どちらがやさしいか

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マタイによる福音書9章1〜8節

(2009.8.2)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

「罪」は、聖書の大切なテーマの一つです。これが分からないと救いも分かりません。救いとは、罪からの救いですから。今回の箇所で、イエスさまは罪について何を教えてくださっているでしょうか。

1.私たちには罪の問題がある

罪とは何か

イエスさまは、体のいやしのために連れてこられた病人に対して、「あなたの病気はいやされた」と宣言したのではなく、「あなたの罪は赦された」とおっしゃいました。

罪とは、神さまに対する反逆です。神さまの望まれることをしたくない心、神さまの喜ばれないことをしたいと思う心、自分を罪へと引き寄せる性質が、私たちの中にはあります。いつもの説明を使えば、罪の性質とは「自分のしたいことを、自分のしたいときに、自分のしたいようにやりたがる心」のことです。自己中心と言ってもいいでしょう。

この自己中心が、自分自身を粗末にし、他人を傷つけ、世界を住みにくい場所へと変えています。私たち人間の抱える問題の根本は、罪なのです。

因果応報ではない

イエスさまは、中風の病人に対して、「あなたの罪は赦された」と宣言しました。それだけ、イエスさまが罪の問題を重視しておられる証拠でしょう。しかし、このことから、この人の病気が、罪の結果として起こったと考えるのは早計です。

もちろん、不摂生の結果病気になるとか、自己中心的な言動を繰り返した結果、人間関係が破綻するとか、自分の間違った行動や態度によって、問題を引き起こすことはあります。しかし、問題のすべてが、その人の特定の罪の結果として起こるわけではありません。

むしろ聖書は、単純な因果応報の考え方には否定的です(ヨハネ9章、ルカ13:1-5など)

因果応報の考え方は、苦しむ人たちをさらに苦しめます。私たちはいつの間にか因果応報の考え方に染まっていなかったでしょうか。

罪の問題は重要

すべての問題が因果応報によってもたらされるわけではありません。しかし、イエスさまは、体のいやしよりも、罪の問題の解決の方を優先なさったようです。罪の問題は、人間にとって最重要な課題だからです。

たとえ病気が治っても、その人はいずれ死にます。魂の問題、永遠のいのちの問題に解決がなければ、たとえ全世界を手に入れても無意味です。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得があるでしょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」(マタイ6:26)。

罪は神さまを悲しませ、神さまの権威をないがしろにすることです。当然のことながら、神さまとの関係は切れてしまいます。祝福の源である神さまとの関係が切れてしまっては、私たちは地上であれあの世であれ、本当の幸せを手にすることはできません。

イエスさまは罪の問題に人々の目を向けました。そして、聖書の中には「罪」という言葉や事例が満ちあふれているのです。そういう箇所は、決して、読みやすくはありません。しかし、真の幸せや祝福を味わうためには、罪の問題を避けて通ることはできません。

2.罪はイエスによって赦される

解決があるから

誰も罪などというような言葉は聞きたくないし、考えたくもないでしょう。愛とか祝福とか繁栄とか幸せとか成功とか、そういう言葉なら聞きたいかもしれませんが。

「神は愛である」と聖書には書かれています。神さまはあなたを愛しておられます。ですから、「あなたには罪がある」と神さまが指摘なさるのは、あなたを責めて傷つけるためではありません。

先日、山歩きが趣味の女性の体験談を聞きました。その人は山歩きに慣れていましたので、結構険しい山道を一人で歩いていたそうです。すると、途中で一人の男性登山者とすれ違いました。

しばらくしてその男性が引き返してきて、後ろから声をかけてきました。そして、この道を進むと遭難しますよと教えてくれたのでした。この男性とすれ違った後、間違った道に入り込んでしまったのです。そして、この男性に連れられて、無事に国道まで出ることができたのでした。

この男性は、言ったそうです。「こんな人気のないところで女性に声をかけるなんて、変質者だと思われるかと心配しましたが、あの場所は迷いやすいところなので、放っておけませんでした。やっぱり、思い切って引き返してきて良かった」と。

神さまが罪を問題になさるのは、あなたを助けたいと思っておられるからです。そして、この登山者の男性が、正しいルートを知っていたように、そこに解決があり、どう解決したらいいかを神さまがご存じだからです。

神さまは、罪の問題を解決し、あなたを幸せにしたいと願っておられます。

罪は神にとっての問題

罪とは、自己中心だと言いました。もっと言えば、神さまを神の座から引きずり下ろし、自分が神さまの座に座ることです。

神さまは人を愛しているのに、その愛する者に「お前なんかいらない。用があるときだけ呼ぶから、そのときに願いを聞け。それ以外は口出しするな」と言われているようなものですからね。

それは、神さまに対する失礼であり、神さまを傷つけることです。罪の結果、人は自分も他人も世界も傷つけますが、第一に傷ついているのは神さまなのです。

ですから、人を罪に定めたり、その罪を赦したりできるのは神さまだけです。律法学者たちが「罪は神さまだけが赦せるのに、このイエスという人は、神を汚している」と心の中でつぶやいたのは、ある意味正論です。

神さまのみが、あなたの罪を赦すことができます。社会の評価も、教会の宣言も、牧師による保証も、何かの償いも、あなたの実感も、何も関係ありません。ただ、神さまが赦すとおっしゃって初めて、あなたの罪は赦され、神さまとの関係が修復されるのです。

イエスの宣言

にもかかわらず、イエスさまは「あなたの罪は赦された」と宣言なさいました。これは大変な越権行為だと学者たちは考えましたが、イエスさまは自分にはそうする権威が与えられていると反論なさいました。

それは、イエスさまが人となってこられた神だからです。また、私たちの罪が赦されるために、罪の罰を身代わりにおって、十字架にかかってくださったからです。

イエスさまは、病人の連れてきた人々の信仰をごらんになって赦しを宣言なさいました。今も昔も、赦しを受け取り、神さまとの関係を修復する秘密は信仰です。「イエスさまが私の罪の身代わりとなってくださった。だから、私は赦されている」と信じる信仰です。

どうでしょうか、簡単でしょう? だから、あなたも今ここで救いを受け取ることができます。もし、まだイエスさまを信じる告白をしたことがないという方は、今「信じます」と祈ってみませんか?

3.罪は完全に赦される

結局どちらがやさしいの?

イエスさまは、「いやされた」と宣言するのと、「赦された」と宣言するのと、どちらがやさしいかと、学者たちに尋ねました。答えがはっきり語られていませんので、聖書を初めて読む方は、よくここで迷うようです。私も、しばらく答えが分かりませんでした。

自分だったらどうかなと考えてみました。私なら、赦しの宣言の方が簡単だと思います。なぜなら、赦しというのは内面的なものなので、赦されたかどうかすぐには結果が見えません。しかし、病気のいやしの場合には、症状が取れるか取れないか、一目瞭然です。「いやされました」と宣言したのに、症状が残っていたら、私は恥をかくことになります。

だから、普通は「赦しの宣言の方がやさしい」ということになるでしょう。

イエスにとっては

しかし、イエスさまにとっては逆です。神の霊である聖霊に完全に満たされているイエスさまにとって、奇跡を行なうというのは難しくも何ともありませんでした。実際、生まれつきの病気をいやしたり、悪霊を追い出したり、嵐を沈めたり、湖の上を歩いたりと、様々な奇跡をいとも簡単に行なっておられます。

しかし、罪の赦しを宣言することは、イエスさまにとっては簡単なことではありません。ただ口先だけで言うなら簡単でしょうが、イエスさまはその保証のために、ご自分の命を犠牲にしなければなりませんでした。

なぜ私たちの罪が無条件で赦されるのでしょうか。それは、イエスさまが、私たちの身代わりに罰を受けてくださったからです。イエスさまが「あなたの罪は赦される」とおっしゃれば、死ななければならないのです。ただ死ぬだけでなく、永遠の昔から共におられた父なる神さまから切り離されなければならないのです。それは大きな苦しみであり、痛みです。

完全な宣言

イエスさまの「あなたの罪は赦された」という宣言は、決して気休め程度の、口先だけの宣言ではありません。文字通り、命がけの宣言だからこそ、「あなたの罪は赦された」というイエスさまの宣言は完全なのです。

そのことを人々に知らせるために、イエスさまは中風の人のいやしを宣言なさいました。「あなた方は、いやしの宣言の方が難しいと思っているでしょう。本当は逆なんだけれど、あなた方に分からせるために、あなた方が難しいと思っているいやしを簡単に行なって見せよう。それによって、私の赦しの宣言が本当だということを信じて欲しい」ということです。

人はあなたのことをいろいろと評価するでしょう。自分でも自分を見て、いろいろと評価するでしょう。悪魔も、あの手この手で、あなたがダメな人間で、幸せになんか慣れるはずがないと信じ込ませようとするでしょう。

しかし、もう誰もあなたを罪に定めることはできません。あなたの罪は赦されました。そして、神さまの子どもとされ、神さまの祝福を無限にいただくことができる身分となりました。

それを信じるとき、あなたの人生が変わります。

まとめ

イエスさまの赦しの宣言を、重く受け止めましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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