メシヤの秘密

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ルカによる福音書8章17〜16節

(2011.8.14)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

今日の箇所で、重い皮膚病にかかっていた人がいやされました。しかし、イエスさまはこのことを誰にもいうなと釘を刺しています。実は、今日の箇所だけでなく、他のいろいろな箇所でも、奇跡を行なった後にそんなことをおっしゃっているのです。

結果として、人々は禁じられたにもかかわらず、あちこちで奇跡の話を言いふらし、イエスさまの元には数千人の群衆が集まってきたわけですが。すると、イエスさまは、すっと身を隠したりなさっておられます。

どうしてでしょうか。いい宣伝の種になると思いませんか? 実際、新興宗教の多くは、奇跡やいやしを売り物にして成長していきました。イエスさまもその手を使えばいいのにと思いませんか?
びっくり!
学者たちが「メシヤの秘密」と呼ぶこの行為には、実は私たちの信仰生活にとってとても大切な教訓が隠されています。

1.秘密を命じた理由

当時のメシヤ観

理由の第一は、当時の人々のメシヤ観です。メシヤとは、旧約聖書が登場を約束し続けてきた救い主(ギリシャ語ではキリスト)です。この救い主は、罪からの救い主です。罪のため、私たち人類と神さまとの関係が悪化してしまいました。しかし、メシヤは私たちの罪を赦し、私たちを神さまの子どもにしてくださいました。

しかし、この頃のイスラエルはローマ帝国の属国として苦しんでいました。ですから、いつの間にか、メシヤ(救い主)は、ローマ帝国を滅ぼし、イスラエルの国を再興する革命家としてのイメージが定着してしまっていました。罪から救い出し、神さまと自分たちとを結びつけてくださるお方というイメージでは、かならずしもなかったのです。

もしも、「ナザレのイエスは奇跡を行なう人だ」という評判が立ってしまうと、人々は興奮して、イエスさまを王さまとして担ぎ出すかもしれません。すると、ローマ帝国や、ガリラヤ地方を治めていたヘロデ王ににらまれて、非常に伝道活動がやりにくくなるかもしれないのです。だから、イエスさまは、ご自分が王さまに祭り上げられそうになると、すっと身を隠しました。

奇跡は信仰を生みにくい

「秘密にしろ」と命じた理由が、もう一つあります。実は、奇跡によって集まった人たちは、本当の信仰を持ちにくいからです。

奇跡を見たら信仰が強まると思いませんか? しかし、事実は必ずしもそうではないようです。モーセの時代、イスラエルはものすごい奇跡をたくさん体験しました。それどころか、毎日奇跡を体験していました(毎日、天からマナと呼ばれる食べ物が降ってきました)。しかし、イスラエルの民は、ちょっと大変なことがあると、神さまの助けがあることを忘れて、「こんなことなら、エジプトにいた方が良かった」とつぶやいたのです。

マタイ11章で、イエスさまは、コラジン、ベツサイダ、カペナウムといった町々について嘆いています。「あなたたちの町で行なわれたような奇跡が、ツロ、シドンというような外国の町や、旧約聖書の悪名高いソドムの町で行なわれたなら、彼らはすぐに悔い改めたはずなのに、あなたたちは奇跡を見ても信じなかった」と。

あるとき、イエスさまは5000人の人たちを、5つのパンと2匹の魚だけでお腹いっぱいにしたことがありました(つまり、食べ物が増えたのです)。その後、イエスさまは別のところに移動しましたが、人々はついていきました。それを見て、イエスさまはおっしゃいました。「あなたたちが来たのは、しるし(イエスさまが救い主だという証拠)を見て信じたからではなく、パンを食べて満腹し、またパンが欲しくなったからです」。

奇跡を見ることは、必ずしもイエスさまを救い主だと信じる信仰へと導かないのです。むしろ、イエスさまを奇跡の自動販売機のように見なす考えを生み出す危険があります。そのような考えに陥った人は、自分が神さまに仕え、神さまに導かれて生きるというよりは、神さまの方が自分に仕え、自分の都合に合わせてくれることを望みます。
メシヤの秘密
ですから、イエスさまは奇跡によって人々を集めようとはしなかったのです。もちろん、傷つき苦しんでいる人を助けるために、奇跡の力を使われましたが、宣伝の道具にされることは、断固抵抗したのです。

2.罪の問題

罪とは何か

イエスさまが望まれる信仰は、イエスさまを罪からの救い主であると信じることです。

では、罪とは何でしょう。罪とは、自己中心のことです。神さまではなく、自分が心の王座に座ることです。

罪は、アダムとエバから始まりました。彼らは神さまが「これだけは食べてはいけない」とおっしゃった木の実を食べてしまいました。「自分たちはこれを食べたい。食べても問題ないだろう。それどころか、神さまのようになれる」と思い、その自分の思いを神さまの思いよりも優先させてしまったのです。

彼らの子孫である私たちにも、この自己中心性は引き継がれています。「私は、私の好きなことを、好きなときに、好きなようにやる。神は、困ったときだけ奇跡を行なって助けてくれればいい。それ以外は、私のすることにいちいち口を出すな」。この、「私が、私が」という自己中心こそが、罪の本質です。

奇跡を求めることは罪ではない

奇跡を見ること、奇跡を求めること自体は罪ではありません。

私たちの多くは、何らかの困った状況に陥り、悩み、そうして教会の門を叩いたのではないでしょうか。「金持ちが救われるのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」とイエスさまはおっしゃいましたが、何も問題を感じていない人が救いを求めるのは、非常にまれです。

問題のただ中で、イエス・キリストならば、聖書の神さまならば、この問題を何とかし、自分を助けてくれるのではないか……そういう思いを持って、イエスさまに近づくのは自然なことです。

岩地に落ちた種にならないために

最初はそれでいいのです。しかし、いつまでも奇跡を求めるだけの信仰生活なら、それは不毛だと言わざるを得ません。マタイ13:5-6で言われているような、土の薄い岩地に落ちた種のようなものです。そのような種が、日が昇るとすぐに枯れてしまうように、自分自身が犠牲を払わなければならないような状況になると、すぐに信仰を捨ててしまうのです。
岩場の上の種
イエスさまは、奇跡を求めて集まった群衆を愛されましたが、彼らに身を任せるようなことはなさいませんでした。イエスさまが信頼なさったのは、一握りの弟子たちでした。イエスさまと共に生き、イエスさまのように生きることを求め、イエスさまの働きを手伝いたいと願った人たちです。彼らも欠けの多い人たちでした。全員イエスさまを裏切りました。しかし、それでも彼らを通して、イエスさまは世界をひっくり返し、神さまの栄光を現したのです。

3.自己中心からキリスト中心へ

キリスト中心の信仰へ

そういうわけで、私たちは、日々自己中心的な信仰から、キリスト中心の信仰へと成長していかなければなりません。そのカギは悔い改めです。

もちろん、イエスさまに祝福を求めること、それはこれからも大切にしてください。どこまで行っても、私たちは神さまから自立して、自分だけで満足を得ることはできないのです。神さまも、あなたを祝福したいと願っています。たとえ、奇跡を行なってでも。ですから、奇跡を求めてもいいのです。

イエスがあなたに何を求めるか

しかし、あなたがイエスさまに何を求めるかばかりでなく、イエスさまがあなたに何を求めておられるかも、大切にしましょう。イエスさまは、あなたに何を求めておられますか? 何を語っておられますか? 何を約束しておられますか? 何を信じて欲しいと願っておられますか?

そもそも、最近の私たちは神さまの声をじっくりと聞こうとしてきたでしょうか? もしも、そうでなかったのなら、悔い改めなければなりません。

カギは悔い改め

 今日のショートエッセイをお読みください。

悔い改めは、自分を責めることではありません。今までの自己中心的な信仰の態度から、キリスト中心に生きる信仰の態度へと転換すると決意し、告白することです。
キリスト中心へ
すると、神さまとあなたとの間の絆は、さらに強固なものになります。奇跡が現実に見えても見えなくても、いつも「神さまがついているから大丈夫」と思えるようになります。むしろ、あなた自身が奇跡の発信地となり、他の人々を助けることができるようになります。

まとめ

この1週間、イエスさまがあなたに何を語り、何を望んでおられるかを黙想しましょう。そして、それを信じ、実行する力を聖霊さまに求めましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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