自由な主の祈り

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マタイによる福音書6章7節〜13節

(2017.10.29)

参考資料

7節の「異邦人」とは、ユダヤ人以外の民族のことです。

聖書からのメッセージ

イントロ

信仰生活において、聖書に記されている神さまのみことばは、霊の食べ物にたとえられています(第1ペテロ2:2など)。ですから、定期的に聖書を読み、心に蓄え、それを実践しながら学ぶことは、クリスチャンとして生きていく上で大切なことです。

そして、祈りは霊の呼吸にたとえられることがあります。祈りもまた、私たちがクリスチャンとして生き生きとした人生を送る上で、不可欠なものです。

前々回の礼拝メッセージでは、偽善について学びましたが、その際祈りについても触れました(5-6節)。偽善者たちは、人に見られ、ほめられるために、わざわざ人前で仰々しく祈ろうとしましたが、そういう祈りはダメだとイエスさまはおっしゃいました。

では、今回の箇所では、イエスさまは祈りについて何を教えてくださっているのでしょうか。

1.してはいけない祈り

異邦人のような祈り

偽善者のような祈りについての警告に続いて、イエスさまは異邦人のような祈りも避けるように命じておられます。それは、「同じことばを、ただくり返す祈り」です。イエスさまは、「彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」とおっしゃいました(7節)

同じ言葉をただ繰り返すだけの祈りというと、日本人にはおなじみかもしれません。「南無阿弥陀仏」とか「何妙法蓮華経」とか繰り返し唱える念仏や勤行ですね。たまたまネットを見ていたら、「般若心経を1万回唱えたら、願いがかなう」というような記事を見つけました。

キリスト教でも、何度も「イエスさま!」と叫びなさいとか、「ハレルヤ!」と唱えなさいというような教えを聞いたことがありますが、これなどもイエスさまに、「それは同じ言葉を繰り返すだけの祈りだね」と言われてしまうかもしれません。

では、イエスさまが同じ言葉を繰り返すだけの祈りを禁じた理由は何でしょうか。続く8節にこう書かれています。「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」。ここから2つの理由を知ることができます。

神は人格的存在だから

イエスさまは、天地をお造りになった唯一まことの神さまのことを、ご自分でも「父」と呼ばれただけでなく、「あなたがたの父」ともお呼びになりました。聖書の神さまは、エネルギーの塊とか宇宙の法則とかいうような非人格的な存在ではなく、私たちと同じように理性・感情・意思をお持ちの人格的存在です。というより、聖書によれば、私たち人間の方が神さまに似せて造られたので、人格的な存在となったのです(創世記1:26-27)。

ですから、聖書が教える祈りとは、神さまと私たちとの人格的な交流、すなわち対話です。

ちょっと想像してみてください。私があなたとお話ししたいとします。そのとき私が最初に「○○さん、○○さん」と2回ほど呼びかけることはあり得るでしょう、また、会話の途中で「○○さん、○○さん」と言うことも大いにあり得ます。

しかし、「○○さん、○○さん、○○さん、○○さん、○○さん……」と、百回連続で呼ばれたらどうですか? あるいは、「これやって。これやって。これやって。これやって……」と何度も同じ言葉で何かを要求され続けたら……。いよいよ増田もおかしくなってしまったかと思うか、馬鹿にしてるのかと思うかなさるのではないでしょうか。

会話の途中で何度も何度も連続して名前を呼んだり、同じ言葉を唱え続けたりするなどということは、普通はあり得ません。そんなことをするのは、気絶している相手の目を覚まさせるためくらいでしょう。もちろん、神さまは気絶なさることはありませんし、いつでもどこででも私たちの語りかけに耳を傾けてくださいます。

神はすべてご存じだから

そして、イエスさまは、父なる神さまは、私たちが祈る前から私たちの願いを知っておられるとおっしゃいました。ですから、何度も同じ言葉で呼びかける必要はありません。わざわざ大声で怒鳴る必要もないし、変な声色を使う必要もありません。わざわざ自分の体を痛めつけるような真似をする必要もないし、長時間同じ格好で座り続ける必要もありません。
エリヤの祈り
旧約聖書にこんな記事が載っています。イスラエルの北王国をアハブという王が治めていた時代の話です。アハブは外国からめとった王妃イゼベルの影響で、唯一まことの神さまへの信仰を捨てて、バアルやアシェラといった異教の神々を礼拝するようになりました。そればかりか、全国民にも異教礼拝を強制し、まことの信仰者たちを迫害して次々と殺していきました。

これに対して、神さまは北王国に3年間雨を降らせないというさばきを降して、悔い改めを迫られました。バアルやアシェラは豊作をもたらすと信じられていた神々ですから、これは大変な皮肉なのです。ところが、王も国民も悔い改めようとしません。

そこで、まことの神さまに仕える預言者エリヤは、異教の神々に仕える預言者たち850人と、雨乞い合戦を行ない、どちらの信じる神が本物か証明することにしました。まず異教の預言者たちがバアルやアシェラに犠牲をささげ、祈り始めました。そのときの場面を、聖書はこう記しています。

「そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。
真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」
彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった」(第1列王記18:26〜29)。


次にエリヤが祈ることになりました。彼は、異教の預言者たちのように大声を張り上げたり、踊ったり、身を傷つけたりせず、ただ単純にこう祈りました。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、【主】よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行ったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。【主】よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、【主】よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください」(第1列王記18:36-37)。すると、天から火が降ってきて、祭壇の捧げ物を焼き尽くしました。そして、その後大雨が降ったのでした。

なぜ祈るのか

では、神さまが私たちの父であり、祈る前から私たちの願いをご存じなのであれば、どうして聖書は祈るように勧めているのでしょうか。それは、神さまは子どもである私たちと人格的な交流がしたいと願っておられるからです。

そして、子どもである私たちも、父である神さまに自分の気持ちや考えを聞いてもらい、神さまの語りかけに耳を傾ける時間を持つことによって、慰められたり、励まされたり、教えられたりして、人格的に強められ成長することができます。父なる神さまは、子である私たちの成長を心から願っておられます。

本来の祈りは、私たちを愛してやまない天の父なる神さまとの人格的な交わりです。しかし、同じ言葉を繰り返すだけの祈りは、人格的な交わりが目的ではなく、自分の願望をかなえることが目的になってしまっています。

祈りは、私たちの願望をかなえるための呪文ではありません。呪文的な祈りは、神さまを人格的存在としてではなく、自動販売機のように扱うことです。愛する子どもからそんな扱いを受ければ、父である神さまは傷つき、悲しまれます。ですから、そんな祈りをしてはいけないとイエスさまはおっしゃいました。

そして、イエスさまは、私たちへの祈りの模範として、いわゆる「主の祈り」を教えてくださいました。ただ、この祈りの文言を暗記して、ただ唱えるだけなら、やっぱり「同じ言葉を繰り返すだけの祈り」になってしまうでしょう。マルチン・ルターは言いました。「最大の殉教者。それは、早口で無造作に唱えられる主の祈りだ」。

主の祈りを暗記したり、それを唱えたりすることは素晴らしいことです。しかし、これらの言葉通りに祈ることが大事なのではなく、これらの言葉によってイエスさまが教えようとしておられる祈りの心、祈りの要素を理解して、それを自分の言葉で表現することです。

というわけで、後半は「主の祈り」が教える、祈りの要素を見ていきましょう。

2.自由な祈りの要素

(1) 呼びかける

「天にいます私たちの父よ」(9節)。

まず、父なる神さまに呼びかけます。私たちの幸せのカギを握っているのは、お金ではありません。健康でもありません。社会的な成功でもありません。立派な家でも、結婚でも、出産でも、友情でも、充実した仕事でもありません。それらはもちろん大切なものですが、私たちを最終的に支え、本当の幸せへと導くのは、私たちを愛してくださっている、天の父なる神さまです。神さまへの呼びかけとは、そのことをしっかりと確認するということです。

(2) 賛美する

「御名があがめられますように」(9節)。

父なる神さまの素晴らしさをほめたたえます。私たちを愛する子どもと呼んでくださるお方が、いかに愛にあふれ、力にあふれ、きよさにあふれておられるか。神さまの素晴らしさを知れば知るほど、私たちは勇気づけられ、困難に立ち向かっていく力を与えられます。

(3) 神の完全な支配を求める

「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」(10節)。

御国とは、天の御国とか、神の国とも呼ばれていますが、救い主イエスさまが再臨なさった後、この地上に実現する理想的な王国のことです。エデンの園がそうであったように、御国では人と人が傷つけ合ったり、人が自然を、あるいは自然が人を傷つけたりすることもなく、平和で楽しく幸せな日々を送ることができます。なぜなら、神さまのみこころが完全に行なわれる世界だからです。

今はサタンや悪霊が存在し、人々を罪に誘って、神さまに逆らわせようとします。人間の罪の心もすぐその誘惑に反応してしまいます。私たちクリスチャンでも、知らず知らずのうちに、あるいは悪いと分かっていて、罪を犯してしまいます。

ですから、神さまのみこころを知って、それに忠実に従いたいという思いが、全世界に広がりますようにと私たちは祈らなければなりません。特に、「この私が神さまのみこころを喜び、従うことができますように」と。これは神さまに対する願いであると共に、「あなたのみこころを熱心に学び、熱心に従います」という積極的な決意表明でもあります。

(4) 日々の必要を求める

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」(11節)。

糧というのは食べ物のことですが、もちろん食べ物以外のものを求めてはいけないということではありません。私たちにとって必要なものすべてです。

何を願うにしても、大切なことは、先にイエスさまが述べたように、父なる神さまは私たちが願う前からそれをご存じだということです。そして、私たちのことを父として深く愛しておられるということです。たとえ私たちが願ったとおりのことが起こらなかったとしても、神さまは最高のものを最高のタイミングでくださいます。ですから、逆に安心して何でも祈り求めましょう。

また、イエスさまがサタンの誘惑に遭ったときの、反論の言葉を思い出しましょう。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(4:4)。私たちを生かす大切な糧のひとつは、神さまのみことばです。

特に「日ごとの」という言葉に注目しましょう。聖書を週に1回礼拝式で学べば十分ということではないし、一度強烈に聖霊に満たされる体験をしたから、あとは聖書を読まなくてもOKというものでもありません。毎日、「今日私に必要なみことばを与えてください」と祈りながら聖書を開き、「今日の糧」をいただきましょう。

(5) 悔い改める

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」(12節)。

聖書の神さまは赦しの神です。私たちは罪の性質を持って生まれた罪人であり、クリスチャンであっても罪を犯してしまいます。しかし、神さまは私たちを罰して滅ぼすことを願わず、すべての罪、すべての不完全さ、すべての不純なものを赦してくださいました。

しかし、罪人に罰を与えないで赦すのでは、神さまの正義が成り立ちません。そこで、イエスキリストが、本来私たちに与えられるはずの罪の罰をお一人で受けてくださいました。それが十字架の死です。罰は完了したので、私たちに降されることは決して無くなりました。そして、イエスさまは3日目に復活し、今は父なる神さまの隣で、私たちが赦され、それどころか大いに祝福されるようとりなしてくださっています。

自分がどれだけ大きな罪を赦されたか、そのために父なる神さまとイエスさまがどんなに大きな犠牲を払ってくださったか、すなわちどれほど自分が父なる神さまとイエスさまに愛されているかを知れば知るほど、私たちは他の人に対して寛容になれます。

罪を自覚したら、すぐに悔い改め、赦しを求めましょう。そして、神さまの愛を確認しましょう。

(6) 守りを願う

「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」(13節)。

私たちは、どうせ赦されるのだから、安心していい加減な生活をしようなどというのは嫌です。私たちは弱いですが、それでも神さまのことを愛しているからです。罪は神さまを悲しませます。そこで、私たちが誘惑に遭わないように、誘惑されても引っかからないように、神さまの守りを求めます。聖霊なる神さまがいつも私たちを満たし、きよめてくださいますように。

(7) 頌栄

最後の「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」という部分(頌栄)は、元々の原文にはないと考えられています。公の礼拝式の中で主の祈りが唱えられるうちに、神さまをほめたたえる思いがあふれて、当時の信徒たちが付け加えたものでしょう。

私たちの生きる目的は、私たちの栄光ではありません。神さまの栄光、素晴らしさが、自分にも周りの人にもますますはっきりと分かるようになることです。

まとめ

今回は「主の祈り」を学びました。主の祈りの文章をそのまま唱えることが大切なのではなく、この文章の中に示されている祈りの要素を織り交ぜながら、自分の言葉で祈ることが大切です。私たちの祈りが、もっともっと豊かになりますように。

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