真剣に、しつっこく

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マタイによる福音書15章21〜28節

(2009.10.4)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

イエスさまは、カナン人の女性の求めに、なかなか応じてくださいませんでした。しかし、彼女はあきらめないで求め続けました。ここに、祈りの極意を見ることができます。彼女が最後まであきらめなかった理由は何でしょうか。

1.問題をしっかり見ていた

真剣だった

カナン人の女性は、娘のいやしを真剣に願いました。真剣だったからこそ、途中であきらめることがなかったのです。イエスさまは、その真剣さに打たれて、願いを聞き届けてくださいました。

他人事ではなく、自分の問題として捉えるとき、人はその問題に対して真剣に取り組み始めます。このケースで、問題を抱えていたのは誰でしょうか。悪霊にとりつかれて苦しんでいたのは、カナン人の女性ではなく、その娘でしたね。

しかし、この女性は、「私を」あわれんでくださいと願っています。他人の問題のはずなのに、自分の問題として願っていたのです。

逆のケースに注意

他人の問題を自分の問題として捉えるということを申し上げたわけですが、私たちはしばしば、その逆のパターンに陥ることがあるので、注意が必要です。

それは、本来自分の問題なのに、それに気がつかないで、他人の問題のように捉えてしまうというということです。そうすると、本来他人の問題であって、自分には関係がないはずなのに、すっかり振り回されてしまい、他人の言動に一喜一憂してしまうことになります。

たとえば、小学生の子どもが不登校になってしまったというお母さんがいらっしゃいました。お母さんはすっかり気が動転してしまって、何とか子どもを学校に行かせようと、口うるさく関わります。その結果、子どもはますます自信をなくして、学校に行くエネルギーを奮い立たせることができなくなってしまっているのです。

学校に行く、行かないというのは、本来子どもの問題です。ちなみに、問題というのは、悪いということではなく、困っているという意味です。

では、子どもの不登校によって引き起こされた、お母さん個人の問題は何でしょうか。子どもが学校に行かないことで、どうしてお母さんは困っているのでしょうか。

それは、子どもが学校に行けなくなったのは、自分の子育てが間違ったせいではないか、自分は母親として失敗者なのではないか、さらには人間として失敗者なのではないか、という不安が生まれたということです。

その、自分自身が抱えている不安が見えていれば、このお母さんは自分の不安を解消するための手当をすることができ、その結果、もう少し余裕をもってお子さんに接することができるでしょう。

見えていた女性

カナンの女性は、娘の問題を自分の問題として捉えていました。しかし、自分の問題を娘の問題にすり替えていたのではなく、自分の抱えている問題が何なのかということが、ちゃんと見えていました。

愛する大切な娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいるのを見て、彼女は母親として悲しみました。苦しみました。助けてあげられない自分を不甲斐なく思いました。だから、「私をあわれんでください」と、イエスさまに申し上げたのです。

よく考えれば他人の問題なのに、振り回されてしまうことがありますね。あなたはいかがですか? 振り回されているということは、あなた自身に困っていることがあるということです。それは何でしょうか? それを見つけ出して、「私を助けてください」と祈りましょう。

2.希望をしっかり見ていた

他に助けなし

この女性は必死でした。どんなにイエスさまに冷たくされても、弟子たちにうるさがられても、決してイエスさま一行のあとを離れず、叫び続けました。それは、イエスさまに見捨てられたら、他に助けがないからです。それが真剣さ、しつこさを生み出しました。

大切なのは、大声で叫ぶことではなく、必死に願うということです(もちろん、人間は全人格的な存在ですから、大きな声で叫ぶ祈りによって、逆に真剣さが引き出されるという側面があります。ですから、その意味では、大きな声で叫ぶ祈りにも意味があります。やったことのない方は、一度お試しください)。

イエス以外の保険

私たちは、イエスさま以外に保険をかけていないでしょうか。ここで言う保険とは、金融商品としての保険のことではありません。イエスさまに祝福してもらえればうれしいけれど、ダメでもまあ、他の手があるさと、心のどこかで「別の救い主」を用意してはいないかということです。

私の母教会の牧師夫人が、あるメッセージでこうおっしゃいました。「祈りが聴かれないのは、私たちの信仰が弱いからではなくて、逆に強すぎて、本当は神さまを必要としていないからなのではないでしょうか」と。

八方ふさがりは奇跡の入り口

このカナンの女性には、イエスさましかいませんでした。きっと娘を助けるために、これまでもいろいろ手を尽くしたことでしょう。医者に連れて行き、拝み屋さんのような所にも連れて行き、それでもダメだったのです。八方ふさがりです。

しかし、そこにイエスさまがやってこられました。彼女にとっては最期の希望でした。だから、多少冷たくされた程度であきらめるわけにいかなかったのです。何日でも、何週間でも、何ヶ月でも、後をついて行って願い続ける覚悟でした。

皆さんも、八方ふさがりで、もうどうしようもないという状況に置かれることがありませんか? それでも、どんなときでも、上は開いています。八方ふさがりの時は、いよいよ真打ちであるイエスさまが登場する番です。

あなたの人生も、必ず、大丈夫です。

3.愛をしっかり見ていた

イスラエルの滅びた羊のため

イエスさまは、カナンの女性の願いに対して、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません」とお答えになりました。イスラエルの滅びた羊というのは、ユダヤ人のことです。

さらに願い続ける彼女に対して、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」とおっしゃっています。子どもたちというのはユダヤ人で、小犬はユダヤ人ではない民族、異邦人のことです。

これらの、一見ひどい言葉の意味を理解するには、神さまがお立てになった「救いの基本プラン」を理解する必要があります。

罪のために、人類は神さまから切り離され、裁きを受ける身となりました。しかし、神さまは人類を深く愛しておられるので、裁きを下して滅ぼしたくはないと思われました。そして、人の罪を取り除き、神さまと人との関係を回復する、人類救済計画をお立てになりました。

その計画に基づいて、神さまはアブラハムという一人の人物を選ばれます。そして、彼とある契約を結ばれました。それは、神さまがアブラハムとその子孫(ユダヤ民族)を大いに祝福するという契約、そして、ユダヤ民族を通して、すべての民族、すなわち全人類を祝福するという契約です(創世記12:1-3)。

ところが、代々のユダヤ人たちは、自分たちの使命を忘れてしまうことがしばしばでした。それどころか、自分たちユダヤ人は神に選ばれた優れた民族で、それ以外の人々(異邦人)は神に呪われているというふうに考える人たちが出てくるようになりました。イエスさま時代のユダヤ人の多くは、そう考えていたのです。

これでは、人類救済計画は、なかなか進展しません。そこで、神さまは、多くの預言者を送って、ユダヤ人たちにアブラハム契約の使命を思い出させようとなさいました。しかし、なかなか理解されなかったのです。

そういうわけで、イエスさまも、人類救済計画を進めるに当たって、最初にユダヤ人の信仰を立て直すところからお始めになりました。最初にイエスさまに従った弟子たちはみんなユダヤ人でしたし、初期の教会のメンバーも、ほとんどがユダヤ人でした。

それから、ユダヤ人のクリスチャンを通して、異邦人がイエスさまを信じるようになり、やがてイエスさまを信じる信仰は、世界中に広がっていくようになりました。そして、今も広がり続けています。

使徒パウロは、異邦人に伝道することを使命としていた伝道者ですが、彼も新しい町に入ったときには、ユダヤ人の会堂を探して、そこでメッセージを語るところから伝道活動を始めました。「まずユダヤ人の回復。そしてユダヤ人を通して、異邦人がまことの神と出会う」というのが、救いの基本計画だからです。

そんなの関係ない

ですから、決してイエスさまは、異邦人を軽蔑したり差別したりしているわけではありません。

しかし、そのような神学的な理屈は、今娘が悪霊によって苦しんでいる母親にとっては、まったく意味がありません。要するに「あなたの娘は治してやらない」と、冷たく拒否されたのと同じですね。

それでも、この女性は願い続けました。それは、表面的には冷たく見えても、イエスさまは決して冷たい方ではないということを信じていたからです。「イエスさまは、必ずこの私をあわれんでくださった、私の大切な娘を助けてくださる。イエスさまはそういう愛の方だから」というふうに、この女性はイエスさまの愛に、希望を置いていました。

「小犬でも、主人の食卓から落ちるパンくずはいただけるではありませんか」という言葉は、パンくず程度のものでも、娘をいやすには十分であるという、イエスさまの力への信頼の表れであると同時に、「まして、あなたが私をお見捨てになるはずがありません」という、イエスさまの愛に対する強い確信と信頼が込められています。
子犬でさえもらえるんだから
そこでイエスさまは感動なさいました。ああ、あなたの信仰はなんて立派なんだろう!」と。

信頼に基づく祈り

祈りには、信仰が必要です。信仰とは、すなわち神さまへの信頼です。神さまの力を信頼するのは当然ですが、その愛にも信頼を置きましょう。

神さまはあなたを愛しておられ、あなたを良いもので満たそうとしておられます。そのことを信じますか? たとえ、神さまがあなたの祈りになかなか答えてくださらなかったとしても、それでも信じ続けますか?

神さまの愛を信じるなら、祈りがなかなかかなえられないことには、どんな意味づけができるでしょうか。神さまは、もっと別の助けを用意しているのかもしれません。最高のタイミングを待っておられるのかもしれません。私たちの忍耐力を鍛えておられるのかもしれません。

今回、イエスさまはなかなかカナン人の女性の願いを聞いてくださいませんでした。しかし、そのおかげで、私たちは、神さまの救いの計画について学ぶことができたし、何より彼女のすばらしい信仰について知ることができ、それによって祈りの極意を学ぶことができました。

とにかく、神さまが私たちを愛しておられるのなら、祈りがかなえられなかったり、ずいぶん待たされることにも意味があるはずです。たとえ、その意味が今は分からなくとも、愛を信じて祈り続けましょう。

まとめ

カナン人の女性のように、イエスさまの愛を信じて、真剣に、しつこく、祈り続けましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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