荒野で叫ぶ者の声

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ルカによる福音書3章1〜18節

(2011.7.3)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

ヨハネのメッセージは、「自分の罪を悔い改めなさい」というものでした。そして、それこそが救い主イエス・キリストをお迎えし、この方に近づくための道だというものでした。

私たちが本当の救いや奇跡に満ちた祝福された人生を手にするには、救い主イエス・キリストによらなければなりません。そのイエスさまに近づくには、悔い改めが必要です。聖書が求めているのはどんな悔い改めでしょうか。

1.神と同じ視点で見ること

罪かどうかを決めるのは

罪とは、聖い神さまの定めに対する違反です。ですから、罪かどうかを最終的に判断するのは、神さまです。

人間同士が互いに比較して、あの人は聖いとか、あの人はだめだとか判断するのは、聖書が言う罪に関しては意味がありません。

まむしのすえたち

ヨハネは、人々に向かって「まむしのすえたち」と呼びかけました。創世記3:15では蛇の子孫と女の子孫の抗争が描かれています。女の子孫とは、やがて世に来る救い主のことです。そして、ここでの蛇は悪魔と同一視されていますので、「まむしのすえ(子孫)」という言い方は、「救い主に逆らい、滅ぼされる悪魔の一族め!」と言うに等しい悪口です。
まむしのすえ
何ともひどい言い方ですが、マタイの福音書の平行記事を読むと、特にこの言葉が、パリサイ人とかサドカイ人とかの宗教家たちに向かって語られた言葉だと分かります。

彼らは、自分たちが信仰の父アブラハムの子孫であることを誇り、アブラハムの子孫ではない外国人(異邦人)たちを軽蔑していました。それに対してヨハネは、そんなことは罪の前では意味が無いと諭しました。

神さまの要求する基準はパーフェクトであり、ユダヤ人であろうがなかろうが、宗教家であろうがなかろうが、その基準に到達できる人間などいません。聖書が言うように「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)のです。

ヨハネが、一般に非常にまじめで立派な宗教家たちを悪魔呼ばわりしたのは、神の前には自分のことを誇ることができないにもかかわらず、自分がさも聖い人間であって、神さまに愛されるのが当然であるかのように高ぶっていたからです。私たちも、聖い神さまに罪を犯している者だということを知らねばなりません。

罪の赦しを決めるのは

同時に、罪の赦しもまた、神さまがお決めになることだということも知らねばなりません。

たとえ人の目には「あの人が赦されるはずがない」とか、「自分のやってしまったことは、どんなことをしても赦されないだろう」とか決めつけるのは、これまた神さまに対する越権行為です。

あなたの罪は赦されています。イエス・キリストがあなたの代わりに罪の罰を受けて死んでくださったからです。たとえ、周りの人やあなた自身があなたを責めても、神はあなたを赦し、愛してくださっています。悔い改めとは、神さまの視点で自分のことを見て、罪や赦しを認めることです。
神の視点で見る
では、どうやって私たちは神さまの視点を知るのでしょうか。一つは客観的な聖書の言葉です。もう一つは祈りの中で語られる聖霊の声です。どちらもあなたが真剣に聞こうとすれば、必ず聞こえてきます。

2.方向を変えること

新しい生き方

ヨハネは、悔い改めにふさわしい実を結ぶように勧めました。たとえば、11節では、持っている人は持っていない人に分け与えることを勧めていますし、12〜14節では、不正な取り立てをしていた取税人にはそれをやめるように、また兵士たちには力ずくで金をゆすったり無実の人を責めたりしないように勧めています。

悔い改めとは自分を責めることではなく、方向を変えて、新しく生き始めることです。自分を責めるエネルギーを自己変革に用いなければなりません。
方向転換

行動が変わりますように

悔い改めについて考えるときには、自分の性格や性質そのものを云々するよりも、その性質によって表に現れてくる行動の方に着目し、その行動の方向性が変えられることを目指した方が有益です。イエスさまも「実を見て木を判断せよ」とおっしゃいました(マタイ12:33)。

性格上の欠点と思えることは、実は長所の裏返しです。たとえば優柔不断な人は慎重さを持っていますし、怒りっぽい人は正義感を持っていますし、頑固なのは「自分」という者をしっかり持っているということです。

聖霊は、ペテロの考えなしなほどの熱血漢な性格、パウロの迫害者になるほどの頑固な性質、使徒ヨハネのすぐ頭に血が上る感情的な性格を、取り除くのではなく、そのまま生かされました。

私たちも、悪い性質が取り除かれるようにと祈るよりも、キリストによって私たちの性格がいやされ、整えられ、本来あるべき働きを行なうことができるように、すなわち表に現れてくる行動が変えられるように祈りたいと思います。
性質でなく行動に注目

具体的な悔い改め

あなたは自分が罪を犯したと悔い改めなさいますか? では、具体的にその罪とは、あなたがどういう行動や態度、あるいは心の動きをしたということですか?

そして、その罪を悔い改めたということは、あなたがこれからどういう行動や態度をとるようになるということですか? 抽象的にではなく、ぜひ具体的に考えてください。

3.キリストの助けを期待すること

聖霊と火のバプテスマ

ヨハネは、自分のあとからやってこられるキリスト(救い主)は、「聖霊と火のバプテスマ」を授けてくださるお方だと言いました。

バプテスマというのは、パリサイ派やエッセネ派などの、ユダヤの宗教的グループが、入会の儀式として用いていたものです。バプティゾー(水などに浸す)という言葉から来ていて、その名の通り水に体を沈めます。

聖霊と火のバプテスマというのは、水にどっぷりつかるように、聖霊と火にどっぷりつかるというイメージです。

聖霊によって

イエスさまが送ってくださる神の霊、聖霊は、私たちを取り囲んで覆い、私たちの内側に充ち満ちてくださって、まるで火が金を精錬するように、私たちの内側をきよめ、鍛え、私たちが神の基準に少しずつ近づくことができるように助けてくださいます。
聖霊の導きによって
神さまの視点で自分を見ることも、方向転換して行動を改めることも、聖霊の助けなしにはできないことです。それができると思い上がっていたのがパリサイ人です。

落ち込んだとき

ちなみに、自分の本当の姿を知って落ち込むのも、一種の傲慢です。落ち込むのは、「本当の私は、こんなはずじゃない」という思い上がりがあるからです。
落ち込み
そうは言っても落ち込んでしまいますよね。それでいいのです。落ち込んだとき、あらためて「はい。とても認めたくないので落ち込んでしまいましたが、これが私です。こんな私ですが、イエスさまによって心から愛されています。そして聖霊さまが私を少しずつ変えてくださいます」と告白しましょう。

私たちも、心の底ではパリサイ人ではなかったでしょうか? 「ああ、また自分で自分の人生を何とかできると思っていた」……もしも聖霊がそのことをあなたの心に示してくださったなら、まずはそのことを悔い改めましょう。

まとめ

神さまの喜ばれる悔い改めを積み重ねましょう。それがイエスさまを知り、イエスさまによって人生が祝福に満ちあふれる秘訣です。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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