偽善者として

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マタイによる福音書6章1〜18節

(2009.6.28)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

信仰には、常に偽善の問題がつきまといます。偽善の問題について、私たちはどのような態度をとるべきでしょうか。

1.偽善に対する警告を知る

3つの良いこと

今回の箇所には、「偽善者のようであってはならない」という形で、施し(慈善)・祈り・断食が挙げられています。これらのものは、それ自体は良いことであり、むしろユダヤ人たちは敬虔な行ないとして尊重していました。

問題は

問題なのは、施しや祈りや断食そのものではなく、動機です。イエスさまは、偽善者は「人に見せるために」「人にほめられたくて」良い行ないをするとおっしゃいました。そして、あなた方はそうであってはならないと。

むしろ、それらは人に隠れて行ないなさいと、イエスさまはおっしゃいました。実際には、完全に人に隠れて行なうのは難しいですが、それくらい、人にほめられるためという動機で善行をしないように気をつけなさいということです。

神ではなく人を見ている

それにしても、たとえ人に見せるためであっても、人にほめられるためであっても、良いことをしているのには変わりありません。どうしてイエスさまはここまで厳しく戒められたのでしょうか。

それは、偽善とは、神さまにどう思われるかということよりも、人にどう思われるかということの方を重視する態度だからです。人の目を恐れ、人の目を気にして生きる生き方です。

ということは、人の目を気にして良いことをするように、人の目を気にして神さまの喜ばれない生き方を選択するということも大いにあり得ます。

シモン・ペテロやバルナバたちがアンテオケ教会にいたとき、ユダヤからある人々がやってきました。その人々は、異邦人のクリスチャンも割礼を受け、旧約聖書に書かれている様々な戒律を守ってユダヤ人のような生活をしなければ救われないと教える人たちです。すると、それまでは異邦人とも自由に食事をしていたペテロたちも、ユダヤから来た人々を恐れて態度を変え、異邦人と一緒に食事をしなくなりました。この件について、パウロはペテロやバルナバの誤りを注意しました(ガラテヤ2:11-21)。

偽善的な行ないは、容易に悪に変化してしまうのです。変わることのない神さまにではなく、移り変わる人の目、人の評価を基準にした生き方だからです。

2.自分を省みる

自分はどうだろうか

さて、聖書の中に書かれている命令や教えを読むときに注意しなければならないことは、それを他人を裁くはかりとして読むのではなく、自分を省みるためのはかりとして用いるべきだということです。

「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(マタイ7:3-5)。

他の人が偽善的であるかどうかを裁くためではなく、自分が偽善的な生き方に陥っていないかどうか、反省してみましょう。すると、どうしても、自分自身の生き方に、偽善的なものがあることを認めざるを得ないのではないでしょうか。

偽善という言葉はきついですが、その根っこにあるものを理解すれば、確かに自分が偽善者であることを認めざるを得ません。それは、人の目、人の評価を気にして生きること、人の目、人の評価を恐れて生きることです。

人の目を存在理由とする生き方

(中通りコミュニティ・チャーチではありませんが)教会で熱心に奉仕をしている方から、こんな話を聞きました。その方はこうおっしゃいました。「自分が神さまに用いられたいと願って、一生懸命に奉仕をしてきたのは、実は自分の存在価値を求めていたんだということに気づきました」と。

私たちは、自分はここにいていい、しかも仕方なく存在が許されているのではなく、ここにいることを喜ばれている、自分はここにいるだけの価値がある大切な存在なのだという確信がないと、生き生きと健康に生きていくことはできません。そうでないということは、ここにいてもらっては困る、いない方がまし、とっとと死んでくれということですから。

それではいやですから、私たちは自分の存在価値を確認したいと思います。そこで、人を感心させて、人から良い評価をもらうことで、自分の価値を確認しようとするのです。人に親切にしたり、何かすごいことをしてほめられたりすることです。これが過ぎると、イエスさまが指摘なさったような姑息な手段で人にアピールしたり、本当は相手のためにならないのに親切の押し売りをしたりというようなことが起こります。

人目を気にしたり、人の評価を恐れて、神さまや自分を偽るような生き方をしてしまうこと。これが、偽善の根っこにあるものです。そう考えれば、偽善の問題は、人ごとではなくなります。

3.偽善者として堂々と生きる

偽善の罪の赦し

偽善は罪です。であれば、人目を気にしたり、人の評価を恐れてしまう私たちは、罪人だということです。

しかし、ここに良い知らせがあります。それは、神さまは罪人を罪の故に裁き、罰することをなさらないということです。イエスさまが私たちのすべての罪の身代わりとなり、十字架刑を受けてくださいました。それにより、私たちのすべての罪が赦されました。もちろん、純粋に神さまや人を愛することができない、偽善の罪もです。

イエスさまを信じ、罪赦され、神さまの子どもとされた私たちを、神さまはもはや偽善者だとは思っておられません。そして、私たちの捧げる良い行ない、奉仕、礼拝などが、ほんのかけらほどの誠実さや真実を持っていなかったとしても、それを100%純粋な愛として受けいれてくださり、喜んでくださるのがイエスさまであり、父なる神さまであり、聖霊さまなのです。

この話をお読みください

堂々と

人の目に振り回されない強さを与えてくださいと祈るのはもちろんです。しかし、その強さが与えられるまでは、逆説的な言い方になりますが、大胆に堂々と、偽善者としての奉仕をし、偽善者としての礼拝を捧げ、偽善者としての善行を積み上げましょう。イエスさまはそれを喜んでくださるのですから。

そして、そういうふうに、神さまの赦しを確認し、感謝しながらする善行を、イエスさまは偽善とはお呼びになりません。

まとめ

人目を気にしたり、恐れたりする自分を認め、そういう自分をイエスさまが赦し、愛してくださっているのだということを確認しましょう。

そして、今週、あなたはどんな良いことをなさいますか? 他の人に宣伝する必要はありませんから、一人で密かに決断し、実行しましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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