりも聖いわけでなく、どの日に礼拝のための集会を持っても差し支えないと考える教会もあります(中通りコミュニティ・チャーチのように)。

要するに、信仰生活の送り方について、様々な考えのクリスチャンがいたし、今もいるということです。前回学んだとおり、政治的なスタンスも一人一人異なるでしょう。

聖書的な知識によれば

パウロは、これらの問題には、正解があることを教えています。私たちは、聖書の教えを学ぶことで、多くの問題についての判断材料を得ることができます。

たとえば何を食べていいかという問題について、聖書の教えを見てみましょう。パウロは14節で「主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです」と語っています。すなわち、「何でも食べていい」というのが正解です。

もちろん、私たちの体は聖霊さまの住まう宮ですし(第1コリント6:19)、神さまは私たちのことを大切に思ってくださっていますから、有害だと分かっているものを食べたり、偏食をしたりして健康を損なうのは良くありません。しかし、汚れるかどうかという視点で言えば、何でも食べていいというのが聖書の教えです。

ですから、2節では、肉をタブー視して野菜しか食べない人のことを「(信仰の)弱い人」と呼んでいます。この場合の弱い人とは、聖書の知識が少ない人という意味です。

同様に、文脈的に考えると、「どの日も同じだけ大事であって、特定の日が別の日より大事だということはない」というのが正解です。実際、日曜日が新しい安息日になったとする教えは聖書のどこにもないし、最初期の教会は毎日宮に集まって礼拝していましたし(使徒2:46)、そもそもユダヤの安息日でさえ、その日に礼拝するようにとは命ぜられていません(家で休む日です)。

真理はあなたを自由にする

イエスさまはこうおっしゃいました。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:31-32)

聖書は、私たちがしなければならないことや、してはならないことについて、しっかりはっきり教えてくれています。しかし、そうでないことに関しては、基本的に自由です。私たちは、聖書の知識を蓄えることによって、もっと自由なクリスチャン生活を送ることができます。

2.キリストのために行動する

批判してはならない

聖書に精通しているパウロは、食事や日について、答えを持っていました。ですが、この箇所で彼が伝えたいポイントはそこではありません。他のクリスチャンが「これは正しい」と信じて行なっていること、あるいは避けていることについて、あれこれと批判したり、馬鹿にしたりしてはいけないといけないということです。

というのは、その人はイエスさまを愛し、イエスさまのためにそのような行動をしているからです。

逆に、たとえ客観的には聖書が教えているような行動をしているのだとしても、それがイエスさまに対する信仰に基づかないものであれば意味がありません。たとえば、何でも食べていいというのが聖書の教えですが、23節にこう書かれています。「しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です」

目的が問われている

大切なことは、何のためにするのか、何のためにしないのかという「目的」です。イエスさまを愛し、イエスさまに喜んでいただき、イエスさまの素晴らしさをもっともっと自分にも周りの人にも明らかになることを目的としているかどうかが問われています。

うちの教会ではありませんが、ある人が、使い込まれてくしゃくしゃになったお札を献金袋に入れました。それを見た人が「神さまに失礼だ」と非難しました。非難した人は、いつもピン札を用意して捧げていたのです。しかし、くしゃくしゃのお札を献金かごに入れた人は、こう言い返しました。「このお札は、たくさんの人の手を渡って私のところに来た。このお札を手にできたのは、神さまが、働くことができるように私を守ってくださったし、このお札を手にした他の人たちの働きも守ってくださったからだ。だから、神さまへの感謝を込めて、このくしゃくしゃのお札を捧げたんですよ」と。

くしゃくしゃのお札を捧げるのも、ピン札を捧げるのも、もしイエスさまをほめたたえたり、感謝を捧げたりするためであるなら、どちらも素晴らしいことです。

同様に、ある人はイエスさまへの敬意を表すために、一張羅で礼拝に参加なさいます。別の人は、すべての罪を赦し、あるがままの姿で受け入れてくださる神さまへの感謝を表すために、普段着で礼拝に参加なさいます。どちらも素晴らしい行為です。

パウロはこう言い切っています。「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(7-8節)。私たちも、そう言い切ることができるような生き方を目指したいですね。

イエスさまが見ておられるということを意識したとしても、堂々と、そして喜んでできることをしましょう。実際には、それはとても難しいことです。ですから、謙遜に聖霊なる神さまの助けを祈り求める必要があります。

もし私たちがそのような生き方を繰り返しているなら、他の人のことをあれこれ批判する気持ちにもならなくなってくるでしょう。むしろ、それぞれがそれぞれの知識の中で、精一杯イエスさまを愛し、お仕えしようとしていることが分かって、感謝と尊敬の念を抱くようになるはずです。

3.他の人の成長に寄与する

もう一つの原則

ここまでで、自分の聖書知識の範囲内で、自分の確信として、イエスさまのために行動することが大事だと学びました。また、聖書知識そのものも増やしていく必要があることも学びました。

さらにパウロは、もう一つの原則を紹介しています。それは、「自分の言動が、他の人に対してどのような影響を与えるか注意する必要がある」ということです。

20-21節「食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人の場合は、悪いのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです」

肉を食べたりお酒を飲んだりすることそのものは悪ではありませんし、人に与えられている自由の範囲内です。権利だと言ってもいいでしょう。しかし、十分聖書の知識のない人が、私が平気で飲み食いしているのを見て「つまずく」(すなわち幻滅して信仰を失ったり、教会を離れてしまったりする)可能性があるなら、その人の前で飲み食いするのは控えよう、ということですね。

積極的に建て上げよう

さらに、つまずきを与えないという消極的な姿勢だけでなく、積極的にその人の霊的成長を助けるような言動をしましょう。「そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう」(19節)

私たちは、自分の言葉や態度を、注意深く選ぶ必要があります。私たちの言動によって、相手は、ますますイエスさまを愛し、イエスさまに従いたいと思うようになるでしょうか。それとも、かえってイエスさまに従う意欲を損なってしまうでしょうか。

息子さんが明日小学校に入学するという日、お父さんが目覚まし時計をプレゼントして、こんなふうに息子さんを励ましました。「明日からは小学生。もうお母さんに起こしてもらうようではだめだ。明日からはこの目覚ましを使って、一人で起きなさいよ」……ではなく、「明日からは小学生。これまでは幼稚園だったから、お母さんに起こしてもらわなきゃいけなかったけれど、明日からは一人で起きていいんだよ!」。息子さんが張り切って学校生活を送るようになったのは、言うまでもありません。

私たちの言動が、いつも他の人を励まし、やる気や根気を引き出すようなものになるといいですね。そうしたら、きっと人間関係も良くなります。なぜなら、そんなあなたのことを周りの人は好きになりますから。

まとめ

聖書知識は私たちを自由にしますから、とても大切です。しかし、その知識が自分を傲慢にさせたり、他の人を傷つけたりしないよう、同時に愛を育むことも大切です。イエスさまへの愛、そして周りの人への愛です。

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