さばいてはいけません

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マタイによる福音書7章1節〜12節

(2017.11.5)

参考資料

今回の箇所も、いわゆる「山上の説教(山上の垂訓)」の一部です。山上の説教では、旧約聖書の「モーセの律法」について、救い主であるイエスさまが、ユダヤの宗教的指導者であったパリサイ人たちの解釈と比較しながら解説しておられます。

「律法であり預言者です」(12節)とは、旧約聖書のことを指しています。この時代、まだ新約聖書は書かれていません。

聖書からのメッセージ

イントロ

イエスさまは、他の人をさばいてはいけないとおっしゃいました。これは、裁判官や警察官、あるいは裁判員になってはいけないという意味では、もちろんありません。また、神さまが喜ばれない生き方をしている人に対しては、その間違いを指摘して、正しい生き方をするよう勧めなさいとも教えられています(第1コリント6:2、第2テモテ4:2など)。

ここで、イエスさまがおっしゃっているのは、ダブルスタンダード(2つの基準)で人をさばくなということです。それは、どういうことでしょうか。そして、なぜいけないのでしょうか。

1.ダブルスタンダードはやめよう

2つの物差し

3-5節に注目しましょう。「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」。

梁のような大きなものが目に入るはずがありません。これはイエスさまお得意の誇張表現です。私たち人間は、他の人の些細な悪には敏感なのに、自分の中にある悪については、案外と無頓着なものです。そんな私たちの性質を、滑稽に表現しているのです。

当時のユダヤの人々には、生活の指針として「モーセの律法」が神さまから与えられていました。マタイ5〜7章の、いわゆる山上の説教(山上の垂訓)では、ユダヤの宗教的指導者たちの律法解釈に対して、救い主であるイエスさまが正しい解釈を教えておられます。その中で、イエスさまはしばしば指導者たちを偽善者と呼んで、彼らのような生き方をしてはいけないと、人々に警告しておられます。

ここでも、イエスさまは偽善的な人の特徴を挙げておられます。それは、他の人をさばく物差しと、自分をさばく物差しの2種類があって、その2つの物差しの目盛りが大きく異なるということです。すなわち、他人には厳しく、自分は甘く評価してしまいます。家族が茶碗を割ると「何をやっているんだ。注意が散漫なんだ」と思うけれど、自分が割ったときには「あら、すべっちゃった」とか「形あるものは皆壊れる」とか……。

時間とエネルギーの無駄

そして、犬や豚に良いものを与えても、彼らはそれをありがたく受け取るどころか、あなたに危害を加えることでしょうとイエスさまはおっしゃいます(6節)。

それと同様に、あなたが他の人の過ちを責めても、その人たちはあなたの指摘を受け取るどころか、逆恨みをして、あなたにひどいことをするかもしれません。言っても、時間とエネルギーの無駄だからやめなさいというわけです。

では、問題行動をしている人に、一切何も言ってはいけないのでしょうか。パウロの手紙を読むと、相当きついことを言って、他の人の問題行動を指摘している箇所があります。旧約聖書の預言者たちも、時に他の人の悪を厳しく弾劾しました。当のイエスさまだって、ユダヤの指導者たちを激しく責めているではありませんか。

6節は、相手が問題行動をしても、言っても無駄だから一切関わるなということを意味しているわけではありません。その意味するところは、「相手を犬や豚のように見下げる心があるうちは、相手を責めてはいけない」ということです。

日本では、犬や豚をペットとしてかわいがっていらっしゃる方も多いですが、この箇所は、犬とか豚とかいう言葉を、明らかに良い意味では使っていません。特にイスラエルでは、豚は汚れた動物として忌み嫌われていましたし、犬というのは、まことの神さまを信じていない偶像礼拝者などを指す言葉でした。そんなふうに、相手を見下げているなら、責めてはいけないというのです。

イエスさまに偽善者と呼ばれた指導者たちは、民衆をそのように見下げ、自分たちは立派だと思い上がっていました。そして、「聖くて立派な私たちが、愚かで汚れたあなたたちをまともにしてやる」というような上から目線の調子で教えていたのです。

あなたは、他の誰かにこんなふうに言われたらいかがでしょうか。「私はあなたが大嫌いだ。まるで犬畜生のようなろくでもない奴だ。だから、世のため人のために、こんなふうに性格を改めたらどうだ」。そんなことを言われて、素直に聞けますか? 当然反発なさるのではないでしょうか。忠告を「足で踏みにじり、向き直って相手を引き裂く」、そんな気持ちになるでしょうね。

だから、そんなことをしてはいけないよとイエスさまはおっしゃっているのです。

逆のケース

さて、今お話ししたのとは逆のダブルスタンダードもあります。うつ病の人とか、落ち込みやすい人というのは、自分を量るはかりが、他の人を量るはかりよりも非常に厳しいでしょう。そのために、必要以上に自分を責めてしまったり、自分の人生を肯定できなかったりします。

しかし、他人よりも劣っている自分を卑下して責めるのも、他人を上から目線で責めるのと同じくらい傲慢です。なぜなら、自分の罪深さを本当には認めず、「本来の自分は、こんなはずじゃない」と思っているからです。

そして、自分を責めているうちは、私たちは前に進んでいくことができません。自分がどんなに不都合な性格であり、不都合な環境にいるとしても、その自分が自分です。この自分として何ができるか考え、実践して初めて、私たちは成長し、目の前の課題を取り除き、さらに神さまの栄光を現すような生き方ができます。

私の計算の実力が小学校3年生レベルだとしましょう。ならば、小学校4年生レベルの問題が解けないのは当たり前です。自分を責めて落ち込んでいる暇があるなら、こつこつと自分のレベルにあった勉強をすべきですね。ダブルスタンダードで自分を責めないというのは、それと同じことです。

私たちは、自分を量るはかりと他人を量るはかりを別のものにしてはいけません。それは、自分や他人を傷つけることですし、人生において時間やエネルギーを大いに無駄にすることになります。では、どうしたらいいでしょうか。

2.シングルダブルスタンダードで生きよう

戦友同士

イエスさまは、自分を量るはかりと他人を量るはかりは同じでなければならないとおっしゃいました「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られる」(2節)。

そして、まず自分を省みてごらんとイエスさまはおっしゃいます。自分の中にも悪があり、不完全なところがあると認めなさいと。そうすると、何か自分の方が相手よりも高いところにいるかのような、自分が相手よりも人間として上等であるかのような言い方で、責めることはできなくなるはずです。

それどころか、自分も相手も、自分の中の悪、不完全さ、罪と必死に戦い、聖められようと奮闘努力している発展途上人なんだと思えるようになり、相手のことを戦友やチームメイトのように身近に感じ始めます。すなわち、共に助け合い、励まし合いながら、同じ戦いを戦い抜く仲間です。

だから、仮に相手の好ましくない行動や態度を指摘し、改めるよう勧めなければならないとしても、相手の尊厳を傷つけ、その反対に自分は聖くて正しいのだということを証明するためでなく、あくまでも相手を励ますため、相手を助けるためという態度を貫くことができるようになるでしょう。

パウロもこう勧めています。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」(ガラテヤ6:1)。

そうするなら、イエスさまがおっしゃるとおり「はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(6節)。

黄金律とキリストの律法

12節は黄金律(ゴールデンルール)と呼ばれています。それによれば、神の民は、自分が他の人からしてもらいたいことを実践するように勧められています。これは、旧約時代のユダヤ人に与えられたモーセの律法の要約です。

別の箇所でも、イエスさまはモーセの律法を2つの命令に要約しておられますが、その1つは黄金律と同じです。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』。これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」(マタイ22:37-40)。

あなたはどうでしょうか。「お前なんかダメだ。だって〜だし、〜だし、〜だから」というふうに見下げられたり、罵倒されたりしたいでしょうか? むしろ、努力しているところを認められたり、ほめられたり、励まされたりしながら、「ここをこんなふうに修正したら、もっと良くなる」というような指摘をされたいのではないでしょうか? だったら、他の人にもそうしなさいとイエスさまはおっしゃいます。

そして、今の時代の私たちに与えられているキリストの律法では、さらに高度な命令が与えられています。それは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネ15:12)。

では、イエスさまは私たちをどのように愛してくださったでしょうか。私たちを、どのような目でご覧になり、接してくださっているでしょうか。

十字架によってすべての罪、すべての不完全さを赦された私たちは、神さまの目には、もはや豚や犬のような汚れた存在ではなく、すばらしい神の子です。自分で言うと、なんとも図々しくて面はゆいですが、聖書がそう教えています。ですから、私たちは堂々とそう信じていいし、主張していいのです。

生まれたばかりの赤ちゃんは、大人ができるようなことはほとんど何もできません。しかし、成長の可能性に満ちていますね。私たちも、神さまの目には、素晴らしい可能性に満ちた宝の山です。

宝探しの人生

これまでの日本の教育というのは、ダメなところ、足りない所を見つけて、それを矯正するというやり方がメインでした。それ自体は、非常に効率がいいので、悪いやり方ではないのですが、こういうやり方ばかりで育っているものですから、私たち日本人は、人や物事の悪い面、直さなければならない面に、ことさら注目する癖が付いてしまっています。

そうすると、口から出る言葉は、相手をさばく言葉になってしまうでしょう。また、自分も相手の言動にいちいちイライラすることになってしまいます。

悪いところを直すやり方は、もう十分訓練を受けてきましたから、神さまに新しいやり方も教えていただき、それを身につけさせていただきましょう。すなわち、他の人や自分の中のあら探しはやめて、むしろ良いところ探し、宝探しを私たちの日常にしましょう。意識して、他の人や自分の良いところを探しましょう。そして、それを相手に伝え、自分自身に宣言しましょう。

この話をお読みください

天の父なる神さまが、私たちのことをあくまでも祝福し続けてくださるように、その神さまの子どもである私たちの内側からも、他の人に対して、呪いではなく祝福の言葉があふれ出ますように。

まとめ

ダブルスタンダードで人や自分をさばいてはいけないとイエスさまはおっしゃいました。それは、私たちが幸せに生きるための知恵です。

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