偽善者として堂々と生きていこう

トップページ聖書のメッセージ集2017年 > このページ


マタイによる福音書6章1節〜2節、16節〜18節

(2017.10.15)

参考資料

「偽善者」(2節)とは、元々は仮面をつけて演技する俳優を表す言葉で、表面上は敬虔さを装いながら、その実体が伴わない人のこと。

この話の文脈で、特に偽善者と呼ばれているのは、ユダヤの宗教的指導者であったパリサイ派の人たちのことです。「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」(5:20)。

聖書からのメッセージ

イントロ

イエスさまは、罪人を罪人だという理由で責めることはなさいませんでした。しかし、偽善者だと判断なさった人々に対しては容赦ない非難を浴びせておられます。神さまは偽善をことのほか嫌っておられるようです。神さまにもっともっと祝福された人生を歩むため、今回は偽善について教えていただきましょう。

前半は、偽善に対する警告について、後半はそれを私たちへの励ましとして受け取ります。

1.偽善者のようであるな

なぜ偽善が問題か

今回の箇所には、「偽善者のようであってはならない」という形で、3つの良い行ないが挙げられています。貧しい人たちへの施し・祈り・断食です。これらのものは、それ自体は良いことであり、むしろ古代のユダヤ人たちは敬虔な行ないとして尊重していました。現代のクリスチャンもそうですね。

問題なのは、施しや祈りや断食そのものではなく、動機です。イエスさまは、偽善者がそのような良い行ないをするのは「人に見せるため」(1節)であり、その動機は「人にほめられたい」(2節)ということであり、「あなた方はそうであってはならない。むしろ、それらは人に隠れて行ないなさい」とおっしゃいました。

実際には、完全に人に隠れて良いことを行なうのは難しいですが、それくらい、人にほめられるためという動機で行動しないように気をつけなさいということです。

それにしても、たとえ人に見せるためであっても、人にほめられるためであっても、良いことをしているのには変わりありません。どうしてイエスさまはここまで厳しく戒められたのでしょうか。
偽善は悪に変わりやすい
それは、偽善とは、神さまにどう思われるかということよりも、人にどう思われるかということの方を重視する態度だからです。神さまの目ではなく、人の目を恐れ、人の目を気にして生きる生き方です。

ということは、人の目を気にして良いことをするだけでなく、人の目を気にして神さまの喜ばれない生き方を選択するということも大いにあり得ます。

ペテロやバルナバたちがアンテオケ教会にいたとき、ユダヤからある人々がやってきました。その人々は、異邦人のクリスチャンも割礼を受け、モーセの律法を守ってユダヤ人のような生活をしなければ救われないと教える人たちです。

実際には、イエス・キリストがモーセの律法を終わらせたので(ローマ10:4)、異邦人は割礼を受けた律法通りの生活をしなくても、ただイエス・キリストが自分の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさったと信じるだけで救われます(第1コリント15:1-8)。

ところが、それまでは異邦人とも自由に食事をしていたペテロたちは、ユダヤから来た人々の非難を恐れて態度を変え、異邦人信者と一緒に食事をしなくなりました。この件について、パウロはペテロやバルナバの誤りを指摘しました(ガラテヤ2:11-21)。

偽善的な行ないは、容易に悪に変化してしまうのです。変わることのない神さまにではなく、移り変わる人の目、人の評価を基準にした生き方だからです。

自分最優先の生き方

そして、もっと言えば、偽善的な生き方は、自分の利益を最優先する生き方でもあります。何かを選択しなければならないとき、自分の利益を最優先するとは、
  • 私が得するのはどっちだろうか
  • 私が辛くないのはどっちだろうか
  • 私にとって都合がいいのはどっちだろうか
というような基準で判断することです。

もちろん、そういう考え方自体が問題なのではありません。問題なのは、それを何よりも最優先してしまうことです。

神のみこころの故に

では、私たちが最優先すべき事は何でしょうか。イエスさまがここで私たちに訴えているのは、人ではなく、父なる神さまの目を気にして生きていこうということです。

といっても、罰を恐れてビクビクしながら生活しなさいということではありません。イエスさまは、正義の神さまのことをを私たちの父と表現なさいました。神さまは私たちを子として愛してくださっています。そして、誰よりも私たちの幸せを願っておられます。

その神さまが「こういう生き方をして欲しい」と私たちにおっしゃることが、私たちにとって最善以外のものであるはずがありません。だから、父なる神さまが喜ばれる生き方を最優先にすることが、最も安全で、最も祝福に満ちた生き方だとイエスさまは訴えておられます。

2.偽善者として生きる

自分に当てはめてみよう

さて、聖書の中に書かれている命令や教えを読むときに注意しなければならないことは、それを他人をさばくはかりとして読むのではなく、自分を省みるためのはかりとして用いるべきだということです。

「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(マタイ7:3-5)。

他の人が偽善的であるかどうかをさばくためではなく、自分が偽善的な生き方に陥っていないかどうか、反省してみましょう。すると、どうしても、自分自身の生き方に、偽善的なものがあることを認めざるを得ないのではないでしょうか。

先日、私は他の教会グループの文化祭に呼ばれて、そこで賛美の歌を2曲歌わせていただきました。正直に申し上げれば、私の心の中には「上手だと言ってもらえるだろうか」とか「どんなふうに歌えば、かっこよく見えたり聞こえたりするだろうか」という思いが生じていました。もちろん、そんなことはいけないことだということは、重々分かっています。しかし、どんなに抑えようとしても、自分の心がそちらの方向に傾いていくのです。

(中通りコミュニティ・チャーチではありませんが)教会で熱心に奉仕をしている方から、こんな話を聞きました。その方はこうおっしゃいました。「自分が神さまに用いられたいと願って、一生懸命に奉仕をしてきたのは、実は自分の存在価値を求めてのことだったということに気づきました」と。

私たちは、自分はここにいていい、しかも仕方なく存在が許されているのではなく、ここにいることを喜ばれている、自分はここにいるだけの価値がある大切な存在なのだという確信がないと、生き生きと健康に生きていくことはできません。そうでないということは、ここにいてもらっては困る、いない方がまし、とっとと死んでくれということですから。

それではいやですから、私たちは自分の存在価値を確認したいと思います。そこで、人を感心させて、人から良い評価をもらうことで、自分の価値を確認しようとするのです。人に親切にしたり、何かすごいことをしてほめられたりすることです。

これが過ぎると、イエスさまが指摘なさったような姑息な手段で人にアピールしたり、本当は相手のためにならないのに親切の押し売りをしたりというようなことが起こります。

人目を気にしたり、人の評価を恐れて、神さまや自分を偽るような生き方をしてしまうこと。これが、偽善の根っこにあるものです。そう考えれば、偽善の問題は、人ごとではなくなります。

罪人への福音

偽善は罪です。であれば、人目を気にしたり、人の評価を恐れてしまう私たちは、罪人だということです。さて困りました。これではイエスさまに嫌われ、永遠のさばきを招いてしまいます。

しかし、ここに福音(良い知らせ)があります。それは、神さまは罪人を罪の故にさばき、罰することをなさらないということです。イエスさまが私たちのすべての罪の身代わりとなり、十字架刑を受けてくださいました。それにより、私たちのすべての罪が赦されました。もちろん、純粋に神さまや人を愛することができない、偽善の罪もです。

イエスさまを信じ、罪赦され、神さまの子どもとされた私たちを、神さまはもはや偽善者だとは思っておられません。そして、私たちの捧げる良い行ない、奉仕、礼拝などが、100%純粋で誠実なものでなかったとしても、それを100%純粋な愛として受けいれてくださり、喜んでくださいます。それが私たちの主であるイエスさまであり、天の父なる神さまであり、私たちの内に住んでくださっている聖霊さまなのです。

イエスさまが、パリサイ派の人たちを偽善者として激しく非難なさったのは、彼らが自分たちを悔い改めの必要ない義人だと思い込んでいたからです。自分の罪を自覚していなければ、イエスさまによる罪の赦しも求めませんし、イエスさまのことを愛し、受け入れることもありませんから。

イエスさまは、自分が罪人だということを自覚して悲しんでいる人を、追い打ちをかけるように責めたりはなさいませんでした。罪を自覚して悲しんでいる人に対して、イエスさまは慈しみのまなざしを送ってくださり、慰め、励ましてくださいます。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(5:3-4)。

喜びと愛の故に

イエスさまによる罪の赦しを受け止めると、私たちの心には喜びが生まれ、感謝が生まれます。そして、もっともっと神さまと愛し合いたいと願うようになります。

また、神さまが愛しておられるものも愛したいと願うようになります。神さまは、あなたを愛し、あの人を愛し、この世界、この宇宙を愛しておられます。ですから、イエスさまの赦しを受け止めた私たちは、自分自身を大切にし、他の人を大切にし、自然を大切にしたいと願うようになります。すなわち、私たちの内側から愛が湧き上がってきます。

パウロは言いました。「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」(第1コリント13:3)。その愛は、まず私たちに向けられている神さまの無限大の愛を受け止めるところから始まります。

この話をお読みください

人の目に振り回されない強さを与えてくださいと祈るのはもちろんです。しかし、その強さが与えられるまでは、逆説的な言い方になりますが、大胆に堂々と、偽善者としての奉仕をし、偽善者としての礼拝を捧げ、偽善者としての善行を積み上げましょう。イエスさまはそれを喜んでくださるのですから。

そして、そういうふうに、神さまの赦しを確認し、感謝しながらする善行を、イエスさまは偽善とはお呼びになりません。

まとめ

人目を気にしたり、恐れたり、格好をつけたりする自分を認め、そういう自分をイエスさまが赦し、愛してくださっているのだということを確認しましょう。

そして、今週、あなたはどんな良いことをなさいますか? 他の人に宣伝する必要はありませんから、一人で密かに決断し、実行しましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


Copyright(c) 2017 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.