きよく汚れのない宗教

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ヤコブの手紙1章21〜27節

(2011.01.02)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

私たちの信仰が、単なる自己満足になったり、あるいは全く自分にも周りの人にも良い影響を与えないような虚しいものになったりしては大変です。27節にあるように、神さまがきよく汚れのない宗教であると認めていただけるような信仰のあり方は、どのようなものでしょうか。

1.実践的に聞く

みことばを聞く

22節で、ヤコブは「みことばを実行する人になりなさい」と勧めています。「ただ聞くだけの者であってはいけません」と。

まず「ただ」という言葉に注目してみましょう。ヤコブは、神さまのみことば、聖書の言葉を聞くことを軽視してはいません。むしろ、21節では、神さまのみことばを聞き、素直に受け入れることの大切さを説いています。聖書のみことばは、私たちを救い、造り変えることができます。

昨年一年間、礼拝式のメッセージ以外に、私たちはどれだけ聖書の言葉に親しんできたでしょうか。祈りの中で、どれだけ神さまの声を聞こうと、心の耳を澄ませ、傾けてきたでしょうか。
静まって聞こう
日々の忙しさの中で、私たちはついつい自分で動き回ることに時間とエネルギーを費やしてしまいます。祈りの時間を取ったとしても、神さまの語りかけを聞くのではなく、神さまにあれこれと愚痴やリクエストを聞いてもらう時間がほとんどになってしまうかもしれません。

今年はさらに意識して、一日に何度か、心を鎮めて神さまの前に出て、聖書を読み、神さまの語りかけを聞く時間を設けるようにしましょう。きっと、豊かな豊かな一日、一週間、一ヶ月、そして一年を過ごすことができます。

実践する

みことばを聞くことは大切です。しかし、聞くことそのものが目的になってしまってはいけないと、ヤコブは警告しています。

神さまが私たちにみことばを語られるとき、私たちがそれを聞いて今までの生き方を変えることを期待されています。すなわち、具体的に何かの行動をすることを期待されているのです。
実践
たとえば、聖書は「愛」をとても大切にしています。しかし、それは、ロマンチックな雰囲気に浸ることではなく、「相手に対して、具体的にどういう行動をするか」という、行動が問題にされていることが多いのです。

2:15-16でヤコブはこう言っています。「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう」。

実践的に聞こう

メッセージのアウトラインの最後に、ディスカッションための質問がいくつか書かれていますね。これは、聖書のメッセージを実践的に聞くための助けになればと思って書いているものです。

実践的に聞くというのは、聞くだけにならないで、聞いたことに基づいて、具体的に生活、行動、生き方を変えてみるということ。どんなふうに行動を替えることを神さまは求めていらっしゃるのだろかと考えながら聞く、ということです。

すでになさっているように、これからも実践的に聖書を読み、メッセージを聞きましょう。

2.自分に当てはめる

誰に語られているの?

実践的にみことばを聞くためには、そのみことばが、他でもないこの自分に向けて語られているのだと受け止める必要があります。自分自身に当てはめて、みことばを聞くということです。、

22節の「自分を欺いて」というのは、本当は自分に向けて語られた励ましであったり、警告であったりするのに、「自分には関係ないね」という態度を取ることです。すると、自然と抽象的な聞き方、実践的ではない聞き方になってしまいます。

しかし、神さまは、他ならぬあなたに向けてみことばを語られます。ですから、「このみことばはあの人に聞かせてやりたい」「この戒めは、あの人が守るべきだ」……そういう聞き方をする前に、まず自分に当てはめて聞きましょう。

■自分はどんな姿なの?
自分に当てはめて聞くというのは、語られたみことばに照らすと、いったい自分はどんな姿なのだろうと言うことを、逃げないでしっかり認めるところから始まります。

23-24節で、ヤコブは、自分を欺いて実践的な聞き方をしない人について、「その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます」と語っています。

ちらっと見るだけで、しっかり自分の現状を認めようとしないということです。

結婚式でよく読まれる聖書の箇所に、第1コリント13:4-8のみことばがあります。「は寛容であり、は親切です。また人をねたみません。は自慢せず、高慢になりません。(は)礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。(は)すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。は決して耐えることがありません」。

この「愛」のところに、ご自分の名前を入れて読んでみてください。私は途中で恥ずかしくなって読めなくなります。ということは、私は、聖書が要求するような愛の基準に、とても到達していないということです。

認めるのは痛いけれど

聖書は、私たちの本当の姿を明らかにします。それを認めることは、時に痛い思いをします。認めたくない気持ちにもなるでしょう。
こんなの自分じゃない!
しかし、自分が罪人だと言うことを認めるのはつらいことですが、罪を認めてはじめて、イエスさまの十字架による赦しと、十字架に込められた神さまの愛の深さに感動できるようになります。

自分は自分を満足に変えることができないということを認めることは惨めなことですが、それを認めてはじめて、精霊による助けを期待し、それを体験することができるようになります。

自分は弱くて限界があるということを認めることは悔しいことですが、弱さを認めてはじめて、神さまの奇跡の力に期待し、それを体験することができるようになります。

聖書は、別にだめな私たちを明らかにするだけではありません。どんなに私たちが神さまに愛されているか、どんなにすばらしい約束を与えられているか、どんなにすごい未来が待っているか……それも明らかにしてくれます。

他の誰でもありません。聖書のみことばは、あなたに向けて書かれた神さまからの個人的なラブレターです。

3.一心に見つめる

自由の律法

では、みことばを自分に当てはめて聞けるようになるためには何が必要でしょうか。25節でヤコブはこう言っています。「完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります」。

自由の律法とは、旧約聖書に書かれた様々な戒め、いわゆる「書かれた律法」ではなく、聖霊なる神さまによって私たちの心に刻まれた教えのことです。

書かれた律法、「すべし」「すべからず」という条文にとらわれるのは、奴隷のような精神です。そこには自由はなく、喜びも平安もありません。いつ間違いを指摘されてさばかれるだろうかという恐れや、どうしたら神さまを出し抜いて勝手気ままに生きられるかという、自己中心的な思いを育てます。

たとえば十分の一献金。イスラエルには、収入の十分の一を捧げるようにという律法がありました。そして、今の時代の教会の中にも、同じように、収入の十分の一を月定献金として捧げることを、規則として定めているところがあります。

教会それぞれに経済的な事情がありますから、十分の一を規則にすること自体は批判しませんが、それを「律法だから」、すなわち「神さまの命令だから」という言い方で教えることに関しては、私は強い違和感を覚えます。

私は20年ほど前からネットで活動していますが、よくそういう教会に属する人から、十分の一献金に関する質問をメールなどでもらってきました。たとえば、「十分の一というのは、給料の手取りの一割なんでしょうか、それとも控除前の金額の十分の一なんでしょうか」とか、「私は専業主婦で、夫はクリスチャンではありません。私にとっての十分の一は、何を基準にしたらいいのでしょうか」とか。

こういう質問は、所属する教会の牧師にすればいいと思いませんか? なのに、無関係の私に質問してくるというのはどういうことでしょう?

そこにはおそらく恐れがあるのです。所属教会の牧師にこんな質問をして、「手取りではなく、控除前の十分の一です」と言われたらどうしよう。「専業主婦でも、夫の給料の半分は法的にあなたの寄与分です。ですから夫の給料の(しかも手取りではなく控除前の金額の)半分の一割、すなわち5%を捧げなさい」と言われたらどうしよう……。

そして「そんなの無理です」なんて牧師に言ったら、批判されるのではないか。破門されるのではないか。何より神さまから切り捨てられ、滅ぼされるのではないかという恐れです。

さらには、もしかしたら、献金額をできるだけ少なくしたいという願いがあっての質問かもしれません。いずれにしても、こういう発想には、自由や喜びはありませんね。

律法の精神

律法の書かれた文字にとらわれると、恐れや自己中心が顔を出して、自由を失います。一心に見つめるのは、規則そのものではなく、どうしてこういう規則を当時のイスラエルに与えたのか、という理由です。

イスラエルに律法を与えた神さまの心、願い、期待と言ってもいいでしょう。

十分の一献金の戒めは、十分の一という数字に意味があるのではありません。親のいない子どもや、夫を失った未亡人、障がいを抱えた人たち、神殿で働くために自分では農作業に従事できない人たちなど、そのままでは経済的に困窮してしまう人たちを、社会全体で支えるためでした。すなわち弱者に対して、愛を実践して欲しい。それが神さまのみこころです。

現代の日本では、神殿の代わりに政府によって社会保障のための税金を徴収されて、様々な社会福祉サービスが提供されています。そんな日本で、収入の十分の一という数字にとらわれることがいかにバカげているかお分かりでしょう。しかし、教会や、個々のクリスチャンが、社会的弱者に対して愛の実践をするという、律法の精神そのもの、神さまのみこころそのものが廃れたわけではありません。

教会を通して、あるいは個人的に、社会的弱者を経済的に支えるために、自分に与えられたお金のうちから幾ばくかを捧げることは、神さまのみこころにかなっています。それが何円か、あるいは収入の何%かというのは全く重要ではありません。個々人が祈りの中で神さまと相談しながら、自由に決めればいいことです。

神さまの愛を一心に見つめる

聖書を読むとき、「すべし」「すべからず」という規則そのもの、書かれた文字にとらわれるのではなく、その背後にある神さまのみこころに注目し、そこを一心に見つめて離れないようにしましょう。
神さまの愛を見つめよう
神さまのみこころはあなたへの愛です。あなたの家族への愛、あなたの友だち、あなたの同僚、あなたの近所の人たちへの愛、そしてあなたが会ったこともないどこかの人への愛です。

そこから決して離れないようにしましょう。どのように行動したら、私や周りの人たちに対する神さまの愛というみこころにかなうだろうか……それを考えていけば、判断に迷ったときの指針になるでしょう。この一年、そんな基準で行動してみましょう。必ず、25節にあるように、「こういう人は、その行いによって祝福されます」。

まとめ

神さまのみことばとのつきあい方を、よりすばらしいものにする一年としましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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