自由を得るために

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ガラテヤ人への手紙5章1〜2節

(2009.3.15)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

私たちは、様々な変なこだわりから解放されて、状況に応じた自由な生き方をすることができるようになります。

1.律法に縛られていることに気づこう

ユダヤの律法

ユダヤ人(イスラエル人)は、旧約聖書に書かれている律法や、その後に付け加えられた様々な言い伝えの戒律によって、食べていいものや、安息日に歩ける距離、礼拝の仕方など、事細かに生活が縛られていました。

そして、この律法を守らなければ、神さまに愛されず、祝福もされないと考えられていました。すなわち、律法を守らなければ、幸せになれないのです。

心の中の掟

ガラテヤに住む人の多くは、ユダヤ人ではありませんでした。そして、このサイトを読んでいるほとんどの人も、ユダヤ人ではないでしょう。ですから、元々律法に縛られていたわけではありません。

しかし、そんな異邦人(ユダヤ人以外の民族)でも、心の中に「律法」があって、生き方を縛り、不自由にしています。

たとえば、人からものを頼まれたとき、本当は余裕がなかったり、能力的に実行する自身が無くて断れなくても、反射的に「はい」と引き受けてしまう人がいます。その結果、くたくたに疲れて後悔したり、案の定やり切れずにかえって相手に迷惑をかけたりします。これは不自由な生活ですね。そういう人の心の中には、「人から依頼されたことに対して、絶対に断ってはいけない」という律法が刻みつけられているようです。

また、本当はさびしくて、グループに入りたいのに、グループの中に入れず、ひとりぼっちになってしまいがちな人もいるでしょう。そういう人は「お前なんか受け入れてくれる人がいるはずないから、仲間に入ろうとしてはいけない」という律法が、心に刻みつけられているのかも知れません。

他にも「自己主張するな」「人に頼るな」「自分でするな」「計画を立てても実行するな」「人を信用するな」「成功するな」「自分を大切にするな」など、様々な変なおきてを、心の奥底に持っている人たちがたくさんいます。

あなたはいかがですか? 状況に応じて、自由に感情や行動を選ぶことができますか? それとも、ついつい不自由ない着方を選択してはいませんか? だとしたら、どんな「律法」が心の中に刻みつけられているのでしょうか。まずは、それに気づくことが大切です。

サバイバル戦略

このような、心の中の律法は、どうやって私たちの心の中に刻みつけられたのでしょうか。心の中の律法は、小さいときから、家庭や地域、学校などの社会で、他の人たちとの関わりの中で、できるだけ傷つかないように、またできるだけ生き延びられるようにと身につけてきた処世訓です。

たとえば、親に口答えするとひどく殴られるような家庭に育ったとしましょう。その家庭の中で、その子ができるだけ傷つかず、生き延びられるためには、たとえ自分が悪くない場合でも一切の口答えをしないという生き方を選択しなければならなかったかも知れません。その子は、「自己主張するな」と自分を戒め続け、それが習い性になり、性格の一部になり、大人になってもそういう生き方を続けてしまうかも知れません。

小さいときに、周りの人に裏切られ続けたとしたらどうでしょう。その子は、できるだけ傷つかないために、最初から人に期待しないという生き方を身につけるかも知れません。そして「人を信用するな。人に期待するな」という律法を、心に刻みつけ、大人になってもその律法に従い続けるのです。

サバイバル戦略は、子どもの頃に小さな頭で考えた処世訓です。ですから、場合によっては論理的でなかったり、事実に反したりするかも知れません。すると、その家庭や学校では通用しても、一般の社会では通用しないような処世訓である場合も多いでしょう。ですから、一般の社会ではかえって行きづらくなってしまうのです。

2.新しい掟を学ぼう

イエスさまの十字架

ガラテヤ人の手紙は、人は律法を守ることによって救われる(神さまに愛され、祝福され、永遠に幸せになれる)のではなく、イエスさまによって、そのあるがままの姿で救われるのだということを教えています。

イエスさまは、私たちの罪(律法を守りきれないこと、神さまのみこころ通りに完璧に生きられないこと)の罰を身代わりに負ってくださいました。これが十字架の死です。ですから、もはや私たちへの罪の罰は完了しています。神さまは、私たちがそのままで(律法を完璧に守れなくても)赦し、愛し、祝福してくださいます。これが福音(良い知らせ)です。

そして、この福音を信じるだけで、神さまの救い、赦し、祝福は私たちのものになります。ここで申し上げている「新しい掟」とは、「イエスさまの十字架を信じなさい。そのままで神さまに愛され、祝福されていることを信じなさい」ということです。

古い掟からの解放

新しい掟を受け入れるとき、私たちは古い掟から解放されます。

私たちは、「あるがままの私では、生きていくことができない」と思い、様々な「律法」を心の中に刻みつけ、それに縛られて生きてきました。

しかし、今や、私たちは神さまに愛され、神さまの子どもにしていただきました。神さまの守りがあります。ですから、心の中の変な「律法」に縛られなくても大丈夫なのです。

許可しよう

そこで、心の中の律法を解除するために、自分自身に「許可」を与えてあげましょう。

たとえば、「自己主張するな」と思いこんでいるなら、「自分の気持ちや考えを語ってもいいんだよ」と。「人に頼るな。すべて自分一人でやれ」と思いこんでいるなら、「場合によっては、人にお願いしてもいいんだよ」と。「仲間入りするな」と思いこんでいるなら、「仲間に入ってもいいんだよ」と。

3.新しい生き方を練習しよう

ガラテヤ人と割礼

当時のユダヤ人の教えによれば、異邦人が救われるためには、割礼を受けなければならないことになっていました。しかし、イエスさまの十字架によって、異邦人はそのままで(すなわち、割礼を受けなくても)救われることになりました。

ところが、後に「ユダヤ主義」と呼ばれる異端的な教えが、教会の中に広がり始めました。異邦人のクリスチャンも割礼を受け、ユダヤの律法を守って生活しなければ救われないというのです。ガラテヤ人の手紙は、ユダヤ主義に反対し、信仰による一方的な救いを解いています。

そしてパウロは、信仰による救いを信じるなら、割礼を受けないようにしなさいと勧めました。場合によっては、ユダヤ主義に毒された人たちから、割礼を受けろと強いプレッシャーを加えられることもあるでしょう。それでも、割礼を受けないまま生きていきなさいと。

許可に基づく新しい行動

あなたは、どんな「律法」を心に刻みつけ、それに縛られて生きてきましたか? そして、イエスさまの十字架によって、どんな許可を自分に与えてあげましたか?

許可を与えたら、今度はそれに基づいて、新しく行動しましょう。

たとえば、「頼まれごとを断ってはいけない」という律法に対して、「頼まれごとを断ってもいいんだよ」と許可したら、実際に頼まれごとに「申し訳ないんですが、これこれの理由でできません」と断ってみるのです。

「人に弱さを見せてはいけない」という律法に対して、「弱さを見せてもいいんだよ」と許可したなら、信頼できそうな人に、自分の弱さを告白してみるのです。

練習しよう

許可は、一回与えれば済むことではありません。古い生き方は、癖として体に染みついていますから、それを変えるのは、癖を変えるのと同じで、時間と練習が必要です。繰り返し繰り返し、許可を与え続けましょう。そして、許可に基づく新しい生き方を実践しましょう。

場合によっては、何度も失敗するかも知れません。それでもあきらめないで続けるのです。何度も何度も、何ヶ月も何年も。

そうすれば、知らない間に、あなたは自由になっています。

まとめ

イエスさまが与えてくださった新しい生き方を、意識して練習して身につけましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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