あなた方は自由なのだ

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ガラテヤ人への手紙3章26節〜4章11節

(2016.12.11)

参考資料

ガラテヤは今のトルコの中央部です。パウロは、第1回伝道旅行(紀元45-48年頃)の折、ピシデヤのアンテオケ、イコニオム、ルステラ、デルベなどの町々を訪れて伝道し、教会を生み出しました(使徒13-14章)。地図はこちら

4:6の「アバ」は、アラム語で「父」。子どもが父親を親しみや尊敬を込めて呼ぶときの言葉です。

4:10は、モーセの律法が定めている安息日規定や祭儀などを守っているという意味。

聖書からのメッセージ

イントロ

今回のテーマは「自由」です。私たちは、肉体的には拘束されたり、奴隷になったりしてはいないかもしれません。しかし、心も自由でしょうか。恐れや、自己嫌悪や、憎しみなどにとらわれてはいないでしょうか。聖書の励ましの言葉を受け取りましょう。

1.執筆事情

どっちやねん

4:10に「あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています」と書かれています。これは、モーセの律法に書かれている、安息日や祭りなどに関する定めを守っているという意味です。パウロは、このことについてガラテヤの諸教会の人々を非難しています。

ここで、前々回の聖書のメッセージを思い出してみましょう。パウロはローマ教会の人々に向かって、こう語っています。「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです」(ローマ14:5-6)

そして、教会の中に安息日や祭りなどを大事にしているクリスチャンがいたとしても、その人を責めてはいけないと教えました。ガラテヤ書で語っていることと違いますね。ローマ書はガラテヤ書の6年ほど後に書かれたと言われていますが、その間にパウロの性格が丸くなり、寛容になったということでしょうか?

実は、この違いはパウロが指導したかったポイントの違いです。
  • ローマ教会に対してパウロが指導したかったのは、分裂問題でした。教会員が互いに「自分こそ正しい」「自分こそ霊的だ」と高慢になり、他の人のことを見下げたり、批判したりしていたということです。
  • ガラテヤの諸教会にあった問題は、律法主義でした。
律法主義というのは、人が救われるためには、イエス・キリストの十字架と復活を信じるだけでは不十分であり、割礼を受け、モーセの律法を守らなければならないという立場です。

では、聖書の教えはどうでしょうか。人は、ユダヤ人であっても異邦人(ユダヤ人以外の民族)であっても、「イエスさまが自分の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目によみがえられた」と信じるだけで救われます(第1コリント15:1-8)。これ以外の条件を付け加えるなら、それは間違った教えです。ですから、律法主義は誤りです。

奴隷状態からの解放

ローマ教会で安息日や祭りを守っている人と、ガラテヤの諸教会でそうしている人には、大きな違いがありました。
  • ローマの人たちは、神さまへのあふれる愛や感謝でそうしていました。
  • ガラテヤの人たちは、「そうしなければ救いが取り消されるかも知れない」と恐れてそうしていました。
ローマの人たちは、たとえ律法の定めを守っていても心が自由でしたが、ガラテヤの人たちの心は束縛されていたのです。

パウロは、4:8-9でこう語っています。「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか」

ガラテヤの諸教会は異邦人の町々にありましたから、救われてクリスチャンになった人たちの多くは、元々は聖書の神さまではなく、異教の神々を拝んでいました。そして、異教の教えに従って、様々な戒律を守っていました。せっかく、クリスチャンになって、異教の間違った束縛から解放されたのに、モーセの律法を守らなければ救われないと信じて、再び束縛され、奴隷状態に逆戻りするつもりなのかと、パウロは嘆いています。

これでは、ローマ書のように「守っても守らなくても、どっちでもいい」というわけにはいきません。というわけで、パウロはとても強い調子でガラテヤの人たちを指導しています。「ああ愚かなガラテヤ人」(3:1)

しかし、パウロは、ガラテヤの人たちを侮辱したいのではありません。彼は「あなた方は自由なんだ」ということを訴えたいのです。

そして、ここにいる私も皆さんも自由です。今度は、私たち自身の束縛と自由について考えてみましょう。

2.私たちは自由だ

恐れからの自由

ガラテヤの人たちは、神さまに対する恐れを抱いていました。力と知恵と愛に満ちた神さまに対して当然感じる畏怖の念、畏敬の念ではなく、自分が神さまに嫌われ、裁かれ、ひどい目に遭い、滅ぼされるのではないかという恐れです。

イエスさまを信じて罪を赦された人は、神さまをそのように恐れる必要はありません。また、ただ罪が赦されただけではありません.聖書は、私たちは神さまの子どもにしていただいたと教えています(3:26)。それも、「アバ」と呼ぶことができるほどに親しい関係です(4:6)。

私たちが感じる恐れや不安は、神さまに対してだけではありません。しかし、最も強くて知恵がある方が私たちのお父さんになってくださり、守り、支えてくださいます。そのことを信じられればられるほど、私たちが感じる恐れや不安は軽くなっていきます。

まだちびっ子だったダビデが、身の丈3メートルはあろうという巨人ゴリヤテに立ち向かって行けたのはどうしてでしょうか? それは、神さまが共に戦ってくださると信じることができたからです(第1サムエル17:45-47)。

■自己嫌悪からの自由

スクールソーシャルワーカーとして、現場や同僚の話などから感じていることがあります。それは、最近はすこぶる自己肯定感が低い子どもが増えてきたということです。自己肯定感の低い子どもは(子どもだけではなく、大人もそうですが)、
  • どうせ失敗すると思っていますから、自分から積極的に何かをしようとはしません。
  • 頑張ったってたいしたことはできないと思っていますから、勉強でも部活でも仕事でも、コツコツ努力しながら、少しずつでも成長していこうという意欲に欠けています。
  • 勉強でも部活でも人間関係でも、ちょっと壁にぶつかると、「ほらやっぱりうまくいかない」と思いますから、簡単にあきらめます。
  • どうせ人に大切にされないと思っていますから、人と積極的に交わろうとしません。
  • 自分には力が無いと思っていますから、依存的になります。
  • 適度な運動をするとか、暴飲暴食を控えるとか、規則正しい生活をするなど、自分を大切にすることには無頓着です。
  • 自分を大切に思えないと、人のことも大切に思えませんから、攻撃的になったり、ルールやマナーを無視するような行動をとったりします。
  • 「生きる価値のないダメ人間だ」と完全に認めれば死ぬしかありませんから、ちょっとでも他の人よりもできることがあれば、それを過剰にアピールしようとする結果、周りからは自慢ばかりしたり、他の人をこき下ろしたりする傲慢な人間に見えてしまいます。
かく言う私自身も、自己肯定感の低い人間でした。しかし、クリスチャンになって30年。イエスさまは、ご自分の命を捨てても惜しくないと思われるほど、私のことを大切にしてくださっているということが、少しずつ少しずつ心に染みてきて、ずいぶんと自由になってきました。

あなたも、イエスさまにどれほど愛されているかを知れば知るほど、自己卑下、自己嫌悪から解放されて、心が自由になります。そして、様々な面で成長し、健康になり、人間関係も改善していきます。

憎しみからの自由

ある精神病院の医師が、こんなことを言ったそうです。「もしも、赦しますと心から言えたら、うちに入院している患者さんの半分は、今日にでも退院できる」。怒りや憎しみは、自分自身の心も束縛し、不健康にします。

ひどいことを言われたりされたりしたとき、相手を赦し、憎しみを手放すのは大変なことです。できるとしたら、それは神業でしょう。しかし、クリスチャンとなり、自分がどれほどの罪をイエスさまに赦していただいたかを知る人は、他の人の罪や弱さを赦すことができるようになっていきます。

ネルソン・マンデラ氏(1918-2013)は、アパルトヘイト(人種隔離政策)を掲げる南アフリカで、黒人差別への反対運動を行なった人です。当初は、武力闘争によって時の政府に圧力をかけようという考えでしたが、ついに逮捕され、終身刑を言い渡されます。そして、27年間も獄中生活を送り、重労働を課されました。

当然、支配者層である白人に対する恨み辛みは増大したと思うでしょう。しかし、やがて解放され、アパルトヘイトの撤廃に成功したとき、彼は白人への復讐や逆差別をしないよう、同胞たちに訴えました。それは、彼がクリスチャンだということと無関係ではありません。27年間の投獄生活の中で、聖霊なる神さまが彼に赦しの力を与えてくださったのです。

なかなか怒りや憎しみを手放せないとき、私たちは、聖霊さまに助けを求めて祈らなければなりません。イエスさまが自分にしてくださったことを、もっともっと心の奥深い所で理解できるようにしてくださいますように。もっともっとイエスさまの愛に感動することができるようになりますように。その結果、他の人の罪や弱さを赦せるようになりますように、と。

まとめ

イエスさまを信じ、神さまに愛されていることを知った私たちは、日に日に様々な束縛から自由になっていきます。

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