さばいてはいけません

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マタイによる福音書7章1〜12節

(2009.7.12)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

イエスさまは、他の人をさばいてはいけないとおっしゃいました。これは、裁判官や警察官、あるいは裁判員になってはいけないという意味では、もちろんありません。さばきとは、ここでは、人の言動を見て、その人の良し悪しを評価し、批判したり、陰口を言ったりすることです。

では、イエスさまがさばくなとおっしゃったのはなぜでしょうか。

1.人のことは言えないから

ちりと梁のたとえ

3-5節に注目しましょう。梁のような大きなものが目に入るはずがありません。これはイエスさまお得意の誇張表現です。他の人の些細な悪には敏感なのに、自分の中にある悪については、案外と無頓着な私たち人間の性質を、滑稽に表現しているのです。

ダブルスタンダード

私たちの中には、他の人をさばく物差しと、自分をさばく物差しの2種類があります。そして、往々にして2つの物差しが違っています。

多くの場合、他人には厳しく、自分は甘く評価してしまうようです。家族が茶碗を割ると「何をやっているんだ。注意が散漫なんだ」と思うけれど、自分が割ったときには「あら、すべっちゃった」とか「形あるものは皆壊れる」とか……。

逆に、うつ病の人とか、落ち込みやすい人というのは、自分を量るはかりが、他の人を量るはかりよりも非常に厳しいでしょう。そのために、必要以上に自分を責めてしまったり、自分の人生を肯定できなかったりします。

ダブルスタンダードは、人を苦しめ、自分を苦しめます。イエスさまは、自分を量るはかりと、他人を量るはかりは同じなのだとおっしゃいました(2節)。

自分を省みよう

イエスさまは、まず自分を省みてごらんとおっしゃいます。自分の中にも悪があり、不完全なところがあると認めなさいと。そうすると、何か自分の方が相手よりも高いところにいるかのような言い方で、自分が相手よりも人間として上等であるかのような言い方で、責めることはできなくなるはずです。

それどころか、自分も相手も、自分の中の悪、不完全さ、罪と必死に戦い、聖められようと奮闘努力している途上なんだと思えるようになり、相手のことを戦友のように身近に感じ始めます。だから、仮に相手の好ましくない行動や態度を指摘し、改めるように言わなければならないとしても、相手を攻撃し、その反対に自分は正しいのだということを証明するためでなく、あくまでも相手を励ますため、相手を助けるためという態度を貫くことができるようになるでしょう。

私たちの中にあるダブルスタンダードを取り払って、聖書を唯一の基準にしながら、謙遜に自分や他の人とつきあっていきたいですね。

2.エネルギーの無駄だから

豚に真珠

相手をさばくことは、エネルギーや時間の無駄です。6節を読みましょう。犬や豚に良いものを与えても、彼らはそれをありがたく受け取るどころか、あなたに危害を加えることでしょう。

それと同様に、あなたが他の人の過ちを責めても、その人たちはあなたの指摘を受け取るどころか、逆恨みをして、あなたにひどいことをするかもしれません。言っても無駄だからやめなさいというわけです。

何も言ってはいけないの?

では、問題行動をしている人に、一切何も言ってはいけないのでしょうか。パウロの手紙を読むと、相当きついことを言って、他の人の問題行動を指摘している箇所があります。旧約聖書の預言者たちも、時に他の人の悪を厳しく弾劾しました。当のイエスさまだって、ユダヤの指導者たちを激しく戒めています。

6節は、相手が問題行動をしても、言っても無駄だから一切関わるなということを意味しているわけではありません。その意味するところは、「相手を犬や豚のように見下げる心があるうちは、相手を責めてはいけない」ということです。

日本では、犬や豚をペットとしてかわいがっていらっしゃる方も多いですが、この箇所は、犬とか豚とかいう言葉を、明らかに良い意味では使っていません。特にイスラエルでは、豚は汚れた動物として忌み嫌われていました。そんなふうに、相手を見下げているなら、責めてはいけないというのです。

あなたはいかがでしょうか。誰かに「私はあなたが大嫌いだ。あるで犬畜生のようなろくでもない奴だ。だから、世のため人のために、こういうふうに性格を改めたらどうだ」なんて言われて、素直に聞けますか? 当然反発なさるのではないでしょうか。忠告を「足で踏みにじり、向き直って相手を引き裂く」、そんな気持ちになるでしょうね。

神さまの視点

神さまは、罪人であり、敵であるはずの私たちを、犬や豚のように見下げたりはなさいませんでした。むしろ、神の子どもたちと呼んでくださっています。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです」(第1ヨハネ3:2)。そして、神さまは子どもたちである私たちに、良いものを与えてくださいます(11節)。

たとえ厳しいことをおっしゃったとしても、それは私たちを見下げたり、バカにしたりしてのことではなく、私たちが正しい生き方をすることで、本当の幸せを手に入れてもらいたいという、純粋な愛から出ていることです。「あなたはこんなにもすばらしい存在なのだ。なのに、そのすばらしさを台無しにしている。もったいないことだ。だからこういう生き方をしておくれ」という関わりをしてくださっているのです。

私たちも、まずは他の人を犬や豚のように見下げる心から解放させていただきたいと思います。そのためには、まず私たち自身が、神さまから無条件に高く評価されているんだということを知ることです。私たちが自分の価値を知れば知るほど、他の人の価値にも気づくことができるようになります。人の欠点や問題を指摘するのは、それからです。

3.黄金律に従わなければならないから

黄金律

12節は黄金律(ゴールデンルール)と呼ばれ、聖書の中にある様々な命令の要約の一つです。それによれば、私たちは、自分が他の人からしてもらいたいことを実践するように勧められています。

あなたはどうでしょうか。「お前なんかダメだ。だって〜だし、〜だし、〜だから」というふうに見下げられたり、罵倒されたりしたいでしょうか? むしろほめられたり、励まされたりしたいのではないでしょうか? だったら、他の人にもそうしなさいとイエスさまはおっしゃいます。

アメリカで一時代を築いたゴルファーのジャック・ニクラウスは、愛妻家としても知られています。彼は、自分がゴルファーとして成功したのは妻の支えがあったからだと語っています。あるとき、ジャックがスランプに陥ったとき、奥さんは彼のフォームが微妙に違っているのに気づきました。右肩が下がっているのです。それを指摘しましたが、「右肩が下がっているからダメなのよ」とは言わず、「右肩をもう少し上げて打つとかっこいいわ」と言ったとか。

日本人の特性

以前も申し上げたことがありますが、日本の教育というのは、ダメなところ、足りない所を見つけて、それを矯正するというやり方がメインでした。これ自体は、非常に効率がいいので、悪いやり方ではないのですが、こういうやり方ばかりで育っている者ですから、人や物事の悪い面、直さなければならない面に、ことさら注目する癖が付いています。

そうすると、口から出る言葉は、相手をさばく言葉になってしまうでしょう。また、自分も相手の言動にいちいちイライラすることになってしまいます。

悪いところを直すやり方は、もう十分訓練を受けてきましたから、神さまに新しいやり方も教えていただき、それを身につけさせていただきましょう。

あら探しの人生から宝探しの人生へ

それは宝探しの生き方です。

人のあら探しではなく、むしろ良いところ探し、宝探しを私たちの日常にしましょう。意識して、自分や他の人の良いところを探しましょう。そして、それを相手に伝えましょう。

天の父なる神さまが、私たちのことをあくまでも祝福し続けてくださるように、その神さまの子どもである私たちの内側からも、他の人に対して、呪いではなく祝福の言葉があふれ出ますように。

まとめ

さばいてはいけないとイエスさまはおっしゃいました。それは、私たちが幸せに生きるための知恵です。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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