いやし主イエス

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マタイによる福音書8章1〜10節

(2009.7.26)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

今日の箇所に書かれているように、イエスさまは、病気や障害を抱えている人を、数多くいやされました。いやしは単に病気やけがにとどまりません。心の問題や人間関係のもつれ、経済的、あるいは社会的な問題など、あらゆる領域で、神さまが人間を祝福してくださる、その本来の姿へと戻してくださいます。

あなたは今、どんな問題を抱えていますか? イエスさまは、それを解決する知恵と力をお持ちです。

今日は、イエスさまのいやしの力を体験するために、必要な心の態度について学びましょう。

1.愛を信じる

遠慮がちなお願い

1-4節に登場する重い皮膚病(ツァラアト)の患者は、イエスさまが病気をいやす力があるということは信じていました。だからイエスさまのところにやってきたわけですし、「あなたは、私をきよめることがおできになります」と、口に出して告白もしています。

しかし、ここを読むと、なんだか遠慮がちだなあと思われませんか? 「もしも、あなたがそう思われるのでしたら……」だなんて。「もしも、いやだとおっしゃるなら、仕方がありませんが……」というふうにも聞こえる言い方です。

聖書に出てくる他の人たちは、道ばたで「あわれんでください」と叫んだり、断られても断られても、しつこく頼み続けたりしています。元々ユダヤの人たちは、非常に率直な民族なのです。だから、この病人も、いやして欲しければ、「いやしてください」「きよめてください」と、もっとストレートにお願いすればいいのに。

この病人は、イエスさまに病気をいやす力があることについては信じていましたが、その力を自分のために個人的に使ってくれるかどうかについては、確信がありませんでした。力は信じていましたが、愛については確信がなかったのです。

しかし、イエスさまの愛に確信が持てなかったのは、これまで彼が世間から受けてきた仕打ちに原因があります。

ユダヤの律法(ユダヤ人が守るように神さまから定められた命令)によれば、ツァラアトの皮膚病にかかった人は、神殿の祭司によって「汚れている」と宣言されて、町の外に住むよう命じられ、礼拝などの宗教行事への参加や、他人との接触がかなり制限されました。

これはおそらく感染を防ぐための措置であって、「汚れている」というのは、決してその人の人格が汚れているわけでも、人間として他の人よりも劣っているというわけでもありません。

ところが、世の人々は、温かい同情やケアを必要としているツァラアトの患者たちを、まるで神さまに呪われた極悪人であるかのように扱いました。そして、様々な差別的な扱いをし、石を投げつけて町から追い出しました。家族からさえも見放される人が多かったのです。この点は、ハンセン氏病の場合と似ています。

そう言う苦い経験を、いやと言うほど味わわされてきたこの病人は、イエスさまが自分を哀れんでくださると、100%確信することができなかったのです。全面的に信じて裏切られれば傷つきます。だから彼は、「あなたがそう思われるのでしたら」というような、持って回ったような言い方をしたのでした。

触れていやしたイエス

病人の遠慮がちなお願いを聞いたイエスさまは、わざわざ彼に近づき、手を伸ばして彼に触って、「これが私の心だよ」と言ってツァラアトをいやされました。

律法によれば、汚れていると宣言された人に触れると、触れた人も汚れてしまい、一定期間社会生活や信仰生活が制限されてしまいます。そこで、特に宗教的指導者たちは、汚れに対して非常に敏感で、ツァラアトの患者に触れることなど、考えられないことでした。

しかも、イエスさまは、本当はいやしをするのに近づいたり、触ったりする必要がありません。次に出てくる、百人隊長のしもべの場合には、何キロも離れているのに、言葉一つでいやしておられます。

それなのに、なぜイエスさまは病人に触れたのでしょうか。それは、「私はあなたを汚いとか、ダメな奴だとは思わない。大切な神の家族だと思っている。私に力があるということだけでなく、私があなたを愛していて、喜んであなたを幸せにしたいと思っているということも信じておくれ」ということです。

イエスさまは、この病人の体の痛みも取り除いてくださいましたが、心の痛みも取り除き、他の人の愛を信じて受け取る力を取り戻させてくださったのです。

愛を信じよう

イエスさまは、どんなに不可能に見える奇跡でも、簡単に行なうことができると信じていますか? それと同時に、イエスさまは、あなたが幸せになるためだったら、必要なら奇跡を行なってでもあなたを助けてくださると信じていますか? それだけ、あなたのことを愛しておられるのだということを。

自分は、神さまに祝福されていて、地上でも天国でも幸せになることができる……そう宣言しましょう。もしも、「でも、私は他の人と違って、それほど祝福されないかもしれない」という気持ちがあるなら、それをじっくりとイエスさまに聞いていただきましょう。そしてイエスさまの愛を、もっともっと信じられるようにお願いしましょう。

2.権威を信じる

百人隊長がほめられたわけ

百人隊長は、しもべのいやしをイエスさまに願いましたが、わざわざ訪問していただくには及ばない。ただ「いやされよ」という言葉だけで十分だ、それだけで病気はイエスさまの言うことを聞いて治ってしまう、イエスさまにはそう言う権威があるのだから……と言いました。

これを聞いたイエスさまはびっくりし、「こんな信仰の立派な人は、イスラエルの中にもいない」と、百人隊長を絶賛なさっています。

権威とは、他の人を、その人がたとえいやだと思っていたとしても動かすことができる力のことです。

百人隊長は、イエスさまには病気や悪霊たちに言うことを聞かせる権威があるということを認めました。すなわち、イエスさまこそ、この世で最も権威ある存在、王の王、主の主であると信じていたのです。そういうお方だから、奇跡なんて難しくも何ともないのだと。

小さな頭で制限しない

権威に満ちたイエスさまの命令は、病気でも悪霊でも従います。イエスさまに不可能はありません。

私たちが祈るとき、イエスさまは大変な権威者だということを頭に置いて祈るべきです。私たちの小さな頭で、イエスさまの権威、イエスさまの力の大きさを値引いてしまってはなりません。

イエスさまの権威を一番にする

あなたは、イエスさまよりも、訳の分からない運命などというものの方が力があると思っていませんか? 聖書がなぜ占いを禁じているかというと、それはイエスさまよりも運命の方が力があるという態度だからです。

聖書は、先祖を誇りに思い、折に触れて思い出し、感謝を表すことを禁じていません。しかし、先祖を礼拝し、先祖に何かを願うことは禁止しています。それはイエスさまの権威をないがしろにする行為だからです。先祖だけではありません。イエスさまよりも、先祖とか天使とか幸運の石とかお札とか、そう言ったものの方が力があると思っているとすれば、それはイエスさまに対して失礼です。

イエスさまこそ、王の王、主の主。最も権威あるお方、最も力あるお方、最も頼りになるお方。いつもそのように告白しましょう。そして、それを心から信じられるよう聖霊にお願いしましょう。

3.人格を信じる

奇跡より大事なもの

この二つのいやしの記事を通して、私たちが学ばなければならない教訓は、私たちが重視すべきは、奇跡そのものではなく、奇跡を行なわれるイエスさまという「お方」だということです。

私たちは、問題が起きたときに、解決を求めて祈ります。必要なら、奇跡を見せてください、というふうに。そして、奇跡が起きて、私たちの願い通りに問題が解決すれば喜び、そうでなければがっかりします。

奇跡というのは、びっくりするようなできごとですから、ついつい関心を奪われてしまいます。そして、ともすれば、奇跡を行なわれるイエスさまご自身の印象が薄らいでしまうこともあります。極端な話、奇跡を行ない、自分の願いを聞いてくれるなら、別にイエスさまじゃなくてもいい。

神の民であるユダヤ人は、イエスさまの奇跡の力、その表面的なすごさに目を奪われていましたが、百人隊長は、もっと本質的なところに注目しました。それは、イエスさまというお方がどういう方かということでした。ただの人ではない、神さまから使わされた救い主、王の王、主の主、ものすごい権威を持っておられるお方だと。病気や悪霊だけでなく、この私たちもまた、この方に従い、お仕えすべきだと。

ツァラアトの病人は、イエスさまの力には注目していました。しかし、イエスさまが自分のことを愛し、大切に思ってくださっているという、その心には注目していませんでした。しかし、イエスさまは、この人と愛の交わりがしたいと思われました。だから、ただ単に病気をいやしただけでなく、ご自分がいかに彼のことを大切に思っているかを知らせたのです。

奇跡はすばらしいですが、もっと大切なのは、私たちの幸せを願って行動してくださるイエスさまご自身です。そして、イエスさまは私たちと、人格と人格の交わりをしたいと願っておられます。

人格的な交わりとは

家内がおいしい料理を作ってくれたとします。私はおいしい料理に感激します。しかし、もっと大切なことは、私のために腕をふるってくれた、家内に対して、感謝と賞賛を送ることではないでしょうか。

料理そのもの味が最も大切なのであれば、別に作るのは家内じゃなくていいでしょう。隣の奥さんでも、コンビニの弁当でも、レストランのデリバリーサービスでも。

人と人とが人格的に交わり、愛し合い、共に生きていくとは、どういうことでしょう。それは、物のように取り替えることが不可能だということです。あなたが会社を辞めたとしたら、あなたの仕事を別の人が代わりに行なうことはできます。しかし、誰もあなたの代わりにはなれません。あなたでなければならない、そして私でなければならない、そういう関係こそ、人格的な交わりです。

私たちはそういう関係を求めているのではないでしょうか。別に、自分じゃなくてもいい、いつでも別の人に変わってもらってもいい。そういう関係をあなたは求めますか?

イエスさまの願い

イエスさまもまた、ご自分が人格として扱われ、またあなたを人格として扱いたいと思っていらっしゃいます。他の人ではなく、あなたと交わりたいのです。あなたを大切にしたいのです。あなたを幸せにしたいのです。

そして、イエスさまはあなたにも、イエスさまのことを一番にして欲しい、取り替え不可能な、大切な存在として扱って欲しいと願っています。

問題について祈ってもいいのです。奇跡を求めて祈ってもいいのです。しかし、いつの間にか、私たちの祈りが、問題だけに焦点が合ってしまっていませんでしたか?

今日も、イエスさまについて教えてください。そういう祈りを意識して捧げましょう。イエスさまについて知れば知るほど、百人隊長のように大胆になることができます。

まとめ

イエスさまはいやし主です。イエスさまについて学びましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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