犯人捜しはやめよう

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創世記3章8〜13節

(2009.3.29)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

私たちは、問題やストレス状況に遭遇したとき、たいてい誰かを犯人にし、その人を責めることで精神的安定を図ろうとします。しかし、こういうやり方は、問題解決にならないどころか、ますますストレスを増大させてしまうことになります。

1.犯人捜しの対象

人は神さまの作品であって、それぞれに意味と目的を持ってこの世に置かれています。ですから「意味のないこと」には耐えられないのです。そして、何か思いもよらない問題にぶつかったり、人間関係などでストレスを抱えてしまったりすると、そこに何らかの意味を見出そうとします。

その方法の一つが「犯人捜し」です。誰か「悪い人」を見つけ出し、その人のせいにし、その人を責めることで、問題の意味づけをしようとするのです。

他の人

犯人に仕立て上げる対象として、まず考えられるのは他の人がいます。「この困った状況になったのは、あの人のせいだ」と思うのです。

すると、怒りを感じたり、イライラ、ムカムカを感じたりします。怒りというのは、自分にストレスを与えたり、欲求不満を与えたりした相手に対する、復讐の感情です。相手を責めているのです。

相手が悪いわけですから、当然相手の言動を変えたくなってきます。しかし、相手はこちらが思ったとおりには動いてくれません。私たちだって、人から無理やりコントロールされて動くのはいやですよね? ですから、思った通りに動いてくれない相手に対して、ますますストレスが増大していくのです。

神さま

次に、犯人に仕立て上げる対象として、神さまが考えられます。もしも神が全知全能であり、愛だというのなら、つらい目に遭わないように、守ってくれても良かったはず。それなのに自分がつらい目に遭っているのは、守ってくれなかった神のせいだ……というわけです。

「運命を呪う」というのも同じです。

神さまや運命を呪うというのは、結局のところ「自分の人生は不幸だ」と宣言しているようなものです。そう宣言しながら、ハッピーに暮らせるはずがありません。

自分自身

そして、犯人に仕立て上げる最後の対象は、自分自身です。

息子の算数の成績が悪かったと聞いて、落ち込んだお母さんがいました。心のどこかで「息子の成績が悪かったのは、私のせいだ」と、自分を責める気持ちがあったからです。落ち込むということは、どこかで自分を責めている証拠です。

しかし、自分を責めているうちは、私たちは変わることはできません。「こういう自分だけれど、じゃあどうしようか」と、自分の悪いところではなく、なすべき事に目を向けて始めて、前に進んでいくことができるのです。

犯人捜しは、当面、どうしてこういう問題が起こったのかということを意味づけてくれますが、よけいに苦しみを増やしてしまいがちです。

2.犯人捜しのルーツ

アダムとエバ

私たち人間は、すぐに犯人捜しをしてしまいますが、そのルーツは、人間の始祖、アダムとエバまでさかのぼります。

神さまが「他は何を食べてもいいけれど、これだけは食べてはならない」と命ぜられたのに、アダムとエバはその禁断の木の実を食べました。神さまが「あなたは何をしたのか」とアダムに尋ねると、彼は「あなたが私にくださったこの女が、私に食べさせたのです」と答えました。

これは、自分の過ちを妻になすりつけ、しかも、「こんなひどい女を私にくださったのはあなたですよね」と、神さまのせいにもしていることです。

アダムに全責任をなすりつけられたエバも、今度は「蛇が誘惑したのが悪いのです」と蛇のせいにしました。

では、彼らは自分たちがまったく悪くないと思っていたのでしょうか。いいえ。ちゃんと自分たちが罪を犯した、とんでもないことをしてしまったとということを知っていたのです。だから、神さまが現れたときに隠れたし、いちじくの葉っぱで裸(あるがままの自分)を隠そうとしました。

神さまとの関係

神さまとの関係が切れるとき、私たちは自分自身や他の人との関係が切れていきます。犯人捜しは、神さまとの関係が切れるときに起こってくるのです。

ということは、神さまとの関係を正すことが、犯人捜しという場当たり的で意味のない解決法ではなく、真の問題解決をするための第一ステップだということです。

3.犯人捜しからの解放

助けを求める

神さまは、アダムとエバが罪を犯したのに、彼らを求めて探し、彼らを呼びました。神さまはアダムとエバを愛しておられました。彼らの力になりたかったのです。

だから、彼らは他の誰かのせいにするのではなく、裸のまま神さまの前に出て行って、自分たちが感じている恥ずかしさを訴え、これからどうすべきかを教えてもらい、それを行なう力を求めなければなりませんでした。

どうしてこうなったんだろう、それはあの人のせいだ……と、過去にこだわって犯人捜しをするのではなく、この問題ある状況から救い出してくださるように神さまに求めましょう。いや、それどころか、この問題がかえって祝福になるように、神さまに求めましょう。

神さまは全知全能であり、神さまはあなたを愛しておられます。ですから、何があっても大丈夫。神さまはそこからあなたを祝福してくださいます。それを信じるのです。それを告白し続けるのです。

悔い改める

神さまは、何度も何度もアダムに質問しています。「あなたはどこにいるのか?」「誰が教えたのか?」「食べたのか?」

神さまは知らなかったのでしょうか? いいえ、もちろんご存じでした。神さまがあえて質問をなさったのは、アダムたち二人が自分から罪を認め、悔い改めることを願っておられたからです。残念ながら、二人は他の人のせいにして、自分自身の罪を認めようとしませんでしたが。

聖書の悔い改めは、単に自分を責めることではありません。自分がどこから外れてしまったのかを認め、方向転換をして、その正しい道に戻ろうとすることです。

私の好きな小説の一節に、「責難は成事にあらず」という言葉があります(小野不由美著「華胥の幽夢」講談社)。これは、「人を責め、非難することは、何かを成すことではない」というような意味です。

誰かのせいにすること……神さまのせいでも、他の人のせいでも、そして自分自身のせいでも、とにかく誰かを犯人にする生き方は、正しい道に戻ることではありません。

私たちが悔い改めなければならないことは、イエスさまの無限大の赦しを信じず、誰か(神さまや他の人や自分自身)を責め、それに時間とエネルギーを使って、一歩を踏み出すことを怠っていたことです。

イエスさまはあなたを、私を、あの人を赦してくださっています。それを信じることこそ、悔い改めです。イエスさまはセカンドチャンスを与えてくださいます。赦しを信じて、新たな一歩を踏み出しましょう。

ゆだねる

それでも、誰かのことが許し難く感じることがあるでしょう。そんなとき、聖書は、その人のことを呪うのではなく、神さまにさばきにゆだねなさいと語っています。神さまが良いようにしてくださいます。

良いようにというのは、必ずしもその人が罰を受けてひどい目に遭うことではないかも知れません。しかし、神さまはもっとも良いことをしてくださいます。それを期待しましょう。

まとめ

誰かのせいにする生き方は、それが神さまであれ、他の人であれ、自分自身であれ、かえってつらい思いを増幅します。誰かのせいにする生き方を捨て、神さまに期待し、神さまにゆだね、神さまに導かれて新しい道を歩むことを選択しましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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