誓ってはいけません

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マタイによる福音書5章33〜37節

(2009.6.7)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

次女が、ソフトボールの大会に出場しました。こういうスポーツの大会では、選手宣誓が大なわれます。また、私は結婚式場でチャプレンをしていますが、教会式の結婚式の中心は、新郎新婦による結婚の誓約です。また、今、足利事件の裁判のやり直しについて話題になっていますが、裁判では被告や証人は真実を語ることについて宣誓をさせられます。

このように、私たちは社会生活の中で、宣誓、誓約、すなわち誓いを立てるということを行ないます。ところが、イエスさまは誓ってはいけないとおっしゃいます。これはどういうことでしょう。

文字通り、まったく誓約や宣誓をしてはいけないということではありません。もしそうなら、29-30節も文字通り守らないといけなくなります。これは、本当に体の一部を傷つけることを勧めているのではなく、それくらい神さまは「義」「きよさ」ということを大切に考えておられるということを教えているのです。

「誓うな」というのは、文字通りまったく誓ってはいけないということではなく、イエスさまは私たちが信頼関係を作り上げていくための原則を教えてくださっています。

1.大切なのは信用

なぜ誓うのか

この世は、信用、信頼関係で成り立っています。商売でもそうです。この店は、決して客に不利益になるような商品を売りつけたりしないと信じているから、お客さんはそこに買いに行きます。

親子でも夫婦でも友人でも、この人は自分の幸せを願い、自分の幸せのために一肌脱いでくれる人だと信じているから、つきあうことができます。

私たちはなぜ誓うのでしょうか。たとえば、「絶対に来週返すから、10万円貸して」とか、「もう絶対にしないから許して」とか。

それは、相手に信用してもらいたいからです。相手に信用してもらわなければ、人間関係が成り立たないからです。人間関係が成り立たなければ、商売でも何でもできません。

信用次第

さて、イエスさまは誓うなと言いました。それは、誓いよりも、信用そのものの方がより大切だからです。どういうことでしょうか?

この人は信用できないなと思っている人に、いくら「イエスさまにかけて誓う」なんて約束されても、それを信じる気にはなれませんね。また、この人は絶対に約束を守ってくれる人だと信じていれば、その人が長々と誓いの言葉を並べ立てなくても、「やりますよ」の一言で信じられるでしょう。

自己宣言としての誓い、すなわち自分自身の気持ちを引き締めるための誓いなら意味がありますが、相手に信じてもらうための誓いは、実は意味がないのです。誓ったからといって、信用度が上がるわけでも、誓わなかったからといって信用度が下がるわけでもありません。信用度は、すでに決まっているのです。

やるかやらないかを伝えるだけでいい

だから、イエスさまは、「誓うな」とおっしゃいました。ただ、「はい、やります」「いいえ、やりません」というふうに答えるだけでいいと。元々信用のある人は、それで事足ります。

もしも、信じてもらえないとすれば、誓うというやり方ではなく、新たに信用を獲得するために、より効果的な方法をとらなければなりません。

2.行動が信用を生む

なぜ信用されるか

私たちは、人の行動を見て、その人を信用するかどうかを決めます。

なぜオオカミ少年は、オオカミが来たと叫んでも、誰にも信じてもらえず、オオカミにおそわれる羽目に陥ったのでしょうか。それは、彼が嘘ばかりついていたので、今度もどうせ嘘だと思われたのです。

信用されるだけの行動

信用される人は、普段から信用されるだけの行動をしています。他人をだまして利益を得ようとしたり、裏切ったりしないで、誠実に行動します。自己中心的な言動を繰り返すのではなく、周りの人たちの幸せのためにも行動します。

だから、信用されるのです。信用は、普段の行動が生み出します。わざわざ神さまの名前を持ち出して誓う必要はありません。むしろ聖書は、「みだりに主のなを唱えてはいけない」と戒めています。それも、今回のイエスさまの命令と同じ趣旨です。

私たちの普段の行動を再点検してみましょう。ここぞというときに人に信用され、信頼されるような行動をしていたでしょうか。

人間不信の人に対しても

あなたは別にその人のことを裏切ったことがなくても、もしかしたら、その人は過去に大切な人から裏切られた経験があるかもしれません。親子関係が悲しいものだったとか、親友や恋人にひどい仕打ちをされたとか。

そうすると、その人は、人間というものに対して懐疑的になるかもしれません。すると、あなたはその人を裏切ったことがなくても、その人はあなたのことも信じてくれないかもしれません。

そんなときでも、その人の信用を獲得するのは行動です。相手の幸せを願い、相手の幸せのために一貫して行動するのです。

3.信用は回復できる

信用を損ねることもある

もちろん、私たちは神さまではありませんから、不完全です。ついつい約束を果たせなかったり、周りに迷惑をかけるような行動をとったりすることもあるでしょう。

そんなとき、言い訳を並べ立てたり、ごまかそうとしたりすると、かえって相手の怒りに油を注ぐことにもなりかねません。

しかし、素直に自分の過ちを認め、謝罪し、できる限り償いをしたり、改めて望ましい行動をとろうとするなら、また信用してくれるようになるでしょう。

信用は回復できる

神さまではない私たちは、人の信用を損なってしまうことがあります。しかし、誠実な行動に切り替え、それをし続けていくならば、やがてだんだんと信用を回復していくことができます。

イエスさまの助けを借りながら

誓うなとイエスさまはおっしゃいました。それは、言葉じゃないよ、行動だよという厳しい戒めです。と同時に、神さまにかけて誓っても、その誓いを守りきることができないことがある、私たちの不完全さや弱さを認める、イエスさまの優しさも感じます。

イエスさまは、私たちの身代わりに十字架で死んでくださいました。そして、復活し、今は、父なる神さまが私たちを赦し、祝福し、幸せにしてくださるように、取りなしてくださっています。

十字架は、失敗した私たちに、再チャレンジの機会を与えます。何度失敗しても、「もう一度やってごらん」と。

人の信用を損ねるようなことをするかもしれません。しかし、イエスさまはそんな私たちをダメな奴だと見捨てたりなさいません。信用回復のために、最初からやってごらんと励ましてくださいます。また、聖霊を通して、私たちを内側から造り変え、誠実な生き方ができるようにしてくださいます。

まとめ

ここぞというときに信じてもらえるように、普段から誠実な生き方を心がけましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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