左の頬を向けなさい

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マタイによる福音書5章38〜45節

(2009.5.24)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

私たちは、人から不当な扱いを受けることがあります。相手はわざとの場合もあるし、悪気はないけれどということもあるでしょう。そんなとき、どのように対応すればよいのでしょうか。

1.自分で復讐しないと決めよう

復讐

相手から不当な扱いを受けたり、損害を与えられたり、欲求不満を与えられたりすると、私たちは頭にきます。いらいらします。怒りは、自分に損害や欲求不満を与えた相手に対する処罰の感情です。すなわち、復讐のためにわき上がってくる感情です。

そうして、相手を罵倒したり、にらんだり、嫌みを言ったり、悪口を言いふらしたり、無視したりして、直接・間接に復讐を行動に移したくなります。

怒りを感じたら、相手を罰したくなっているんだなということに気づきましょう。自分の心への気づきこそ、冷静で効果的な対応の第一歩です。

目には目を

38節の「目には目で、歯には歯で」という言葉は、出エジプト記21:24の言葉です。他人の目をつぶした人は目をつぶされ、他人の歯を折った人は自分も歯を折られるという、イスラエルの律法の規定です。

この箇所は、一般の人が聖書の言葉を引用するときに、最も間違った使われ方をするところの一つで、まるで復讐を奨励しているような言葉だと理解されています。しかし、本当は、自分勝手な、行き過ぎた復讐をやめさせるために設けられた規定なのです。

目や歯を傷つけられたら、復讐心がめらめらとわき上がり、相手を半死半生の目に遭わせたり、命を奪ったりしたくなります。それをやめなさいというのです。そして、勝手に相手を裁くのではなく、法の裁きにゆだねなさいと。

ローマ12:19にはこのように書かれています。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それはこう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」。

損害を被ったと思うと、ついつい相手を復讐したくなりますし、そうすることが自分の権利だと思ってしまいますが、その権利を神さまにお返ししましょう。自分で復讐するのはやめようと心に決めましょう。

復讐ではない対応をする

復讐をやめるというのは、相手の困った言動に泣き寝入りしなさいということではありません。怒りを使って相手に対応することはしませんが、相手の困った言動をやめてくれるよう働きかけることはしていいし、ぜひそうすべきです。

相手の言動のどこがどのように困るのか。そして、代わりにどうしてもらったらうれしいのか。それを冷静に、毅然として相手に伝えて、変わってくれるようお願いします。

そのためには、こちらがある程度冷静でなければなりません。復讐する権利を神さまにお返しすることで、冷静に対応しましょう。

2.自立しよう

弱者の倫理?

イエスさまは、何か不当な扱いを受けたとき、「左の頬を向けなさい」「上着もやりなさい」「さらにもう1ミリオン余計に荷物を運びなさい」と教えられました。

哲学者のニーチェは、これを弱者の倫理であると言って批判したそうです。相手を打ち負かす強さに欠けた、弱い生き方だというのでしょう。しかし、本当にこれは弱い生き方なのでしょうか。

自立した生き方

ここで、右の頬を打たれたとき、左の頬を向けるというのは、相手が恐ろしいからではありません。下着に加えて上着を与えるのも、1ミリオン荷物を運べと言われたときに、さらに1ミリオン進むのも、そうしなければ殺されるからではありません。自ら進んで頬を向け、上着を与え、1ミリオン余計に歩くのです。

ここには自由があります。させられているのではなく、自らの意志で行動する自立した生き方があります。

させられているのなら、それは弱い生き方かもしれません。しかし、自らの意志で行動しているのなら、それは弱さではなく強さです。他人や状況に振り回される人生ではなく、自分の足で歩く生き方です。

意味を見出そう

させられている、一方的に何かをされていると思うと、被害者意識が生まれます。「ああ、やられた!」「ああ、ひどいことをされた!」「なんて私はかわいそうなんだろう!」 そうやって受けた傷ばかりを眺めて過ごせば、当然私たちの心はふさぎ込み、不満が生まれ、復讐のための怒りや恨みに変わっていきます。

イエスさまは、被害者意識を捨てなさいとおっしゃっています。させられているという意識を捨てなさいと教えておられます。そして、「これは自分が自分の意志でしているのだ」「自分の意志で苦しみを引き受けたのだ」という生き方をしなさいとおっしゃっています。

そのためには、この痛みや傷の中に祝福の種を見出していなければなりません。少なくとも、必ず意味があるはずだと信じていなければなりません。

3.相手を愛そう

敵は誰か

「敵を憎め」と律法には書かれていますが、私たちの敵は悪魔やその配下の悪霊たちであって、人間ではありません。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6:12)。

だから、あなたに不当なことをした相手に復讐しないで、痛みの中で祝福を刈り取るだけでなく、さらにイエスさまは、その人を愛しなさいと命じています。

正しくない人

しかし、この命令はなかなか難しいものであり、イエスさまの命令だからといっても、なかなか守ることができません。私はそうです。あなたはいかがですか?

そんな私たちのために、イエスさまは45節の言葉を語ってくださいました。「悪い人にも良い人にも」、また「正しい人にも正しくない人にも」と書かれていますが、あなたはこの言葉を読んだとき、ご自分をどちらのグループに含めましたか? 正しい人でしょうか、それとも正しくない人でしょうか。

私は、いつの間にか自分のことを正しい人のグループに入れていたことに気づかされました。しかし、そうではありません。私たちは、すぐに被害者意識にとらわれ、人や状況を恨み、復讐したくなります。イエスさまの命令を守り通すことのできない悪い人であり、正しくない人なのです。

しかし、神さまはそんな私たちにも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださっています。お前は正しくない奴だから、祝福しない。むしろ呪いを与えるとおっしゃらず、私たちを愛し、幸せを与えようと約束してくださっています。

このイエスさまの愛が心にしみ通るとき、私たちは他の「正しくない人」のことを赦し、さらに愛せるようになります。

愛は愛を生む

愛は愛を生み出します。自分に不当なことをする人を愛するとき、敵だと思っていたその人が、強力な味方に変わってくれるかもしれません。それこそ、敵に復讐し、敵をやっつけるよりも、さらにすばらしい勝利です。

イエスさまは、あなたに本当の勝利を与えようとしておられます。

まとめ

誰かに不当な扱いを受けたと感じたときには、イエスさまが教えてくださった対処法を実践しましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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