愛を完成に近づけるために

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ピリピ人への手紙2章1節〜11節

(2016.12.18)

参考資料

ピリピ教会は、新約聖書に登場する教会の中でも、特に模範的な教会の1つとして描かれています。彼らは愛にあふれ、貧しさの中でもパウロやエルサレム教会の人たちを積極的に援助し、激しい迫害の中でも信仰を守り通していました。しかし、それでも問題がありました。それは分裂の危機です。どうやら2人の婦人が、熱心さのあまり張り合っていたようです(4:2)。

聖書からのメッセージ

イントロ

ピリピ教会は、愛にあふれた教会でした。パウロはこの箇所で、彼らの愛がますます完全な者となるために必要な心構えを語っています。私たちも、教会の人たち、家族、友人たち、あるいは関係するすべての人たちに対する愛を完成に近づけるため、大切なことを教えていただきましょう。

そのために、 まず私たちの愛を台無しにしてしまうものを知りましょう。カギとなる聖句は、3節の「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」です。

1.私たちにとっていいことは何かを考えよう

自己中心

私たちの愛を台無しにしてしまう1つ目の要素は、自己中心です。

自己中心とは、もっぱら自分の利益や好みのことばかり考える態度のことですね。自分の利益や好みばかりを優先させて、他の人の利益や好みを無視するような生き方です。当然、みんながそういう生き方をすれば、愛が冷えてしまうどころか、争いになってしまいます。

自分のことだけでなく

これに対して、4節には「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」と勧められています。

これは、自分を喜ばせることを一切考えてはいけないという命令ではありません。そんなことをしても、いつか不満が爆発したり、うつ状態に陥ってしまったりするだけです。ここに「自分のことだけでなく」と書かれているということは、自分の損得や好みを考えてもかまわないということです。ただ、そればかり考えて、他の人のことを無視することが良くないよと教えているのです。

イエスさまは、すべての人を愛してくださいました。ですから、他の人も大事、そしてあなた自身も大事です。ですから「私たち」を大事にしようと考えてみましょう。私にとってでもなく、周りの人にとってでもなく、私たちにとって何が建設的な行動か、なにがより幸福に近づく行動なのかを考えて実践するということです。

私たちにとって建設的な行動

友だちと些細なことでケンカをしたとします。「私たちにとって建設的な行動」は、感情のままに絶交することではなく、自分の過ちは素直に認めて謝罪し、仲直りを求めることでしょう。

仕事でミスをしたとします。「私たちにとって建設的な行動」とは、ミスを隠すことではなく、素直に認めて、失敗の結果問題が生じたのなら、それをできるだけ解消するよう努力することでしょう。そして、1人で対処できないのなら、他の人にお願いをして助けてもらうことです。

会社が自社の利益を優先するあまり、不正を働いているとします。この場合の「私たちにとって建設的な行動」をとる際、「私たち」とは誰のことかを考える必要がありますね。私たちが自分たちの会社を意味するなら、不正に荷担しなければならないのだろうかと考えてしまうかもしれません。しかし、もっと広い「私たち」もあります。その不正は、会社にとっては利益になるでしょうが、社会全体にとってはマイナスです。だとしたら、私たちが選ぶべきは、不正に荷担しないことでしょう。

なお、3つ目のケースでは、場合によっては会社から追い出されるかもしれません。しかし、パウロは、イエスさまを見習うようにと勧めています。イエスさまは、しばしば当時のユダヤの社会の常識とは逆の行動をとりました。たとえば、安息日に病気の人を治療することは、当時のユダヤでは禁じられていたのに、平気でいやしを行なっていました。その結果、イエスさまはユダヤの指導者たちから異端視され、最後は殺されてしまいます。

しかし、イエスさまはご自分の行動を曲げませんでした。それは、ユダヤ社会よりもさらに広い「私たち」、すなわち人類社会全体、あるいは神の国全体にとって何が幸せかを考えて行動しておられたからです。

自分にとって何が得かを考える自己中心的な生き方ではなく、さりとて自分を殺して他人に合わせることだけを考えるのでもなく、「私たち」にとって何がいいかを考えて行動しましょう。それが愛を育てます。

2.へりくだろう

虚栄

愛を台無しにするものの2つ目は、虚栄です。自分を必要以上に高く、大きく、美しく見せようとする態度ですね。

前回学んだように、それは自信のなさの裏返しです。「そのままの自分でOKで、だからますます素晴らしくなれるし、幸せになれる」となかなか信じられないということです。そういう人は、自分と他人を比較して、「自分の方が優れているから自分は存在価値がある」と証明したくなります。そこで、いやらしいくらいに自分の長所をアピールしたり、他の人の欠点をあげつらって馬鹿にしたり批判したりするわけです。

虚栄の罠に捕らわれた人は、何か親切な行為をするのも「上から目線」になりがちです。「私は問題の無い立派な人間。あなたは問題を抱えたダメ人間。だから、愛情深くて強くて賢い私が、愚かで弱いあなたを助けてあげましょう」みたいに。当然、そんな関わり方では、愛が伝わるどころか、かえって相手を怒らせたり、惨めにさせたりするだけでしょう。

へりくだって

これに対して、3節には「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」と命ぜられています。

そして、イエスさまを見習うようにと勧められています。イエスさまはあらゆる者の上に立つ無限の神です。そのお方が有限な人間になられました。それは人間がナメクジやゴキブリになるよりもさらに大きな変化です。しかし、イエスさまはそれをしてくださいました。それは、私たちを罪の罰から救い、神さまの子どもにするため、それだけ私たちのことを愛してくださったからです。

愛は、謙遜というパイプを通して流れます。

感謝を言葉で表そう

かといって、「どうせ私なんかダメです」と自己卑下するのは、周りから見るとあまりいいものではありません。というのは、自己卑下は、失敗して他の人から責められたり、自己嫌悪に陥ったりしないように、最初から何もしないぞと思い、あらかじめ防衛戦を張るところから生じているからです。ですから、他の人たちはその人との間に壁を感じてしまいます。壁があれば、愛は流れていきません。

では、謙遜でありながら、さわやかに愛を伝える良い方法はないでしょうか。あります。それは「感謝すること」です。

日本語の「ありがとう」という言葉は、「有り難し」から来ているといわれます。ありがとうとは、あり得ないようなことをしていただいたという感動の言葉なのです。ですから、まるで傲慢なご主人さまが召使いに何かをしてもらったときのように、「そんなのこいつの義務なんだから、やって当然」「そんなのできて当たり前」と思っていたら、感謝は生まれないということです。

逆に、心からありがとうを言えるということは、「こんなことをしていただいた」とおもっているということであり、すなわち謙遜であるということです。ですから、相手には愛が流れていきます。

そして、ありがとうという言葉は、相手に貢献感を与えます。貢献感とは、「自分は誰かの、あるいは社会のために何か良いことをすることができている」という感覚です。これが無いと、人は心を病んでしまいます。

ありがとうは、相手に強烈なエネルギーを与えます。感謝は、愛を伝える強力なツールの1つです。愛し合うことを求められている私たちが使わない手はありません。

ありがとうを私たちの口癖にしましょう。しかも、何かすごいことをしてもらったときだけじゃなく、お茶を入れてもらったとか、作った食事を全部平らげてくれたとか、一緒に時間を過ごしてもらったとか、そういう些細なことを感謝するように努めましょう。

まとめ

共同体にとって何が本当の幸せかを考え、謙遜な態度でそれを実行しましょう。

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