偽善者への愛

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マタイによる福音書23章37〜39節

(2009.11.29)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

ここには、私たちを赦し、新たな人生を送るよう励ますイエスさまの姿が描かれています。

1.糾弾するイエス

パリサイ派

23章の前半で、イエスさまは、パリサイ人や律法学者たちを激しく非難しておられます。よくぞここまでと思うほどの罵詈雑言です。

パリサイ派というのは、ユダヤの宗教的グループのひとつです(他に、サドカイ派、エッセネ派などの存在が知られています)。

かつて、イスラエルは、神の教えをないがしろにし、様々な不正や偶像礼拝にまみれ、そのためにバビロンによって国が滅ぼされてしまいました。

70年後、神さまの憐れみにより、バビロンから解放され、ユダヤ人たちはイスラエルの国を再興しました。そのとき、今度こそ神の教えを忠実に守ろうという気運が盛り上がりました。

パリサイ派は、この伝統を受け継いで、BC2世紀頃に誕生しました。その特徴は、神さまの定めた律法を厳格に解釈し、それをできるだけ忠実に実行しようとする態度です。

パリサイ派の変質

もともとは良い動機で始まったグループでしたが、その後だんだんと変質していきます。すなわち、行ないによって人は救われるのだという考えて、律法を厳格に守るために、聖書には書かれていないような様々な細かい教えを作り上げ、それを守るように人々を教えました。

特にイエスさまは、彼らが表面的には立派な言動をしているけれども、心が伴っていないと非難なさいました。特に、人々の尊敬を集めるために、わざと人目につくように善行をする態度、あるいは、彼らが民衆や外国人を神に呪われた者たちとしてさげすんでいることを、激しく攻撃なさいました。

イエスの願い

イエスさまは、罪人たちを罪人だという理由では、決して非難罵倒したりしておられませんが、ことパリサイ人たちのこととなると、このように激しい対決姿勢を見せておられます。

それは、神さまは、罪人たちを赦そうとしておられるのに、彼らのそのような態度によって、かえって罪人たちが絶望し、神さまから遠ざかってしまうからです。

イエスさまの願いは、神さまから離れていた人たちが、もう一度神さまを見出して、神さまとの関係を回復することです。そして、私たちが、一瞬一瞬神さまと交わり、神さまから知恵と力をいただきながら、生き生きと喜びに満ちて生きていくことです。

だから、それを邪魔するものに対して、イエスさまは激しく怒られました。

あなたの周りには、あなたが本当の幸せを感じることがないように、邪魔をするものがありませんか? それは人かもしれませんし、状況かもしれません。そして、その背後には、私たちを神さまから遠ざけようとする悪魔の存在があります。

そのような、あなたを神さまと、神さまがくださる幸せから遠ざけようとする存在に対して、イエスさまは激しく怒ってくださいます。そして、イエスさまは私たちのために何かをしてくださいます。

あなたのためにイエスさまが怒ってくださると知るとき、あなたはどんな思いになりますか?

2.号泣するイエス

私もパリサイ人

私たちは、聖書を読み、パリサイ人を批判的な目で眺めます。しかし、正直に私自身のことを振り返った時、私もまた偽善者であり、律法主義者であったと思わざるを得ません。

私は、クリスチャンになってからも、聖書のことばを使って、「すべし・すべからず」という基準で自分や他人をさばいていました。そのため、何度もプチうつの状態に陥りましたし、たくさんの方々を傷つけてもきました。

振り返ると、恥ずかしさと罪責感で消えてしまいたくなります。何度も伝道者をやめたいと思ったし、クリスチャンをやめたいとさえ思いました。

エルサレム、エルサレム

しかし、神さまは、この私を見捨てなかったのです。私の側で、何度イエスさまを裏切っても、罪を重ねても、人々を傷つけても、それでもイエスさまは私を見捨てませんでした。こんなパリサイ人のような私を。

この前、「マタイの福音書」というDVDビデオを見ました(ライフ企画)。その中で、エルサレム神殿で、イエスさまがパリサイ人・律法学者たちを激しく非難したあと、神殿の床にしゃがみ込み、号泣なさるシーンがあります。すなわち、今回の場面です。

イエスさまは、地面に倒れ込むようにして、大声で泣き叫びます。「ああ、エルサレム、エルサレム! めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか!」 文字通りの号泣でした。

イエスさまは、激しい言葉でパリサイ人たちを非難しました。しかし、同時にイエスさまは、あのパリサイ人たちのことを、本当に愛しておられたのだなあと思いました。イエスさまは、パリサイ人たちにも、本当の幸せを知って欲しかったのです。

パリサイ人は、本当の内面の自分を見られるのを恐れて、一生懸命に表面を着飾って、良い人間だということを証明しようとしていました。イエスさまは、その心の奥底にある恐れを知っておられました。そして、何とか彼らに、神さまにそのままで受け入れられる平安を味わって欲しかったのです。だから、何とか気づいて欲しくて、厳しい言葉を投げかけもしたのでしょう。

私もあなたも愛されている

そして、イエスさまは、この私のことも愛してくださっています。もちろん、あなたのことも!

教会も、またクリスチャン個人も、もちろん牧師や宣教師も、欠けだらけです。時に偽善的になり、時に律法的になります。それでも、イエスさまに愛されています。イエスさまは、心から私たちと交わりたい、私たちを祝福して幸せになってもらいたいと願っておられます。今の私たちがどんな状態であったとしても。

3.赦すイエス

十字架の血による赦し

39節の警告は、同時に約束でもあります。これ以上ないというくらい激しい言葉でののしられたパリサイ人・律法学者たち。しかし、彼らがイエスさまを見上げ、イエスさまの存在を喜ぶ時、彼らはイエスさまに受け入れられるのです。

ユダヤの礼拝では、罪ある人間が、聖い神さまの前に出て行くために、動物や鳥を殺して血を祭壇に注ぎかける必要がありました。犠牲の動物が死ぬことで、私たちが罪の裁きを受けて死んだと見なされたのです。だから、もう裁きを恐れることなく、そのままの姿で礼拝を捧げることができました。

しかし、動物の犠牲は不完全です。だから、完全な犠牲として、イエスさまは来られました。イエスさまのことを「子羊イエス」とか「神の子羊」と呼ぶことがありますね。これは、イエスさまが私たちのために、完全な犠牲となってくださったことを表しています。

イエスさまは十字架にかかって血を流してくださいました。それにより、私たちのための犠牲となってくださったのです。

イエスさまは完全な犠牲ですから、たった一度で完全に私たちの罪を赦しました。過去の罪も、現在の不完全さも、これから犯すであろう間違いも、全部赦されました。すでに!

パリサイ人のための十字架

イエスさまは、パリサイ人のためにも十字架にかかられました。そして、その罪の罰を身代わりとして受けて下さいました。彼らもまた神さまに赦されているのです。愛されているのです。 

そして、十字架にかかり、復活して今も生きておられるイエスさまによって、自分は赦され、神さまとの交わりが再会するのだと信じるなら、彼らもまたそうなります。

彼らだけではありません。現代のパリサイ人である私もそうです。あなたもそうです。

新しい人生

自分が今あるがままの姿で、全知全能なる神さまに愛されていることを知るとき、私たちの生き方は変わります。深く知れば知るほど変わります。

どうしたら、私は自分が神さまに愛されていることを、もっともっと確信できるでしょうか。どうしたら、私の家族や、私の友達や、私が出会うすべての人に、このことを伝え、もっともっと確信してもらえるでしょうか。

あなたのしていること、語っていることは、神さまの愛を反映していますか?

まとめ

イエスさまは、私たちがどんな姿でも愛しておられます。あなたもあなたを赦し、その将来を期待しましょう。そして、さらにそれが確信できるような生活を送るよう、工夫しましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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