まっすぐな道

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箴言3章5〜8節

(2009.5.17)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

6節の約束はまっすぐな道。喜びや平安に満たされた人生。不幸にではなく、確かな幸せに向かって進んでいる人生です。8節の約束は健康な人生。健康とは、ただ単に病気でないということではありません。精神的にも、社会的にも、霊的にも良好な状態です。聖書はそういう人生を約束しています。

1.幸・不幸はとらえ方次第

怒鳴られた青年

私が、ある事務所で働いていたときのことです。一人の青年が上司の部屋に呼ばれました。そして、ものすごい怒鳴り声が聞こえてきました。その青年が叱られているようです。私は、彼がへこんでしまうんじゃないかと心配しました。しかし、事務所に戻ってきた彼は、うれしそうな顔をしていました。

彼は言いました。「僕の父親は、仕事が忙しくて、ほとんど僕のことをかまってくれませんでした。僕がいいことをしても、悪いことをしても、まったくかまってくれなかったのです。でも、あの上司は、僕のことをしっかりと見ていてくれて、僕が人として社会人として成長することを願っていてくれて、全力で僕に向き合ってくれました。それがうれしいんです」。

どう意味づけるか

私があんなふうに怒鳴りつけられたら、へこんでしまったかもしれません。それは、「嫌われた」「使えない奴だと思われた」「クビになるかもしれない」というふうに受け止め、考えるからです。

しかし、この青年は、「ちゃんと見ていてくれている」「僕の成長を願ってくれている」と受け止めました。だから、怒鳴られたことがうれしいのです。

怒鳴られるという状況は同じです。違いは、それをどう受け止めたか、どう考えたか、どう意味づけたかです。感情は、状況や他人の言動が生み出すのではありません。あなたがそれをどう意味づけたか、どう考えたか、どう受け止めたかで決まります。

罪責感を感じたということは、自分は罪深い人間だと考えたということです。

劣等感を感じたということは、自分は劣った人間だと考えたということです。

人に怒りを感じたということは、自分はあの人から理不尽な被害を受けたと考えたということです。

絶望したということは、自分の願いは決して叶うことなく、自分は不幸な人生を歩み、孤独や貧しさ、苦しみの中で死んでいく運命だと考えたということです。

意味づけが変われば感情が変わる

感情が、受け止め方、考え方、意味づけの仕方によって生まれるのなら、意味づけの仕方が変われば、感じ方も変わってきます。

怒鳴られてへこんでいたけれど、待てよ、これは期待されているってことじゃないか? 成長の可能性があると認めてもらっているってことじゃないか?

願ったとおりに物事が進まずがっかりしていたけれど、まてよ、このまま一生自分の願い通りにならないということはないじゃないか。次はうまくいくかもしれないじゃないか……というふうに。

2.自分の悟りにたよるな

自分を疑ってみる

私たちは、様々な否定的な感情、いやな感情にとらわれるときがあります。たとえば、怒りとか、憎しみとか、絶望とか、むなしさとか、嫌悪感とか、罪責感とか、劣等感とか。

しかし、私たちは、自分のとらえ方、考え方が絶対間違いないと、無意識に思い込んでいます。ですから、何かのいやな感情を味わったとき、そう感じることに対して、普通は疑問を持ったりしません。

しかし、箴言には「自分の悟りにたよるな」(5節)、「自分を知恵のある者と思うな」(7節)と書かれています。それは、自分の判断が絶対正しいと思い込まず、自分の頭の中を、一度疑って点検してみなさいということです。

待つ

自分の悟りにたよらないということは、早計に判断を下さないで、「ちょっと待って」と、自分にストップをかけるということです。

それから、一度落ち着いて自分の気持ちを整理します。今、どんな気持ちなのか。そして、それはどういう受け止め方、考え方から生まれたのだろうか。それは、本当に正しい受け止め方なんだろうか。別の意味づけができないだろうか、と。

祈る

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」(6節)と進められています。それは、絶えず祈りながら生活するということです。

祈りは、自分を見つめ直し、私たちの自分勝手な判断にストップをかける良い機会です。

祈りの中で、イエスさまや天のお父さまに向かって、自分の感じているいやな気持ちを訴えてみてください。語ることで、ちょうどカウンセリングを受けているように、いやな気持ちでいっぱいいっぱいだった気持ちが整理されていきます。

最初から、まとまった祈りをしようとしなくてかまいません。聖霊なる神さまが、整理を助けてくださいます。それを信じて、最初は未整理のままでかまわないので、神様に向かって自分の気持ちや考えをお話ししましょう。

3.主に拠り頼め

神さまの存在を計算に入れる

私たちがいやな気持ちになり、それにとらわれているときというのは、ほとんどの場合、神さまの存在を計算に入れない考え方、受け止め方をしています。

あるいは、仮に計算に入れていたとしても、意地悪な神さま、無関心な神さま、力のない神さまなど、聖書が教えている正しい神さまイメージに基づかないものだったりします。

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」、そしてその「主に拠り頼め」と、箴言の記者は語りました。聖書の教える神さまがあなたについておられるということを計算に入れて、もう一度考え方を修正してみなさい、ということです。

奇跡を起こす力ある神さま、えこひいきをなさらない公正な神さま、ベストな計画とベストなタイミングをご存じの知恵ある神さま、約束を必ず守られる誠実な神さま、あなたの幸せを心から願う愛の神さまが、あなたのすぐそばにについておられます。

だとしたら、今置かれているあなたの状況、不幸の種だと思えるこのことは、どうとらえ直すことができますか?

あのことがあったから

 この話をお読みください

神さまについて学ぼう

私たちが、この地上で、どんなときも大丈夫と言えるためには、どんな状況の中にあっても、周りの人たちに大丈夫を分けてあげることがでいるためには、別に強い精神力を持った人になる必要はありません。

必要なのは、神さまがどんなお方かということを知ることです。私たちが拠り頼むお方が、どんなに強く、賢く、愛にあふれておられるか。私たちは、もっともっと知らなければなりません。

私たちの小さな頭で考えるよりも、もっともっと神さまは偉大なお方だということを、一生かけて学ぶのです。

その結果として、私たちは状況に拠らず、いつも喜びや平安を味わいながら、希望を持って生きていくことができるようになります。

まとめ

嫌な感情にとらわれたときは、神さまがそばにおられることを意識し、神さまに向かって祈りながら、自分の心を整理し、方向転換をしましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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