私の中の宝

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(2012.8.19)

先日、ある方(Aさんということにしておきましょう)から久しぶりにお便りをいただきました。Aさんはかつてある問題に悩んでおられ、私がカウンセリングさせていただいた方です。カウンセリングでは、相手の方の承諾を得て面談場面を録音し、ご本人にもコピーを差し上げることがありますが、Aさんは6年半ぶりにその時の音声を聴き直されたのだそうです。そして改めて感謝状を送ってきてくださったのでした。

そのお便りの中で、音声を聴き直して特に感動した点について書いていらっしゃったのが、自分では切り捨てたいような問題のことを、私が「宝」と呼んだことでした。

私は、聖書を読み、また日々イエス・キリストと交わる中で、次のように確信しています。どんな問題であれ、それは私たちをダメにするものではなく、私たちの人生がさらにすばらしいものになるための祝福の基だということです。だから、カウンセリングの中でもそういうふうに発言したわけです。

私としては特に「宝」という言葉によってAさんを励まそうなどという狙いがあったわけではありません。たとえそういう意図があったとしても、私の言葉自体が人を励ましたり生かしたりするわけではありません。

Aさんが「宝」という言葉に強く反応なさったのは、すでにその時、たとえご本人は自覚していなくても、Aさんの中に問題を祝福に変える力と希望が満ちていたからだろうと思います。また、今回改めてこの言葉に感動なさったのは、この6年半の期間が、実際にその宝を次々と発見なさる旅路だったからに違いありません。そういう力強いいのちの輝きもまた、神さまがAさんに与えてくださった宝の一つです。

今回、このお便りを読みながら、私の方が「ありがとう」と言いたい気持ちになりました。私の中にも神さまがくださった宝物が満ちあふれていることに、改めて気づかせていただいたからです。そして、この記事をご覧のあなたの中にも、神さまの宝が満ちあふれています。

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