良い羊飼いになろう

トップページ聖書のメッセージ集2009年 > このページ


ペテロの第一の手紙5章1〜4節

(2009.3.22)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

4節で、イエスさまは私たちに栄冠を授けてくださることが約束されています。たとえ人目に付かなくとも、あなたが正しいこと、良いことをなさったことは、イエスさまに覚えられており、ねぎらわれ、報いをいただくことができます。

それでは、栄冠を受けることができるような生き方とは、どういうものでしょうか。4節の最初に「そうすれば」とあります。1〜3節にその秘密が書かれているのです。

1.牧しなさい

すべての信徒への勧め

2節で、神の羊の群れを牧しなさいと勧められています。羊飼いが、羊を愛し、守り、養い、その成長を助けるように、ゆだねられている人たちを愛し、守り、その霊的成長を助けなさい、ということです。

というと、これは牧師とか宣教師とか役員とか、信仰年限の長い信徒とか、そういう人たちへの勧めであって、自分には関係ないと思われる方もいらっしゃることでしょう。実際1節には、この段落が「長老たち」に向けての勧めだと書かれています。

しかし、今回はこの箇所を、すべてのクリスチャンが自分に宛てて書かれた段落として読んでいただきたいのです。あなたは、イエスさまから栄冠を受け取りたいですか? ならば、神の羊の群れを牧しましょう。ゆだねられている人たちを愛し、守り、その霊的成長を助けましょう。それにより、やがてイエスさまから素晴らしい栄冠を受けることができます。

ゆだねられている羊とは

それでは、私たちにゆだねられている神の羊とは誰なのでしょうか。それを思いめぐらしていたとき、イエスさまの「良いサマリヤ人のたとえ」を思い出しました。「私の愛すべき隣人とは誰のことか」と、宗教家は尋ねました。これに対して、イエスさまは、困っている人、悲しんでいる人、助けを必要としている人がそこにいる、と。そして、あなたはその人の隣人になるつもりがありますか、とお尋ねになったのです。

「あなたがたにゆだねられた羊」の「ゆだねられた」とは、もともとは「くじに当る」という意味の言葉です。自分の好みで選んだり、自分の力や知恵によって勝ち取ったりするのではなく、一方的に与えられるという意味です。ゆだねらっれたひつじとは、私たちが選ぶのではなく、神さまが私たちにおゆだねになった人たちのことです。

あの人のために何ができるか

「誰が私の羊なのか」という答えは、「私は、あの人のために何ができるのか」という問いから、自然に与えられるものなのかも知れません。

あなたの周りに、あなたの慰めや励ましを必要としている方、神さまの愛を必要としている方、さらに成長するための助けを必要としている方はいらっしゃいませんか? それらの方々のために、あなたは何ができるでしょうか。

場合によっては、手を出さないで見守ることが、その人の成長のために必要な場合もあるでしょう。その人のために手を出し、その人のために手を出さないのです。

2.群れの模範となりなさい

実体を生きてみせる

では、どのように「ゆだねられた羊」に関わっていくのでしょうか。ペテロはここで、他の人の模範になりなさいと語っています。神さまについての知識や、クリスチャンとしてどう生きるべきかという知識を伝えるというよりも、神さまを信じ、イエスさまに従っていく人生の喜びや感動を味わっているところを見せる、ということです。

証しをしよう

模範を示すということは、証しをするということでもあります。証しというのは、神さまの素晴らしさや、神さまが私たちに約束しておられる祝福について、自分の体験を通して説明することです。

たとえば、神さまはいやしを行なう力をお持ちですが、祈って病気がいやされた体験を話すことで、神さまのいやしの力について、相手により強力に伝えることができます。

証しは、聞く人に「ああ、私もあの人のような体験がしたい」「もっともっとイエスさまのことが知りたい」「もっともっと聖書のことが知りたい」「もっともっと神さまに真剣に仕えていきたい」と思わせます。他の人の救いや霊的成長を助けようとするとき、証しをする、すなわち模範を示すことは、とても有効です。

3.まず羊となりなさい

自然体で

ここでペテロは、「強いられてではなく、本心からしなさい」と勧めています。「模範にならなきゃ」と力むのではなく、自然体の、今そのままの私でよいということです。

しかし、私は躊躇しました。力んだってすぐにぼろが出るような不完全な私なのに、自然体でいたりなんかしたら、模範どころか、人をつまづかせること請け合いだ……。とても自分には無理だ、と。

ペテロ

すると、神さまは、この勧めをしているのがペテロだというところに注目させてくださいました。彼は「私も長老の一人だ」と言いました。彼もまた、大牧者であるイエスさまから、「私の羊を飼いなさい」と勧められたのです。

いつのことでしょうか。それは、あの大失敗、イエスさまのことを3度「知らない」と言ってしまった、その後です(ヨハネ21:15-17)。復活なさったイエスさまは、彼を責めることなく、むしろ「私を愛するか?」と3度尋ね、「私の羊を飼いなさい」と3度命じました。3回失敗したから、3回やり直しをさせてくださったのです。

この体験が、ペテロを喜びと感動に満たしました。彼は奇跡やいやしなど多くの素晴らしい体験をしましたし、それを人々に証しもしました。しかし、彼は自分の失敗体験も話したのです。イエスさまのことを裏切った体験です。そして、それを通して、イエスさまの赦し、恵み、愛を人々に伝えたのです。

強さも弱さも

私たちが、「ゆだねられている神の羊たちを牧する」のは、私たちの素晴らしさを宣伝するためではありません。神さまの素晴らしさを伝え、神さまに従って生きることの素晴らしさを伝えるためです。

そのために必要なら、私たちの強さや成功体験だけでなく、弱さや失敗体験も利用しましょう。

まとめ

私たちにゆだねられている人たちが、もっともっと神さまの愛を体験するために、私たちにできることを見つけ出し、それを実践しましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

Copyright(c) 2009 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.