自分の十字架を負って

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マルコによる福音書8章29〜36節

(2009.6.14)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

私たちが、生物学的にただ生きているというだけでなく、豊かに生きる(ヨハネ10:10)ために、すなわち、生き生きと喜びや感動に満ちあふれて生きるために、イエスさまはどんな秘訣を教えてくださったのでしょうか。

イエスさまは、自分を捨て、自分の十字架を負って、イエスさまに従ってくるようにおっしゃいました。

1.自分を捨てる

一般的なイメージ

「自分を捨てる」というと、自分の夢や財産をすべて捨ててしまったり、自分をいじめたり、世を捨てて修道院のような所に入ったりすることだというイメージがあります。

あるいは、自分の意見や希望や権利を、一切主張せず、我慢我慢の人生を送ることのように思えます。しかし、聖書が言う「自分を捨てる」とは、必ずしもそういうことではありません。

たとえば、パウロとシラスは、逮捕されたときに、ローマ市民として不当な扱いを受けました。ちゃんとした取り調べや裁判なしにむち打ちの刑を受けたのです。彼らは、それに対して「これは不当な扱いだ」と、はっきりと抗議しています(使徒16:37)。

イエスさまをいさめたペテロ

今日の箇所は、イエスさまがユダヤの指導者たちによってエルサレムで捕らえられ、命を奪われることを預言したときの話です。話を聞いたペテロは、イエスさまを脇に連れ出し、そういうことは言うべきではないといさめました。

ペテロがイエスさまの死の預言をいさめたのは、イエスさまがおっしゃったことと、彼が考えるメシヤ(キリスト、救い主)とが、あまりにも違いすぎていたからです。

ペテロは、イエスさまが王として立ち、ローマ軍を追い払い、ユダヤの国をダビデ王時代のように繁栄させてくださると信じていました。それが当時の、メシヤ、救い主に対するイメージだったのです。イエスさまがメシヤなら、殺されるなんてあるはずがないし、イエスさまをメシヤだと信じていたペテロは、イエスさまに死ぬなどということを言って欲しくなかったのです。

すると、イエスさまはペテロに向かって、「下がれ、サタン。あなたは神の子とを思わないで、人のことを思っている」とおっしゃいました。その後で、今日の話を弟子たちみんなに語られたのです。

神さまの計画は、メシヤが十字架にかかって死に、復活することによって、救いを完成するということでした。しかし、ペテロも他の弟子たちも、救い主は、自分がイメージし、自分が期待した通りのお方であって欲しいと思っていたのです。そして、思い通りにならないので、不機嫌になってしまったのです。

とらわれから解放される

「自分を捨てなさい」とイエスさまはおっしゃいました。ここで言う「自分」とは、「自分の思い通りにしたい」「自分の思い通りのことが起こらないといやだ」という、わがままな心のことです。

わがままは、「自分のもの」という意識によって強化されます。自分のものだと思っていれば、自分の思い通りにするのが当然だと思います。自分の時間、自分の家族、自分の夢、自分のお金、自分の能力、自分の人生、自分の神さま……。

「自分のもの」という意識は、自由に見えますが、実はこれが人を縛り、不自由にします。

たとえば、友だちを自分のものという目で見ているとします。すると、友だちが自分の思い通りに動くのが当然だと思います。もしも、自分の思い通りに行動してくれなければ、無理にでも思い通りに動かそうとします。しかし、相手も縛られ、無理矢理動かされるのはいやですから、抵抗するでしょう。

こうして、二人の間に軋轢が生じ、関係が悪化していきます。そのために、いらいらしたり、怒ったり、悲しんだりすることになります。膨大なエネルギーと時間が浪費されることになるでしょう。

「自分を捨てなさい」とイエスさまはおっしゃいました。「これは、自分のものだ。自分の思い通りにするのが当然だ」という意識を捨て去りましょう。「自分のものだ」と、しっかり握りしめているものがありませんでしたか? それを神さまにお返ししましょう。

もちろん、「こうしてください」と祈るのはかまいません。しかし、最後は「神さまの自由にしてください」と、そう祈りませんか? そのとき、あなたに自由がやってきます。

2.自分の十字架を負う

キリストが十字架を負ったわけ

イエスさまが十字架にかかって死んだのは、私たちの身代わりとして、私たち罪の罰を受け、それで私たちが赦されて神の子となるためでした。イエスさまは、私たちのために、十字架を追ってくださったのです。

また、イエスさまは、父なる神さまのためにも十字架を負われました。父なる神さまは、私たちをこよなく愛してくださっています。だから、罪人である私たちを、本当は罰したくないのです。むしろ、あふれるばかりに祝福して、幸せにしたいと願っておられます。

しかし、神さまは愛であると同時に、義なるお方でもあります。私たちの罪を、「まあしょうがないか」で、済ましてしまうことはできません。罪は裁かれなければならないのです。

この、神さまの愛と義のジレンマを解決するために、罪のないイエスさまが、罪人である私たちのために身代わりになって、十字架にかかってくださいました。これにより、父なる神さまの愛も義も、どちらも実現しました。

イエスさまは、私たちや父なる神さまのため、すなわち他者のために、あえて苦しみを負い、犠牲を払ってくださったのです。

自分の十字架を負うとは

「自分の十字架を負う」とは、イエスさまのように、神さまや他の人のために、喜んで犠牲を払うということです。自分だけのために生きる人生から、神さまのため人のためにも生きる人生へと転換していくことです。

あなたは、どうして教会にいらっしゃったり、キリスト教に興味を抱かれたりしましたか? 問題を抱えて、その解決のために聖書や教会に救いを求めたという方も多いことでしょう。それはそれで良いのです。イエスさまはまことの医者であって、本当の解決をお持ちですから。

しかし、救いとは、新しく生まれることです。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)。

私たちが救われたのなら、今までの自分のための生き方から、少しずつでいいですから、神さまのため人のための生き方へと変えられていきたいですね。そして、人はそのような生き方をしていくときに、初めて本当の幸せを感じるように造られているのです。

あなたの十字架は?

自分の十字架を負いなさいと、イエスさまはおっしゃいました。そして、それによって本当の幸せを見つけなさいと。

十字架を負うとは、神さまと人のために犠牲を払うことです。時間か、財産か、体力か、とにかく何かを捧げることです。あなたは、神さまと人とのために、具体的に何ができますか?

3.キリストについて行く

キリストに従う

「キリストについて行く」ということには2つの意味があります。第一の意味は、「キリストに従う」ことです。イエスさまのみこころを知り、それを実践することが、従うということです。

イエスさまのみこころを知る方法が2つあります。一つは「聖書」、もう一つは「聞く祈り」です。

祈りというと、こちらの願いを神さまに聞いていただくことだけではありません。祈りは神さまとの会話ですから、口を閉じ、黙想しながら、神さまの語りかけを待つ時間が大切です。最初はなかなか聞こえてこない神さまの声も、そうやって耳を傾けていると、感じ取れるようになります。

もちろん、読み取っただけ、聞いただけでは従ったことにはなりません。イエスさまが、自分にこういうふうにして欲しいと思っておられるということが分かったら、実行しましょう。実行する力を聖霊に祈り求めながら。

キリストの愛を味わう

「キリストについて行く」ことの第二の意味は、「キリストと交わり、その愛を十分に味わう」ことです。

イエスさまは、あなたのために十字架にかかってくださいました。命を捨てても惜しくないほどに、あなたのことを大切に思ってくださっています。その愛を受け止め、感謝しながら、この方により頼みながら生きること……それがイエスさまについて行くということです。

人はなぜ自分を捨てられないのでしょうか。それは、より高価ですばらしい世界を知らないからです。心が安心し、満ち足りていれば、「自分が、自分が」とわがままを通さなくてもすむようになります。他の人の必要に目をとめる余裕が生まれます。

イエスさまについて行き、イエスさまと交わりながら生きることの喜びを知ったら、「捨てろ」と強制されなくても、あなたは自分を捨て、自分の十字架を負い、イエスさまに従って生きていくことでしょう。

まとめ

イエスさまが十字架にかかり、あなたは「神さまに愛される者」になりました。それはあなたにとってどんな意味がありますか?

そのありがたさを、毎日数え上げましょう。それにより、あなたは自分の十字架を負って、ますます充実した、喜びに満ちた、幸せな人生を送れるようになります。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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