新しい歩み

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ローマ人への手紙6章4〜5&11〜13節

(2011.4.24)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

イエス・キリストが死んで3日目によみがえったという歴史的事件は、今の私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。

1.キリストと共に

身代わり

キリスト教について、特にイエスさまについて理解するとき、とても重要な考え方が「身代わり」という考え方です。

イエスさまは、私たちの、そう、あなたの身代わりになってくださった、ということです。

イエスさまは、あなたの身代わりとしてこの地上に生まれ、生活し、死に、そして復活なさいました。

身代わりということは、イエスさまの経験なさったことは、あなたが経験したことになる、ということです。

葬られた

4節に「私たちは……キリストとともに葬られたのです」と書かれています。私たちはまだ生きていますが、身代わりであるイエスさまが死なれたので、私たちも死んだと見なされました。

復活した

そして、身代わりであるイエスさまが復活なさったので、死んだ私たちも復活しました。

その結果、イエスさまを信じる前の、古い人生は終わりを告げ、新しい人生が始まりました。4節の最後にこう書いてあるとおりです。「わたしたちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」。

2.新しい歩みをするため

新しい歩みとは

では、新しい歩みとはどういうことでしょうか。12〜13節にこう書かれています。

ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけませんむしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」。

義というのは、神さまに受け入れられるということです。神さまといい関係になるというふうに言ってもいいでしょう。

これまで、私たちは、神さまを無視して、自分がしたいこと、いいと思うことを行なってきました。しかし、これからは、「神さまが喜ばれることは何だろうか」という基準で行動するようになります。

これは罪?

このように、ホームページをアップしていると、相談や質問のメールをいただくことがあります。あるとき、特定の行動を挙げて、「これは罪でしょうか?」という質問が、案外多いことに気づきました。

たとえば、飲酒や喫煙、カラオケ、旅行、結婚前提ではない異性とのおつきあい、保険に入ること、日曜日に練習のある部活動、ブランドのバッグを買うこと、などなど……。

私のいつもの答えはこうです。「何が罪かを考えるのではなく、神さまに喜んでいただくにはどうしたらいいかを考えませんか?」

喜びと感動の人生

何が罪かを考える生き方は、さばきと恐れを前提としています。

しかし、どんな凶悪事件を起こした犯人でも、すでに死んでしまっていたら死刑にすることはできませんよね? あなたは、キリストとともに死んで葬られたので、もう罪の故に罰を受けることはありません。

キリストとともに新しい生き方を始めた私たちは、さばきと恐れを前提として、何が罪かとびくびくしながら生きるのではなく、自分とその手足を義の器として神さまにささげる生き方(13節)、すなわち「神さまに喜んでいただくためにはどうしたらいいか」と考えながら、喜んで生きていくのです。

私たちがどうしてそのような生き方をするかといえば、そうしないと罰を受けるからではなく、神さまが私の罪を赦し、愛し、祝福してくださっているので、その感謝と感動によって、そのような生き方を願うのです。

3.新しく歩もう

東日本大震災後、1ヶ月になる頃、すなわちだいぶ生活が落ち着いてきた頃から、私の心の奥底に、いろいろなものに対する怒りの感情がわき上がってくるのを感じました。

たとえば、テレビやラジオで展開されている「がんばろう福島」「がんばろう東北」のキャンペーン。

頭では「全国の人に応援されて、ありがたいことだ。自分たちは一人じゃないんだ」と思いながらも、どこかで「まだがんばりが足りないとでも言うのか。だからもっとがんばれと言うのか。だったら、もっと具体的に何をどうしたらいいのか教えてくれ」というような考えと、それに伴う怒りのような気持ちが、あのCMを見るたびにわいて来るのです。

あるいは、まったくリーダーシップを発揮していないように見える現政権や、避難した福島県人を差別する人たち、遠くに住んでいて地震や原発や避難指示や風評被害などについて人ごとのように論評している人たちに対しても、放っておくとふつふつと怒りがわいてきます。

気づくたびに、「いかんいかん。これは私の受け止め方がゆがんでいる」「怒っても、何も解決しない。それどころか、精神的にどんどん消耗してしまう」というふうに、気持ちを切り替えようとするのですが、なかなか難しいのです。

そんなとき、「そういえば、イースターだなあ」と思いました。そして、今回のメッセージが示されました。

私は、「怒ってはいけない。怒りは罪である」というふうに考えて、一生懸命自分をコントロールしようとしていました。しかし、どうもうまくいきません。

そうではなくて、私は神さまに愛されている人間だというところから始めることにしました。私は愛されている、守られている、祝福されている。「だから」新しい歩みをすることができるのだ、と考えるようにしたのです。

怒りを直接抑え込もうとするのは無駄でした。しかし、神さまに愛されていることを思い浮かべるとき、「まあ、いいや。そんな細かいことでイライラしてもしょうがない」と思えるようになったのです。

まとめ

イエスさまの復活のいのち。それは、あなたの中にも生きています。イエスさまと共に復活して、新しい人生を歩んでいるあなたは、具体的にどのような生き方を選びますか?

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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