どの声を勝たせるか

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ルカによる福音書23章13節〜25節

(2017.10.22)

参考資料

「ピラト」(13節)は、ローマ帝国がユダヤに派遣した総督。総督は、ローマ帝国の占領地の中で、特に治安が不安定な地域に遣わされました。

「祭司長」(13節)は、ユダヤの祭司たちの頭である大祭司を補佐する管理職。サンヘドリンという、70人で構成されるユダヤ議会のメンバーでもありました。

「ヘロデ」(15節)は、イエスさまが誕生なさった頃の記事に登場するヘロデ(ヘロデ大王)の息子、ヘロデ・アンテパス。ローマ帝国から、ガリラヤ地方とペレヤ地方の領主として認められていました。

「バラバ」(18節)は、暴動と殺人の罪で収監されていた罪人。ヨハネ18:40によると、「強盗」と呼ばれています。単なる強盗殺人犯ではなく、ローマ帝国からの独立を求めて暴動を起こし、その結果ローマ人の兵士か役人、あるいはローマに協力的なユダヤ人の家に押し入って殺してしまい、ついでに略奪行為も行なったのでしょう。

聖書からのメッセージ

イントロ

今日は、召天者記念礼拝です。W姉が亡くなって5年になります。生前の交流の中で、W姉の生き方を通して学ばせていただいたことのひとつを、今日は皆さんで振り返りたいと思います。

人生は選択の連続です。何の迷いもなく、選んでいるという意識もなく選択できる場合も多いですが、どちらを選んでいいか葛藤することもありますね。W姉もかつてそういう状態に陥って悩まれたことがありましたし、私たちも今まさにそれを経験しているかもしれません。今回は、2つ以上の選択肢の間で揺れ動く、そんな私たちへの神さまからのメッセージです。

1.ピラトの声とユダヤ人の声

ユダヤ指導者たちの訴え

今回の箇所は、イエスさまがユダヤ人の指導者たちによって逮捕され、ローマ総督ピラトの元に引き出されて、裁判を受けている場面です。

ユダヤ人の指導者たちというのは、神殿で働く祭司たちのリーダーである大祭司や祭司長たち、それから民衆を教えていたパリサイ派の律法学者たちでした。彼らは宗教的指導者であると共に、サンヘドリンというユダヤ議会のメンバーであり、政治的なリーダーでもありました。

彼らは、イエスさまを何とか亡き者にしたいと願っていました。それは、イエスさまの存在が、宗教的にも政治的にも精神的にも危険だと判断したためです。
宗教的に危険
イエスさま時代のイスラエルでは、律法学者たちが、旧約聖書に書かれているモーセの律法以外に、たくさんの規則を作り上げていました。そして、それらの規則を全国民が完全に守ることによって、聖書に約束されている救い主がやってきて、イスラエルの敵をすべて滅ぼし、地上に神の国を建設して平和と繁栄をもたらしてくれると民衆に教えていました。それらの規則を、福音書は「言い伝え」と呼んでいます。

やがて、言い伝えは聖書の教えそのものより重視され、かえって聖書の教えがないがしろにされることになりました。そこで、イエスさまは、宗教的指導者たちを激しく非難して、言い伝えを全く無視するような教えや行動をなさいました。

たとえば、律法学者たちの教え、言い伝えによると、安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)に病人を治療してはいけないことになっていました。もちろん、モーセの律法にそんな教えはありませんし、むしろ苦しんでいる人を助けることは、モーセの律法の精神にかなうことです。そこで、イエスさまは、安息日でも平気で病人をいやされました。

また、神殿で働く祭司たちに対しても、イエスさまはしばしば批判的な言動をなさいました。

たとえば、モーセの律法によると、神殿にささげる犠牲の動物は、傷もシミもないものでなければなりませんでした。そこで、人々が動物を神殿に連れてくると、検査官たちが傷やシミがないか調べたのですが、いろいろ難癖をつけ、外から持ち込んだ動物は不適合にしていました。そして、神殿にあらかじめ用意されている動物を飼うしかないシステムにしていたのです。犠牲動物販売のビジネスは大祭司一族が一手に握っていて、彼らを大いに富ませていました。イエスさまは、それを激しく非難して、動物を売っている場所で大暴れをなさったことが2回あります(ヨハネ2:13-22とマタイ21:12-13)。

また、イエスさまは、自分は神殿よりも偉大な存在だとおっしゃいました(マタイ12:6)。

こうしたことから、指導者たちは、イエスさまが救い主とその王国の到来を遅らせ、大祭司を中心とした神殿の秩序を破壊する危険人物だと判断したのです。
政治的に危険
当時のイスラエルはローマ帝国に占領され、その支配下にありました。ローマ帝国は、占領した国が従順であれば、ある程度の自治を認め、宗教的自由も与えました。しかし、自分たちは神の民であるという自負心の強いユダヤ人には、それが我慢できません。

旧約聖書には、やがて救い主(メシヤ、キリスト)が登場することと、その救い主がイスラエルの敵を滅ぼして、平和で繁栄した王国(神の国、天の御国)を建設なさり、ユダヤ人をその王国に招き入れ、聖書の神さまを信じた世界中の人々も統治なさるという預言がたくさんあります。そこで、イエスさまの時代は特に救い主の到来が強く期待されていました。

最初、イスラエルの人々は、イエスさまこそ救い主であり、ローマの支配から自分たちを解放してくださる方だと期待していました。ところが、先ほど述べたように、イスラエルの指導者たちは、イエスさまは救い主ではないと結論づけました。

彼らは考えました。イエスさまが本当の救い主でないのに、人々から王のようにあがめられ、ローマに対して叛乱を起こしたらどうなるでしょう。ローマ帝国による軍事介入を招き、今与えられている自治権まで取り上げられ、下手をしたら国そのものが滅ぼされてしまうかもしれません。

そんなわけで、指導者たちは、イエスさまが政治的にも危険人物だと判断したのです。
精神的に危険
イエスさまは、ユダヤの指導者たちよりも人気がありました。イエスさまも、彼らのことを偽善者呼ばわりし、激しく非難していました。そこで、彼らの指導者としてのプライドが傷つき、イエスさまに対する激しい嫉妬心が生まれました。そこで、イエスさまを取り除こうという思いになったのです。

これらの様々な理由から、指導者たちはイエスさまを殺したいと思いました。ところが、当時のイスラエルは、死刑を行なう権利がローマ帝国に奪われていましたので、ローマから遣わされた総督ピラトに訴えるしかありません。もちろんねたみを訴えの理由にするわけにはいきませんし、宗教的な理由もローマ人であるピラトには通用しません。そこで、勝手にユダヤ人の王であると自称して、ローマ皇帝に反逆を企てたという罪で訴えたのです。

ピラトの主張と指導者たちの反論

ところが、訴えを聞いた総督ピラトは、ユダヤ人指導者たちのもくろみをちゃんと見抜いていました。マタイ27:18にはこう書かれています。「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである」。

ピラトはイエスさまを尋問しますが、とても反逆者には見えませんし、証拠も見つかりません。イエスさまがガリラヤ出身だと知ったピラトは、ちょうどガリラヤ領主ヘロデがエルサレムに来ていることを思い出して、彼の所にイエスさまを送りつけます。厄介払いですね。

ところが、ヘロデもイエスさまの罪を見出すことができず、イエスさまの身柄はピラトの元に送り返されてきました。そこで、仕方なくピラトはユダヤの指導者たちを集め、イエスさまの無罪を宣言し、ムチで懲らしめた上で釈放すると通達しました。

もちろんユダヤの指導者たちは納得しません。民衆を扇動して、激しくイエスさまの死刑を要求しました。そこでピラトは、祭りの時には罪人の一人に恩赦を与える習慣を持ちだして、イエスを釈放すると言いました。その際、暴動と強盗殺人の罪で死刑になることが決まっていたバラバの名前を挙げて、釈放して欲しいのは、バラバか、イエスかユダヤ人たちに尋ねました。

ちなみに「バラバ」とは「アッバスの息子」という意味ですが、本名はイエスだったようです。新共同訳では「バラバ・イエス」と訳しています(マタイ27:16-17)。ということは、ピラトが「釈放するのは、バラバか、イエスか」とユダヤ人たちに尋ねた言葉は、「アッバスの息子イエスの方を釈放するのか、それとも神の子イエスの方を釈放するのか」という意味だったということになりますね。

極悪犯であるバラバとの二者選択だったら、当然イエスの釈放を求めるだろうというピラトのもくろみでしたが、ユダヤ人たちは「バラバを釈放しろ」と言います。

さらに、彼らは奥の手を使って、ピラトにイエスさまの死刑執行を迫ります。彼らは「もし、王であると主張して皇帝に反逆しているイエスを死刑にしないなら、あなたも皇帝の敵になる。我々、皇帝にあなたのことをチクっちゃうけど、いい?」と、ピラトを脅したのです(ヨハネ19:12)。

対立の結末

23節にはこう書かれています。「そしてついにその声が勝った」。「この人は無罪だから釈放する」というピラトの声に、「この人を死刑にしろ」という指導者や民衆の声が勝ったのです。

ついにピラトは、イエスさまを反逆者として死刑にすることを認めてしまいました。

2.頭の中の声

思考と言葉

私たちの頭の中にも、様々な声が響いています。私たちが考えるときには、様々なイメージも利用されますが、たとえば「おなかがすいたなあ」と思ったとき、私たちはまさに「おなかがすいたなあ」と頭の中でつぶやいているのです。こういう頭の中の言葉を「内言」と言います。

ちなみに、私たちの感情は、頭の中に響く言葉、内言の影響を強く受けます。たとえば、「お父さん(お母さん)のバカ!」と子どもに言われたとします。そのとき、
  • 「年少者から馬鹿にされた」と頭の中でつぶやけば(すなわち、そう考えれば)、腹が立つでしょう。
  • 「愛する子どもに嫌われた」とつぶやけば、悲しくなるでしょう。
  • 「こんな汚い言葉を使うなんて、将来ろくな人間にならない」とつぶやけば、心配になるでしょう。
  • 「子どもを怒らせるなんて、自分はひどい親だ」とつぶやけば、罪責感で一杯になるでしょう。
  • 「こうしてしっかり自己主張できるなんて、この子もずいぶん成長したなあ」とつぶやけば、頼もしい気持ちになるでしょう。
さらに、私たちの行動は、私たちの考えや気持ちの影響を受けます。ですから、私たちの思考、感情、行動は、私たちが頭の中でどんな言葉をつぶやくかにかかっていると言ってもいいでしょう。

そして、私たち人間は、とても複雑にできています。ですから、相矛盾するような考えや感情を同時に持つことがあります。好きだけど嫌い、やりたいけどやりたくない、もうあきらめてしまおうという思いと最後まで続けなくちゃという思い、というふうに。

ということは、私たちの頭の中に、複数の言葉が同時に鳴り響いているということです。まるで、総督官邸の中で、ピラトの声とユダヤ人指導者たちの声が同時に響き渡っているようなものです。

複数の選択肢の間で葛藤するというのは、まさにこの状態です。「Aがいい」という声と、「Bがいい」という声が同時に頭の中に響いています。

また、罪に誘惑されている状態もこれと同じです。「これ、やっちゃいなよ」という声と、「そんなことはできない。正しいことをしなさい」という声が、同時に響いているのです。

あなたは最近、葛藤したり罪の誘惑を感じたりした経験がありますか? そのときのあなたの頭の中には、いったいどんな言葉が響いていたのでしょうか。あらためて思い起こしてみてください。

内言の選択権

イエスさまの裁判は、紛糾しましたが終わりました。私たちの葛藤も誘惑も、いつかは終わります。そのとき、正しい選択を促す声が勝つか、間違った選択をうながす声が勝つかは、どうやって決まるのでしょうか。

イエスさまの裁判では、ピラトが裁判官だったのですから、「釈放する」という声と、「死刑にせよ」という声のどちらを勝たせるかは、最後までピラトに選択権がありました。同様に、私たちが葛藤したり、誘惑を受けたりしたとき、どちらの声を勝たせるかは、私たちに選択権があります。

では、どのような基準でどちらの声を選んだらいいのでしょう。ピラトには、法律という判断のよりどころがありました。法的には、イエスさまの無罪は明らかであり、ピラトもそれを十分知っていました。本来なら、法律という基準に従って、「釈放する」という声を勝たせなければなりませんでした。

私たちにも基準が与えられています。それは神さまの語られた言葉です。神さまの言葉は、聖書の中に記されていますから、聖書を読むことによって、私たちは神さまが定めた基準を知ることができます。

頭の中に様々な声が響いているときは、それについて判断できるような聖書の言葉を思い起こし、その言葉を自分自身に向かって投げかけ、何度も何度も反芻しましょう。状況的に可能であれば、声に出してつぶやきましょう。すると、目からだけでなく、耳からもみことばが入ってきて、より強力に心に響いてきます。

聖書は言います。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」(ヘブル4:12)。ですから、聖書の言葉をしっかり蓄え、反芻するとき、聖書の言葉が私たちをあるべき方向に導き、造り変えます。

W姉が亡くなる少し前、所有していた信仰に関する書物やテキストを一時預かって欲しいと、大きな箱に入れて持ってこられたことがあります。中を見ていいということでしたから、いくつか拝見しましたが、結構専門的な内容のテキストもあり、聖書をよく学んでおられることが分かりました。悩んだり、迷ったりしたとき、聖書の言葉によって導かれ、慰められ、力づけられたいと強く願っておられたのです。

イエスの声

聖書は神さまの言葉です。しかし、今回の裁判の場に、人となられた神、イエスさまの声は全く響きませんでした。イエスさまは、沈黙を守っておられたのです。そして、その日のうちに十字架につけられました。

ユダヤの指導者たちは、イエスさまを邪魔者扱いし、十字架につけて殺そうとました。しかし、聖書は、イエスさまが自らすすんで十字架につけられたと教えています。イエスさまはおっしゃいました。「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです」(ヨハネ10:18)。

裁判の席では沈黙しておられたイエスさまですが、十字架の上では口を開かれました。自分を十字架につけ、あざけっている指導者たちや民衆を見下ろして、イエスさまはこう祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(34節)。

イエスさまが自らすすんで命をささげたのはなぜでしょうか。それは、私やあなたの罪を赦し、神の子どもとし、永遠に続く祝福を受けることができるようにするためです。神さまは、心からあなたを愛しておられます。イエスさまは、文字通り命をかけてあなたへの愛を表されました。

それほどまでに愛に満ちた神さまが、あなたを決して間違った方向、不幸な方向に導くはずがありません。私たちは、神さまのみことばを、もっともっと慕い求めましょう。W姉がそうであったように。

まとめ

葛藤したり、誘惑を感じたりしたときは、頭の中に2つ以上の言葉が響いているということを自覚した上で、神さまのことばである聖書の言葉を思い起こし、それを何度も口ずさみましょう。

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