サタンの誘惑

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ルカによる福音書4章1〜13節

(2011.7.17)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

イエスさまは、公に活動なさる前、荒野に退いて40日間に及ぶ断食をなさいました。その直後、神の敵である悪魔(サタン)がやってきて、イエスさまを誘惑しました。ここから、私たちはどんなことを学べるでしょうか。

1.誘惑との戦い

皆さんは、誘惑を最近経験なさいましたか?

誘惑など感じたことがないというなら、ちょっと注意が必要かも知れません。私たちが、神さまのみこころにかなう生き方をしようとするなら、必ずサタンがそれを妨害しようとするからです。そして、おいしそうな餌をちらつかせ、私たちと神さまのみこころでない方向に引っ張っていこうとするはずです。

私はつい最近、ある失敗を犯しました。その時、迷惑をかけた相手に対して、「こういう理由で、仕方がなかったのです」と、言い訳をしたいという誘惑に駆られました。結局言い訳をせず、謝罪だけをしましたが、しばらく葛藤しました。

この世は、誘惑に満ちています。この世の中で、神さまのみこころに従い続ける決断をするのは、生やさしいことではありません。

イエスさまは、悪魔によって誘惑を受けますが、それに勝利なさいました。

私たちは、「イエスさまは神の子で、きよいお方なんだから、まるで自動的にサタンに勝利なさった」と、どこかで考えているかも知れませんね。しかし、イエスさまの勝利は、自動的に与えられたものではなく、激しい戦いの末に勝ち取られたものです。イエスさまは、私たちと同じように、誘惑との戦いを経験なさったのです。

ヘブル4:15には、このように書かれています。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」。ここで「試み」(口語訳や新共同訳では「試練」)と訳されている言葉は、実は「誘惑」という意味の言葉です。

イエスさまは、荒野だけでなく、生きていらっしゃった間、ずっとずっとサタンの誘惑と戦われました。サタンから来る誘惑との戦いがどんなに大変か、イエスさまは身をもってご存じです。自動的に与えられる勝利などないということ、そこにはつらい葛藤があるんだということを、イエスさまは体験的にご存じです。だから、イエスさまは、戦いや葛藤を経験している私たちの気持ちを、十分に汲み取ってくださいます。

イエスさまは、あなたの戦いをよくご存じです。あなたは今、どんな誘惑の葛藤に苦しんでいますか?

2.イエスの受けた誘惑

イエスさまが荒野で受けた誘惑は3つでした。それは、一見私たちには無関係のように思えますが、実は私たちも形を変えて受けている誘惑なのです。

石をパンに変えろ

一つ目の誘惑は「石をパンに変えろ」というものです。イエスさまはお腹をすかせていました。パンがあればいいですね。イエスさまだけではありません。世の中には、お金が無くて、あるいは飢饉や戦争などで、食べるものを手に入れられない人たちもたくさんいました。石をパンに変えることができたなら、どんなにその人たちが助かるでしょう。

しかし、イエスさまは、このサタンの提案を退けます。「人はパンだけで生きるのではない」。そうですよね、ご飯だって、うどんだって、おかずだって必要です……と、そういうことではありません。

「神の口から出ることば」これが必要なんだとイエスさまはおっしゃいました。「パンは大事だ。しかし、パンよりももっと大事なのは、パンをくださる神さまではないか」とイエスさまは反論なさったのです。

サタンは「あなたが神の子なら」と言っています。これは「あなたは神の子なんだから」という意味です。イエスさまには、石をパンに変える力が確かにあったのです。それを使えと。つまり、サタンは、「天の父なる神さま抜きで、自分の力だけで、偉大な救う働きをしてみろ」と誘惑したのです。

皆さんは、石をパンに変えろなどとは誘惑されないかも知れません。しかし、「神抜きで、自分の力だけでやってみろ」という誘惑は、毎日のように経験していらっしゃるのではないですか? いや、誘惑されていることすら気づかないくらい、いつの間にか神さまに信頼することを忘れさせられてはいませんか?

サタンを礼拝せよ

二つ目は、「サタンを礼拝するなら、世界のすべての権力と栄光をやる」という誘惑です。

サタン礼拝など話になりません。しかし、「繁栄」とか「安定」とかは、私たちにとって大きな誘惑になり得ます。

繁栄や安定を求めること自体は悪くありません。それが与えられたとき、感謝することは良いことです。しかし、それが自分の力によってもたらされたような気になったり、神さまへの感謝を忘れてしまったりするなら、それはサタンを礼拝しているのと同じことなのです。

困難の中にいるとき、私たちは神さまに頼りますね。しかし、問題が解決したとき、いつの間にか神さまを忘れてしまわないでしょうか。10人の病人をイエスさまがいやしたのに、感謝のため戻ってきたのは1人だったという話がありましたね。

神さまに大いに期待して、大胆に祈りましょう。そして、問題があるときも、解決したときも、その跡も、ずっと神さまへの信頼と感謝を忘れないでいましょう。

神を試せ

三つ目の誘惑は、高いところから飛び降りてみろというものでした。なんとサタンは、「聖書には神が守ってくれると書いてあるでしょ?」などと、もっともらしく聖書を引用して誘惑します。これに対して、イエスさまは、「神を試みてはならない」と、聖書を引用して、これを退けました。

神さまを試みるとはどういうことでしょうか。それは、自分で勝手に、「神さまは、こういうふうに働くはずだ」と決めつけ、「その通りにするなら、信じてやってもいい」という態度でいることです。これは、神さまを自分の欲求の枠に当てはめる態度です。神さまの主権を侵してしまうことです。

神さまを信頼して、「お守りください」「こういうふうにしてください」とお願いすることは良いことです。しかし、「本当にそういうふうにしてくれるかどうか試してみよう。そうしてくれたら信じてやる」……これは良くない態度だというのです。

神さまを、自分の欲望を満たす手段にしてしまう。神さまに対して、私たちに仕える奴隷ような扱いをしてしまう。これもまた、私たちがいつも経験している誘惑ではないでしょうか?

こうしてみると、イエスさまが闘われた誘惑は、私たちにも決して無関係ではないということが分かりますね。

3.勝利の主

そして、イエスさまは、この誘惑に勝利なさいました。十字架に至るまで、多くの誘惑を受けながら、ことごとくサタンの攻撃をはねのけました。私たちが信じているイエスさまは、誘惑に勝利なさった方なのです。

 私たちは、その勝利の主であるイエスさまの御霊をいただいています。

 イエスさまが、いつも荒野に退き、父なる神さまに祈り、聖霊の満たしを求められたように、私たちも父に祈り、聖霊の満たしを求め、「勝利の主であるイエスさまの勝利を、私にも与えてください」と願いましょう。

まとめ

私たちの回りには、サタンの誘惑が満ちています。それを賢く見分け、勝利を与えてくださるように、祈り続けましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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