先走らないで

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マタイによる福音書13章24〜30節

(2009.4.26)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

天国とは、死んだあとに行く場所というだけではありません。神さまと共に生き、交わることそのものが天国に生きるということです。この毒麦のたとえ話は、私たちの祝福された人生について教えています。

1.あきらめない

毒麦

毒麦は困った雑草ですから、農夫としては何とか畑から取り除きたいものです。しかし、成長の途上では、小麦とほとんど見分けが付きません。そこで、早めに抜き取ろうとしても、良い小麦まで一緒に抜いてしまう恐れがあります。

ところが、刈り入れ時まで成長すると、穂の形が小麦とは全く違いますし、実の色も違いますから、判別が容易になります。だから、たとえ話の主人は、収穫の時まで待つようにしもべたちに命じたのです。

たとえの意味

このたとえ話の意味は、37-43節に書かれています。

13:37 イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。
13:38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
13:40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
13:41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、
13:42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
13:43 そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。


要するに、天の御国に属していて救われる人と、属さないで救われない人がいて、世の終わりに、いわゆる天国と地獄とに振り分けられるのだ、ということです。

誰が救われないか?

伝道していると、本当に人は最初から救われるか、救われないかが決まっているのだなと思わされることがあります。いやにすんなりとイエスさまのことを受け入れ、信じる人がいるかと思えば、長いこと祈り、一生懸命考えて関わっても、まったく福音に耳を貸そうとしない人、馬鹿にする人、反発する人もいます。すると、もうこの人はダメだなあと、あきらめてしまいたくなるかも知れません。

しかし、このたとえ話は、誰が救われるとか救われないのかとかは、今は誰にも分からないのだから、近視眼的に「この人はダメだ。この人は救われない」というふうに決めつけてはいけないと教えています。

むしろ、聖書はこう語っています。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(第1テモテ2:4)

ですから、あきらめないで、神さまの愛、イエスさまによる救いを伝え続けましょう。

パウロは、まさに救いからはほど遠いところにいた人です。信じないどころか、信者たちを迫害し、投獄したり殺したりしていたのです。当時のクリスチャンで、パウロが救われ、それどころか伝道者になると、どれだけの人が期待していたでしょうか。しかし、イエスさまはパウロを救い、大伝道者に育てました。

「この人は救われないかも知れない」と、あきらめかけていた人がいますか?  ダメだと決めつけるのは、もう少し待ってみませんか? そして、祈り続け、語り続けませんか?

2.あら探ししない

恵みの時、救いの日

今の時代は、さばきの時代ではなく、「恵みの時、救いの日」(第2コリント6:2)です。今は、毒麦を抜き集めるべき時ではなく、小麦を大切に育てる時です。

ロバート・シュラー牧師がこんなことを書いておられます。「良いぶどう園とは、雑草が一本も生えていないぶどう園のことではなく、おいしい実が豊かに実っているぶどう園のことです」。

家族のための祈り

私たちは、自分や他人の欠点を探し、それを直すことに、あまりにもエネルギーや時間を使いすぎるのかも知れません。 この話をお読みください

宝探しをしよう

イエスさまは、私たちが自分や他人のあら探しをするのではなく、宝探しをして欲しいと願っておられます。すなわち、長所、持ち味を大切に育てて欲しいのです。

あなたの持ち味は何ですか? あなたのご主人や奥さん、お子さんの長所は何ですか? それを認め、ほめてさしあげませんか? その長所をもっと伸ばすには、自分はどんな関わりをすればいいかを考えませんか?

3.ダメと言わない

恵み

聖書は、始めから終わりまで、「恵み」の原則に貫かれています。

恵みとは、「神さまにもっと愛されるために私たちにできることは何もないし、神さまにもっと愛されなくなるために私たちにできることも何もない」(フィリップ・ヤンシーの定義)ということです。

恵みの反対

恵みの反対は律法です。律法とは「〜でなければダメ」ということです。勉強ができなければダメ。人からほめられなければダメ。これくらいの年収がなければダメ。目立たなければダメ。そんなことを考えているようではダメ。これこれの修行をしなければダメ。

ダメ、ダメ、ダメ……。このダメと言う言葉が、あなたの心をむしばんではいませんか?

ダメではありません。人は、小麦と毒麦を判別することはできません。それができるのは神さまだけであり、その神さまでさえ、今は収穫の時(さばきの時)ではないから、誰のことをもダメだと評価しないとおっしゃいます。

ダメではないのです。イエスさまは、十字架ですべてのダメを釘付けにしてくださいました。イエスさまが私たちの代わりにダメになって、さばきを受けてくださいました。だから、ダメではありません。イエスさまを信じたあなたは、そのままでOKです。

OKのメッセージ

私たちが、心豊かに安心して生きられるためには、3つの確信が必要です。それは、
  • 自分はここにいていい(「ここ」とは、たとえば家庭や職場、学校、地域、サークル、この世などです)。
  • 自分は愛される価値のある、大切な存在だ(仕方なく、存在を認められているわけではなく、ここにいることを喜ばれている)。
  • それらは無条件だ(役に立つからとか、お金を稼いでくるからとか、若くてきれいだからとかいう条件なしに、大切な存在だからここにいていい)。
ということです。

律法は条件を要求します。しかし、恵みは無条件です。「あなたがここにいることがうれしい」というメッセージを、どんなふうにしたら、自分や他の人に伝えることができるでしょうか。

まとめ

先走ったさばきをしてあら探しをし、ダメというメッセージを送る代わりに、自分や他の人の存在を認めるメッセージを送るよう心がけましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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